序破急で例えはするが急ともならぬ緩やかな急用
「あんた日本人だよね?」そう云ったのは、予約をいれておいた旅館の女将だった。
マネキン運転手は無事に姶良町の検閲を抜け、僕を旅館まで届けると、出迎えた女将に僕の荷物を預け、さっさと鹿屋への帰路についた。
表情豊かな女将は、車回しをいそいそ回るタクシーの背中を冷ややかにみると「本当、無愛想だよ」と、大袈裟にまるで野良犬を追い払うように手を振った。
その後、ようやく僕の姿を目に入れた女将は、しげしげと珍しいものを見るよう、そう訊ねたのだ。
「ああ、どうでしょう?」僕は曖昧な答えを返した。「国籍は勿論、日本ですけれどね」僕は続けていうと、少々困った風に、誤魔化す風に、頭を掻きながら補足をした。
「まあ、なんでも良いんだけどね。こんな田舎に旅行客なんて、とんと珍しいし、あんたみたいな若いのは、もっと珍しいからさ。余計な詮索だったね」女将は、取り繕うように片手を挙げ云った。申し訳ない。そう云っているのだ。
「全然、構いませんよ」僕はもう一度笑うと「で、お部屋は?」と、少々女将を急かした。僕は物珍しい旅行客で外の話の宝庫。根掘り葉掘りと、東京のことや、それこそ鹿屋のことを訊ねられても、少々困ってしまう。それに、なんといっても夕飯まで少し眠りたい。
「ああ、そだったね。そっちの大きな荷物は運ぶよ」愛想の良い女将は、もう一度しげしげと僕を眺め、リモアのキャリングケースを指差した。
「ああ」女将の視線に気がつき、僕は女将の好意に甘えることにした。自宅から成田までは自分で運んでいるわけだから、荷物が苦であることは全くないのだが、ここは女将の顔を立てることにしよう。
※
部屋に通された僕は、大袈裟に疲れた風を装いながら、大きく開いた西側の窓枠前にあった椅子へ、どっと腰を降ろし「ありがとうございました。助かります」と、荷物を部屋へ運び込んだ女将へ礼を伝えた。
「夕飯は十八時頃だけど、大丈夫かい?」どうにかして話をしたいのだろう。女将は顔を皺くちゃにして云ったのだが、申し訳ないが「大丈夫です。そしたら、それまで少し眠りますね」と、目を擦って、もう一度疲労感をアピールしておいた。実際、疲れてもいるし、早いところ一人にもなりたかったのだ。女将はとうとう諦めトボトボと部屋を後にした。
大きな窓を開けると、鹿屋では耳にしなかった蝉時雨が、うわっと聞こえてきた。風が吹き込み、それまで気にもしなかった今となっては珍しい畳の青い匂いに気がついた。こんなに綺麗に残っている畳の部屋は珍しいのではないだろうか? 東京ではもう目にすることは殆どないだろう。あるとすれば、爆心地近くの瓦礫の下で黒焦げたそれが見つかるくらいだ。
気が利くことに、冷房をいれてくれていたので部屋は快適であったが、僕はその心遣いに幾ばくか、申し訳なさを感じながらもリモコンの「切」ボタンを押下した。
もう一度、椅子に深く座り、開けっぱなしの窓に網戸をすると、やかましい蝉時雨と吹き込む微風の中、目を瞑った。もわっとする空気のなか、時折吹き込む風は、なかなかに風情があるように思えた。
明日の朝にはここら辺一体も歪みに侵食され廃棄される可能性がゼロではないのだ。愉しめるうちに、この贅沢を味わっておかなければ、きっと後悔をするだろう。
※
外からコオロギの音色が聞こえてきた。
どうやら陽が落ちてくると気温も下がり、草むらに隠れた楽団が夕刻を知らせたのだ。すっかりと寝入ってしまっていた僕は目を擦って瞼を開くと、座敷の机へ綺麗に配膳された夕飯を目にした。女将は「気持ちよさそうに寝ていたものだから」と申し訳なさそうにしたので「ありがとうございます。美味しそう」と、椅子から軽快に腰を上げ座敷へ移動した。
「そうだ。あんた左利きでよかったかな?」女将は僕の右腕の方を一瞥すると、訊いてよいものか迷った挙句、意を決したように口にした。
「ええ、左でちゃんとお箸使えるから、大丈夫」旨そうな旅館料理を目の前に僕は、行儀悪く箸をカチカチと鳴らしてみせた。「そうかい、ならよかった」無邪気にそうした僕に女将は含み笑いながら返したが、どうやら、僕の右腕に興味があるようだ。
正確に云えば、もうそこにはない右腕の経緯。
それに興味があるのだろう。
日本では今でもチップを渡す風習はあまりないし、心付けはあったにせよ今は電子決済が主であるのだから、そうすることもできない。そう。現金を僕は持ち合わせていない。であればと、チップないしは心付けの変わりにと経緯を女将に話した。
