4.再度の失踪(トゥレル)

兄のファイが見つかった、と聞いた時、僕は「逃げ切れなかったか」と、彼のために、悲しんだ。しかし、ニルのためには良かった、と思った。


ニルは同じ学校に通う、タラミアという、南方系のはきはきした女性と付き合っている。どの程度まで考えているかは判らないが、兄が見つからなければ、ニルが跡継ぎになるだろうし、そうなれば、彼女とは別れさせられたかもしれない。


父は好感を持ちそうだが、祖母は、生意気だ、と嫌うタイプの女性だ。




末のケイネブは性格は素直だが、あまり頭は良くない。しかし実家の家業は好きで、子供の頃から、勉強するより手伝いたがった。僕は母方に引き取られ、幼児期の彼はあまり知らないが、「約定」通りに、三ヶ月に一度、父方の実家で会っていた。医学校に行ってからは年に一度くらいにはなったが、何故か、ケイネブもジュンナも、二人とも、僕とは母親が違うにもかかわらず、会えるのを喜んでくれた。根が素直な弟妹達だった。


だが、二人の扱いは、祖母にとっては、あくまでも、「兄の持ち物」だ。兄が居なくなった時でも、ジュンナに婿を取る、とか、ケイネブに継がせる、という発想はなかった。もちろん、次男としてニルがいるのだから、彼に、と考えるのは自然だが、父は、難関の法学校に、大した勉強もしないで、あっさり受かったニルが自慢だったので、辞めさせたくなかった。


兄も頭は良かったが、後継ぎなので、「悪い虫が着かないように」と、都会の学校には行かせず、教師を招いていた。(剣だけは、兄が譲らなかったので、月一回ではあるが、キナンまで習いに行っていた。)


だが、兄が実は優秀であろうとも、世間的には、都会の「難しい学校」には行けなかった、と見なされる。そういう風潮になっていた。だから、「優秀の証明」であるニル(ついでに僕)には、学校を辞めさせて、家を継がせる、というのは、父が嫌がった。祖母は、「うちの血が流れているだけで立派なのだから、他は余計」という考えだが、他人から僕とニルが誉められるのは、悪い気はしなかったようだ。


だが、そうすると、ますますケイネブしかいないのだが、祖母は、父の妻たちの中で、ケイネブの母を一番嫌っていたらしく、父も兄が居なくなってまだ二年ということもあり、中々踏ん切りをつけられずにいた。


だが、何故か、兄の捜索は、真ん中のポヅまでしかしなかった。母方の親戚はハノンなのだから、問い合わせればいいだけなのに、田舎者の自尊心が、家族愛に勝ったらしい。




ニルは、頭はいい癖に、父や母の、この郷里に対する歪んだ感情に鈍く、「危機意識」が薄い。




兄が傭兵をしていた、と聞いた時は、身を隠すには最適だが、そこまで強いとは思わなかったので、意外だった。


シュクシンは好戦的な国として名高いが、兵士のレベルと士気を保つために、徴兵制は取っていない。戦闘は主に王都ハノンのある東部であり、西部は商業と貿易中心で、平和だ。だが、傭兵で活躍して正規軍に入り、さらに活躍して出世すれば、将軍、元帥になって、王女と結婚するのも夢ではない。今のサキノ元帥は、現にそうして、貧しい孤児の身から出世し、美貌で有名なマハール王女を妻にした。そのため、王都ハノンには、立身出世を夢見て、傭兵になりたがる若者が、全国各地から集まってきた。


剣が師範クラス、というのは父から聞いていたが、兄は性格が兵士向きではない。なのに、二年で傭兵から正規軍に入れた。伯父のセトゥさん(シーチューヤの皇都みたいな名前だが、ソウエン系らしい)は、軍に搬入する具足の製造を行っていて、ハノンでは力があるが、シュクシン軍には、縁故採用はない。上流層は傭兵にはならず、士官学校から正規軍に行くルートもあるが、それも成績優秀な者だけだ。そこで落とされたら、元帥の孫でも、傭兵から始めるしかない。が、上流層はそこまでして軍人にはならない。


