序破急で云えば破とも呼べないとるに足りない破片
子供の頃。
親父に連れられ来ていた頃。
タクシーの車窓に流れる風景は茶色や瓦色、鼠色に緑色なんてちょっと古惚けてはいるが暖かさを感じるものだった。少し行けば河原が見えて、そこには水色、蒼色が踊り込んでくると記憶している。
だけれど、今眺めているそれは、ホワイト、ライトグレー、アイボリー、チャコールなんて少々寒々しい色が流れて行く。街行く人影はまばらだが、爺さん婆さんの姿はあまり見かけない。なにか都市感な既視感。僕はそれに、どこもこんな風になってしまうのだろうな。と、妙に納得をしていた。
バックミラー越しにマネキン運転手と目が合った。
「そろそろ出ますけど、大丈夫ですか?」やっぱり、くぐもって聞こえる運転手の声が訊ねてきた。「はい。お願いします」僕はマネキンさんの額らへんに目を合わせ、そう答えた。
※
しばらく行くと、ちょっとした風景の変化と一緒に空気が澱んだように感じた。
例の河原が近くなると、すっかりと立派な出来栄えになった白い橋に差し掛かった。橋桁付近では、規則正しく重機が工場の一部のように動いている。きっと寸分違わず砂利を整え、防壁を築いている最中なのだろう。重機の周囲に見えた人々も、キビキビと規則正しく重機の作業を補助をしている。そう規則正しく。
※
タクシーの小さな窓から空を見上げた。
相変わらず入道雲はもくもくと、空を埋め尽くしている。でも橋に差し掛かる頃には、次第に蝉の声は小さくなってきた。聞こえるのは重く乱暴な重機がたてた仕事の音だ。
橋を向こうへ渡り切ろうとする少し前で、タクシーが速度を落とした。
橋の左側で黒ずくめの男が手を振っていたのだ。警官のようにも見えたし警備員のようでもある、その男は傍に停まったタクシーへ近寄ると、マネキン運転手に話しかけていた。
橋の下から聞こえる重機のおかげで、何を話しているのか全然聞こえなかった。だけど、僕には大凡の内容は予想がついている。
※
僕が産まれるずっと前のことだ。
東京乃木坂で原因不明の大爆発が起こると、近くに所在した医療機関が巻き添えを喰い崩壊したのだそうだ。事がそれだけであったならば、良くはないがまだマシな方だ。悪い事に、それを発端に世界は随分と様変わりした。
今、僕が生きているこの時代は、その延長線上にある。では、何が変わったのか? 随分と様変わりしたとは云ったが、世界そのものはそこまで変わっていない。
大きく変わったのは「ヒト」と呼ばれる種を形成する細胞。いや、もっとその外側の僕らの言葉で云えば「世界因子」が大きく変わった。
それに異常が見られるとヒトは次第に在り方を変え、そのうちに狂った獣のようになってしまう。
※
「お客さん、ほら、許可証だして」
マネキン運転手はそう云うと、外の男を指差した。
後部座席の窓がスーっと降りると、こちらもマネキンのように青っ白い黒ずくめが、ヌラリと顔をと手を突き出し「早く見せてくれ」と催促した。
僕は先程、運転手に見せた紙切れを手渡し、暫く答えをまった。マネキン黒ずくめは、紙切れを丁重に受け取ると、背を向け、なにやらブツブツと口にしている。「はい。ええ、そうです。正式なドキュメントです。ええ、耐性には問題ないかと」
つまりだ。僕は橋の向こうへ渡り、汚染区域に出ても問題ないと云うことだ。
地球上のあらゆる区域に広がった歪みは「世界因子」を変えてしまう。だから、「ヒト」はそれに必死に抗い、防壁を築き生存圏を護るのだ。
そして、橋の先は汚染区域で、目的地である姶良町は鹿屋からほど近い生存圏。そこまでタクシーで向かうというわけだ。「ありがとうございました。お気を付けて」マネキン黒ずくめは、そう云うと最敬礼でタクシーを見送った。
「なあ。お客さん。面倒事は御免だぜ」
運転手は静かにタクシーを転がすと、とうとう白い橋を渡りきり向こう側の田舎道へ出た。
蝉の声はもうしない。空を見上げてみると入道雲も、青空も見えなくなった。木々が落とした夏の木漏れ日も橋の向こう側の話だ。
僕はフと振り返り渡ってきた橋に目をやった。
橋の向こうには、見事な夏が広がり入道雲はこれでもかと空へ雄大な姿を広げている。「この辺じゃまだ見かけないが、気を付けてくれよ」マネキン運転手が気にしているのは、例の獣化した「ヒト」のことだ。
「大丈夫ですよ。何かあればちゃんと機体は護りますよ」僕は、声だけで不安を覗かせた運転手に笑ってみせた。
「そうかい? 頼むよ」
どうやら不安は、払拭されない運転手はバックミラー越しに僕の顔を一瞥し、次に身体を見回して「本当、頼むよ。コレ高いんだからさ」と、もう一度不安げに云うと、聞こえることを憚らず一段と深々と心底とくぐもった溜め息を漏らした。
そうやってマネキン運転手は、危険物のような僕をさっさと運んでしまおうと、タクシーを転がした。
田舎道の空は鈍色の暗雲がびっしりと敷き詰められ、時折り、蒼い繊条を走らせた。
そこには、すっかり夏の空はなかった。
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