※
親父は僕が大学に進学するのを見届けると、鮮やかに失踪をしてみせた。それが失踪と云って良いのかは判らないが、とにかく「探さないでください」とふざけた手紙を書き残し帰ってこなくなったのだ。
だが、しっかりと我が家の銀行口座には定期的に、生活費や学費が振り込まれたから、その頃には僕の妻、つまり当時の彼女と同棲をすることも苦ではなかった。
親父が何故そうしたのか判らないが、でも、思い当たる節があるとすれば、母さんのことだった。母さんは、その頃には居なかった。僕が高校三年の頃、生存圏にあったはずなのに母さんは侵食され獣化すると、僕の右腕を喰い千切り逃亡をした。
僕と妻の付き合いは高校二年の頃からだった。だから、妻はそれを知っている。その現場に居合わせたのだ。凄惨な事故、事件を目の当たりにし一時は正気を失い、妻の家族からは遠回しにそっとしておいて欲しいと告げられ、僕は心を閉ざした。
親父はそれは、しきりに自分のせいだと云った。母さんが侵食された責任も、僕と妻の関係が絶たれたことも全て自分の責任だと。自分が望んではならないことを望んだ結果だと云った。
それから暫くしてからだ。
不意に妻の方から連絡が来ると、僕と妻の関係は、それまで通りとはいかないまでも、再び交際をするようになった。親父は何も云わなかったが、どうやら僕の知らないところで、妻の両親と話をしていたようだ。妻の心傷が癒えることはないだろうが、それでも妻が僕に会いたいと云ったときは、妻の両親はそれを止めることはなかったそうだ。そして僕らは大学へ共に進学をすると、親父は何を想ったのか置き手紙をし、家を後にしたのだ。そして、その結末はといえば、どこぞの国の教会の地下で遺体が発見され奇妙に幕を閉じる。
※
「随分と辛いことを——」申し訳ないと女将は、額に皺をよせ悲しげに云った。好奇心が人の心を抉るような出来事は、きっと女将の佇まいから察するに、なかったのだと思う。つまり良好で安楽からな人間関係だ。僕がここへやってこなければ——本人が気づくか気づかないか、ということもあるが——そんな、経験をすることもなかっただろう。だから僕は「気にしないでください。僕もそこまで思い悩んでいるわけじゃないので」と気遣った。
それを知ってか知らずか女将は小さく微笑んだ。それは彼女なりの、自分よりも若い者に気を遣わせてしまったことへの返礼なのだろう。
「そう云えば、あんたの母さんは、べっぴんさんだったんだろうね」去り際、突飛に女将が云った。
「え?」僕のその疑問符は、なぜそう想うのか? ということで女将もそれは承知だと言葉を続けた。「いや、ほら。あんた随分と綺麗な顔をしてるじゃないか。その髪も地毛なんだろ? その赤目も 似合っているというか、板についてるって感じでね。最初見た時はびっくりしたよ日本人だって聞いてたからさ」その言葉に、まだ追いつかない僕に気がついたのか女将は「男の子は母親に似るもんなんだよ」と、僕が合点のいくよう締め括った。
※
宿での夕食を済ませ、ゆっくりとした翌日。
キャリングケースから鈍く輝く外套を取り出し羽織った僕は、これから向かう場所で必要な装備を内側に仕込んだ。最後に潜水用ゴーグルにも似たヘッドセットを首に引っ掛けると部屋を後にした。
鍵は女将に預け、夕方には戻る予定だと告げた。女将は、その際に僕から渡された紙切れに目を落とすと「これは?」と訊ねたので、もし僕が明日の朝までに戻らなければ、そこの電話番号にそのことを連絡して欲しいとお願いをしておいた。念の為だ。今から向かう先は生存圏ではなく、汚染区域なのだから。
昨夜は妻にも連絡をいれ、このことを伝えてある。もっとも電話をするタイミングがおかしいと、突っ込まれたのはさておき、そんな事態にならないよう妻も案じている。だから、とにかく無事に帰ることだけに集中をしよう。でなければ、産まれてくる子にも申し訳がたたない。
それにしてもだ。親父が何故こんな面倒なことを仕込んだのか。今更ながらに、それが不思議で堪らない。まるで夢の中での出来事のようだ。
何はともあれ、地図の場所へ向かう。
旅館から一時間ほどあるけば、山の中腹の目的地、古びた屋敷へ到着するだろう。
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