兄はきっと、家を離れたくて、必死だったんだろう。




記憶を無くしている、というのは半信半疑だった。一瞬芝居を疑った。「責任逃れ」ではなく、家を避けたいのだと、「自然に」思ってしまったからだ。


しかし、ニルや父から話を聞き、兄に会って見ると、本当に記憶がない、しかも、かなりのレアケースになっている事がわかった。


頭部に損傷がなく、外傷は胸の傷だけだった。そうは言っても、心臓を槍に貫かれていた、ということだから、普通なら即死だ。傷は見せてもらったが、突剣(コーデラの古式剣術ていう競技で使う剣。細身剣とも言う。)程度の太さの針状の物が、第六胸骨の脇から、「上手く隙間を縫って」、貫通していた。これで骨は愚か臓器に損傷がない、とは信じられなかった。奇跡と言ってもいい。(不謹慎だが、兄が歳を経て亡くなった後で、是非解剖させて欲しいと思った。)



しかし、奇跡はそれだけではない。


記憶がないなら、外傷がなくても、頭を打っている可能性が高い。なのに、記憶障害の器質的な要因から、当然予想される症状がなかった。


まず、能力は保っていた。身体的な能力だけでなく、言語能力、絶対に損なっていると思われた認識能力や記憶力(昔の記憶はないので、新しい知識を覚える方だが。)もだ。


シュクシン語を喋った時に、ソウエン訛りが入っていたが、これは、東部のハノンにいたからだろう。最初に、コーデラ語をしゃべったと言うが、傭兵になる時に、「ファイストス・ハイドロス」と偽名を使い、コーデラ移民としていたらしいから、そのせいだと思う。兄は語学は非常に得意だった。


しかし、家族の顔や名前、兄の母方の親戚、ハノンでの知り合い(僕とトゥレルの母方の身内含む)や、農業関係の知人、町の人、さらに軍関係者の顔も名前も忘れていた。死んだ直接の上官と、同じ隊の仲間の記憶は僅かにある。何故か、元婚約者である、ホンナの事は覚えていた。とはいえ、大体の容姿と存在くらいで、名前は忘れていた。


父は、兄がホンナをハノンに呼び寄せるつもりだった、と聞いて、喜んでいた。婚約は解消してから出ていったので、これは信じがたかったが、確かに、ホンナは代わりの縁談はみな断っていた。僕はホンナが、父親の助手のカロンを好きで、なるべく独身でいたがってるのだと思っていた。カロンは、ヒンダ内紛から、赤ん坊の頃に母親と逃げてきた。ラマツ州の政策で、田舎に農地をもらったが、母親は直ぐに死んでしまった。ホンナの父親は、そこの村長と知り合いで、話を聞いて、同情して引き取った。学校は法学校で、ニルほどではないが、成績も優秀だった。祖母に言わせると、孤児に学校は贅沢品、だから生意気に身の程をわきまえない、ということになるらしい。だが、カロンは、むしろ穏やかで、へり下った人物だ。


僕は、兄より、彼のほうが、ホンナには合う、と思っていた。兄とホンナは、幼馴染みで、仲は良かったが、恋愛感情は無さそうだったからだ。


ニルは、兄が、彼女を偏屈な土地から連れ出したくて、わざと


と婚約解消のふりをしていたんだ、と思ったようだが、僕は怪しんだ。


ただ、他に恋人がいた様子もなかった。記憶はないのだが、兄の帰郷は注目されていた。もしいたら、その時に名乗り出るだろう。母方に引き取られて別居している僕より、同居していたニルが「他は見当が着かない」と言っていた。


フロレスは狭い町、婚約者のいる男性が、隠れて女性と付き合えば、まず、ばれる。だが、仕事で泊まり掛けでキナンやポヅに行くことは、よくあった。


僕は、これらを踏まえて、父とニルに、


「ファイ兄さんが大切なら、くれぐれも、お婆さんが、余計な事を兄に吹き込まないように、注意して。偽の記憶を植え付けてしまう事もあるから。」


と念を押した。二人とも、わかった、と言いはしたが、ニルは良いとして、父の「わかった」は、今一つ、信用できなかった。


記憶を取り戻したら、兄は、また家を出るかもしれない。その時に、家を出て行けない事態に陥っていたら(具体的にはホンナと結婚など。)、喜ぶのは祖母だけだ。父はジュンナの死後は一応、考え直してはいる。だが、どうせ、ぎりぎりの所で、祖母には逆らえない。




僕もニルも学校が有るので、実家に入り浸りという訳には行かない。ニルは学校は「後は卒業するだけ」、仕事はキナン市か州の役所か、希望するほうに就ける状態なので、休みには帰省して気を付ける、と言った。しかし、休みを全部実家に当てたら、タラミアとの仲も心配だ。


兄が心配なので、僕も出来るだけ顔を出すことにした。


幸いにして、ホンナの両親は、祖母に乗るような人ではなく(昔はともかく、ジュンナの死や何かで目を覚ましていた。)、ホンナ自身も、祖母の攻勢には、「記憶が戻ってからのお話です。」と答えていた。


だが、やはり祖母は祖母だった。最初、兄が奇跡的に無事だった事を自慢にしていた。うちの血筋は違う、という訳だが、これはさすがに起きた事の悲惨さを考えたのか、直ぐに言わなくなった。


次は、案の定、ホンナの事だった。役所の知り合いに挨拶にいった時に、代わりに婚姻届けを出そうとした。しかし、兄は二十四、彼女は二十歳、親でもは代理で届ける事は出来ない。まして祖母だ。さらに、ジュンナの一件があってから、フロレスの役所は田舎ながら、新郎新婦不在の婚姻届けは、両方が十八歳以下でも、一律不受理という姿勢を貫いていた。これは、人身売買が多発したり、幼児婚礼の悪習のある地域では、防止のため、とっくに条例化している制度だったが、キナン州では、フロレスが初だった。


しかし、これらは、まだ、役所の手の入る事だから、良かった。あくまでも、「決定打を打たない」という意味でだが。




決定打は、家の中で打たれた。




フロレスの郷土料理に、地元で取れる固有主の沢蟹と、白米で作った料理がある。「フロレス飯」と呼ばれている。祖母とケイネブは好物、生前のジュンナとニルは、食べ慣れているが、特に好きでも嫌いでもない。僕は嫌いだった。父も、実は苦手だった。しかし、兄は、この料理が「駄目」だった。


この沢蟹単独なら平気だった。米が苦手な訳でもない。味付けに使われている、独特のハーブが駄目だったのだ。僕が嫌いな理由は、後天的な物で、脚を悪くする切っ掛けになったからだ。父は臭いが苦手だった。兄は、味も臭いも嫌いではないが、体質に合わなかった。


該当のハーブは、メリオ麻と言われる、ソウエン北東の海岸地域が原産の、麻の実から取れた。フロレスでは、土壌と気候が違い、麻を取るほど茎が育たないが、実の収穫は出来た。本来のフロレス飯には使われない物だが、祖母の実家の味だそうで、庭で育てていた。


医学校で分かった事だが、原産地では、「野味料理」という、トエンから伝わった、野生動物を使った料理に欠かせない物らしいが、体質に合わず発疹や発熱、嘔吐、下痢といった、食中毒に近い症状が出る例が報告されていた。長らく野生動物の肉のせいにされてきたが、羊を使用するようになっても同様の事が起きたので、原因が絞れた。


このため、今では、あまり使われておらず、唐辛子とローズマリー、セージのブレンドで代用しているそうだ。


祖母は、「ふるさとの味だから


」「嫁からもらった体質を改善する」と、子供の頃は、医師が止めるのも聞かず、兄に食べさせていた。だが、度々具合を悪くし、その流れで、実は父も祖母のフロレス飯が「苦手」、体質は父譲りだ、と言うことが判明した。


これ以降、父と兄、「ついでに」僕には、祖母のレシピによる、フロレス飯が出される事はなかった。ホンナの母が気を回し、自分の家に伝わるレシピを勧めてくれた事もある。


父は苦手なだけなので、無理して食べていた。僕は、トラウマがあるため、出されても食べなかった。


ところが、記憶のない兄に、祖母が自分のレシピで食べさせてしまった。その時、家には祖母と兄と、新顔の女中しかいなかった。ケイネブと父は農場に行っていたからだ。


結果、兄は具合を悪くし、キナンの病院に運ばれた。子供の頃に比べて、症状は軽く、治療は地元の医師でもできたが、記憶喪失の事がある。定期的に州立病院に通うことになっていたし、何か異常があったら、連れていくように、と言われていた。


高熱が出たが、嘔吐や発疹、下痢はない。だだ、発疹はともかく、下痢か嘔吐がなければ、毒物が外に出ないので、薬で出した。


兄はあっさり回復したが、僕は、


「自宅は、兄が安全に過ごせる所ではない。」


と主張し、しばらく入院させることにした。正規軍にいた兄の治療費は、国から全額出るし、記憶喪失の症例に興味がある医師が、後押ししてくれた。


ホンナが責任を感じて(昼前に顔を出し、祖母がフロレス飯を作る、と宣言した時に、レシピの確認をしなかったそうだが、そもそも彼女の責任ではない)、付き添う、と言ったが、完全看護なので、必要ない事を説明した。それでも一日は付いていたが、翌日、父親とカロンが引き取りに来た。


丁度僕がいる時だった。カロンは、頭に包帯を巻いていた。ホンナが驚かなかった所を見ると、怪我は知っていたのだろう。


カロンは、兄の無事な姿を見て、ほっとした、と言った。ホンナは、父親に促され、カロンと先に病室を出た。カロンの傷をここの医者に見てもらうから、付き添いなさい、と言った。カロンは、大した事はない、と言っていたが、ホンナと部屋を出た。


ホンナの父は、二人が出た後で、


「フロレタンさんには、今朝、お話ししてあるが、婚約は、正式に解消させて頂く。」


と、兄に言った。


「ファイ君に問題があるわけではない。子供の頃から知っていたし、立派な青年だと思っている。ホンナをハノンに呼ぶつもりで、骨を折ってくれた事も、娘には有難い事だと思っている。


退院してからの方が良いと思ったが、こちらの都合で、申し訳ない。」


「ホンナの意志は確認するが、たぶん、同意すると思う。」


「貴方のお家とは、長い付き合いだから、こういう形で終わるのは不本意だが、お祖母さんがご存命の間は、無理だ。」


これらに、兄は抗弁せず、謝罪して、静かに納得していた。




父とケイネブは、入れ違いに、後から駆けつけたが、祖母は来なかった。父たちと一緒に、引退したフロレスの警察所長のアサド氏が来て説明してくれたが、祖母は「監視付きで自宅謹慎中」だと言う。


ホンナの父の、何時になく頑なな様子から、兄に一服盛る以上の事をしでかしたと思ってはいた。


事情聴取の時に、新米の警官が「それじゃ、殺人未遂になりますよ。」


と厳しく(当たり前だが)注意したら、


「ふるさとのご飯を食べさせただけだ。母親の味を伝えて、何が悪い。」


と掴み掛かり、警官に皿や杯、金属の串を投げつけた。警官は避けたが、壁に当たって、跳ね返った串が、ホンナに当たりそうになり、カロンが庇って止めに入り、それで怪我をした。


それを、近所中が見聞きしていた。


アサド氏は、


「新米警官は土地の者ではなく、優秀な青年だが、そういう人間の常として、何でも深刻に考える所がある。」


と前置きした上で、


「お祖母さんは、お年もお年だし、街での生活よりは、気候の良い所で、転地療養していただこうと思う。昔、ご実家が運営してたお年寄り専用の保養所に、よいのがある。」


と続けた。


祖母の実家は、農家ではなく、役人だった。彼女の兄が金にだらしなく、父親が死んでからは、賭け事に夢中になり、蓄えを使い果たして、潰した。潰れたのは、祖母がフロレタン家に嫁いでからの事だが、潰した兄も、母親も、体を壊して、相次いで亡くなった。


これだけ聞くと、ふるさとや母親のレシピに対して、こだわりがあるのは理解出来なくもないが、それは、孫を犠牲にしてまで、伝えるべき物ではない。


喉元まで、


「フロレスより空気の良い田舎、もそうそう無いでしょう。元経営者一族とはいえ、あんなのを押し付けられたら、迷惑でしょう。


州立の監獄の方がいいんじゃないですか?」


と出かけたが、兄が静かに応対していたので、口出しは控えた。




ニルは翌日にやって来た。


「早く来たかったんだが、こっちも、思いがけない事が起こって。」


タラミアも一緒だった。彼女は兄とは面識がないはずだが、「もう一人の女性」の付き添いだった。


「こちらの女性が、面会を希望されているの。」


とタラミアは言った。


その女性は、薄いフード付きのマントを羽織っていた。流行りの南方装束だ。タラミアの知人なら南方系かと思ったが、黒髪は真っ直ぐ、色白で、目は青い。西方と東方(おそらく、ソウエンではなく、トエンかシーチューヤ)のハーフだろう。リューナ・レネーギナと、名乗ったが、マントを取った時、僕は、あ、と短く叫んだ。


僕は、彼女を「ナヒータ・ウォン」として覚えていた。




シュクシンでは、都会でも田舎でも、祭礼やイベントには式次第がどうであれ、歌手や舞踊手を呼ぶ。劇場で主役を張るような人達でも、舞台と同じくらい、それらを重視していた。祭礼の宴は、より伝統的な色彩があるからだろう。ナヒータは、真ん中の都市ポヅの舞踊手だが、イベントで何度か、キナンにも来ていた。特に、水神祭には必ず呼ばれていた(「ナヒータ」は南方神話で水神に使える巫女の名だったからだ)。


母方の親戚が、「君たちの(僕とニルの)お母さんに、少し感じが似てる。」と言っていたので、覚えていた。


「ファイス。」


彼女は、兄のファイストスを、そう呼んだ。兄は、目を見開いて、彼女を凝視している。


「その顔、私と初めて会った時の顔ね。じっと、私を見てた。」


彼女は、寂しそうに笑い、


「本当に、忘れてしまったのねえ。」


と言った。


ニルが俺の手を引っ張ったので、タラミアと一緒に外に出た。


廊下の隅で、殆ど詰め寄るように、二人に話を聞く。


タラミアの母は元は歌手で、ナヒータの母と親しかった。タラミアの母はキナン、ナヒータの母はポヅで結婚した。ナヒータの両親は、娘が幼い時に死んだ。それからしばらく会ってなかったが、イベントで呼ばれた時に再会した。


「『コーデラ行きの話が来てるけど、恋人がハノンにいるから、迷っている。』と言ってたの。それが、ニルのお兄さんだったとは、知らなかったけど。」


タラミアはそう言ったし、ニルも、ハノンから、身の回りの品と共に、送られてきた中にあった、と、いくつか手紙の封筒を見せてくれた。


「軍から受け取って、セトゥさんがうちに送ってくれた。昨日、届く筈だったが、何故かフロレスの局から、キナンの本局預かりの形で、戻されてた。


変な話だが、丁度、ファイが倒れて警察が来たりと、騒動があった時だったから、郵便局員が気を使ったんだと思う。


だから、まだ開封してなかった。ファイより先に見るのも何だが、ナヒータさんが、兄の手紙を持ってきてくれたから、確認の為に開けた。」


ニルは、それで遅くなった、この話は、自分達しか知らない、つまり、父も祖母も、ホンナ達もだ、と付け加えた。


ホンナと婚約解消になった事は、ニルも聞いていて、ナヒータには話してある、と言った。


僕は、驚いたが、混乱はせず、かえって冷静になっていた。五年くらい前から、キナンやポヅに用事で出掛ける事が多くなっていた。目的は新事業のためだが、それだけではなかった。


何となくだが、父と兄は、好みが似ていたな、とあれこれ思い出した。


よく考えてみれば、ホンナであれば、連れていけば良い訳だ。カロンの為に身を引いた、のでもなければ、婚約を解消(色々あって、「保留」にされていたが)しておく必要もない。


全ての断片が、収まる所に収まった。


その後、僕は実習があったので、ニルとタラミアに任せて、研究棟に戻った。


兄の病室には、翌日の訪問になってしまった。


兄は、すっきりとした顔をしていたが、やや寂しげに見えた。ナヒータの話をすると、手短に、


「彼女は、コーデラに行く。今日が出発だ。だから、最後に、会いに来てくれた。」


とだけ、言った。僕は驚き、ホンナとの誤解なら解けたはずなのだから、追いかけなくていいのか、と言った。兄の事は、この二月あまり、キナンでも話題になっていて、せめてもの明るい彩りとして、家族と許嫁の元に帰った、と、落ちをつけて語られていた。ナヒータがすぐに名乗りなかったのは、その話を聞いたからだろう。記憶喪失の話が、遅れて伝わったのかもしれない。


だが、兄の決意は固かった。少しの押し問答の末、


「俺の記憶は、戻らない。彼女が、一番、大切に考えていた物が、俺の中には、残っていない。…もう一度、生きることが出来た。だから、二人の幸せを第一に考えた。しかし、それは空回りした。限界が、あるんだ。この状態では。」


と語り、それから黙った。


折よく、担当医が来たため、僕は、


「落ち着いてからでも、考えて見て。」


と言い、部屋を出た。




二日後、兄は退院し、フロレスに戻った。




そして、兄は姿を消した。





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