あくまであくまなおれさまはあくま

 清潔で一人には広すぎるくらいの部屋。料理はあいかわらずさっぱりだが、以前と比べればずいぶん健康的な食生活になった。ごくたまに思いつき、仕事終わりに野菜と肉を買い、炒め物をするくらいはしている。


 綺麗な部屋と健康な身体。部屋は太陽の光に満ちている。休日。俺は、ベッドにくるまり、重苦しい気持ちで押しつぶされそうだった。


 瀬戸に、軽い気持ちでこぼした一言が、あいつを怒らせた。沢谷さんと岸さんに注意された。ネットでは──ラブシャワーとやらが蔓延する前のネット上では、よくある冷やかしの言葉。瀬戸を傷つけようとしたわけじゃなかった。本当に、俺は、深いことなど考えていなかったんだ。


 けど、ネット上で飛び交う言葉だけで、この世はできているわけじゃない。俺は狭い世界のノリを、リアルに持ち込んでしまったのだ。俺が言えって言ったから、瀬戸は正直に話してくれただけなのだ。沢谷さんの冷えた目。消えてしまいたい。このまま、ドロドロのあいつらみたく。


 忘れよう。全部。忘れるのは得意だ──。


 インターホンが鳴る。新しい部屋のはカメラ付きインターホンで、来客と喋ることもできる。ピンクツインテールのあいつ、幽が立っていた。


「……何の用だよ」

『青柳さん、声ガッサガサですねえ!』

「うるせえ」

『たまたま通りかかったんですよお』


 よりにもよって昨日、「作戦会議」を開いていたのだから、心拍数は上昇していた。まさか、どこかで聞かれていた?しかし幽は、ふわあと呑気に大あくびをしている。力が抜けた。


『実は、パン爆買いしちゃったんですよう。それであとから、チーズ入りの買っちゃってるのに気づいて!捨てたくもないし、そしたら近くに青柳さんのマンションあったから』

「チーズはうまいだろ。くれんの?ありがとう」

『幽、お茶飲みたいです!』

「いいよ。一分だけ待ってて。片付けるから」

『あ、一個五百円ですので』

「金とんのかよ。じゃあな、ちゃんと食べろよ」

『嘘です嘘ですん!一分きっかり数えときますねっ』


 テーブルの上のスマホやら漫画やらを棚の上に移し、ドアを開ける。


「……ん?」


 ピンクツインテールのニヤニヤ顔があるはずの視線の先には、真っ黒なスウェット。

 下もだるだるの黒スウェットで、スニーカーも同じく黒で、でかい。

 明らかに、こいつは──。


 おそるおそる顔をあげる。ピンクツインテール、ではやはりなかった。やけにトゲトゲした肩までの髪は、淡い水色。黒い仮面で顔の上半分は覆われ、その瞳孔は、金色に光っている。


「……お前、誰だ」


 そいつが笑う。口の端は大きく引き上がり、耳まで裂けそう。鋭い歯を惜しげもなく晒している。


「お前、遊びに来た」


 幽とは違う、少し掠れた、低い男の声。


 ぐわ、とそいつが口を開ける。俺の視界はグラグラと揺らぐ。風の爆音を感じたそのあとは、真っ暗な世界に放り出される。

 遠のく意識の中、スクリーン上で、紫になった口をぬぐう沢谷さんが浮かんで消えた。

 

          ♡


 ふわふわのカーペット。白く薄汚れた、年季の入ったテーブルの脚には、落書きの跡がある。鬼みたいだけど、本当は猫なんだ。


 身体を起こす。黄色い壁、本棚、その上に置かれたぬいぐるみやおもちゃ。深い赤のソファは新調したてなんだろう、ピカピカして見える。


 ここって──。


「よお。気がついた?」


 あの声が頭上から降ってき、俺ははっとして立ち上がる。謎の水色髪のそいつは、おそらく二百近くあるだろう、デカい図体で俺を見下ろしてニヤニヤしている。


「急にワープさせて悪いな。誰にも聞かれないためだ。特にあの、ピンクのやつらにはな」


 まあ、座れよ。まるで自分の家かのように、俺を赤いソファーへ座るよう促す。睨み動かない俺にそいつはため息をつくと、ソファーに腰掛けた。それでやっと、そいつの顔を正面から見ることができた。


「お前は、誰だ?」

「まあ警戒するなよ。ここはレプリカの世界だ。たとえオレさまがお前を傷つけたくなっても、ここじゃそれは叶わねえ」


 その一言にギョッとするも、すぐにもう一つ、気になることが浮かび上がる。レプリカってたしか、かつて「パパ」とやらが住んでいた地方都市、つまりは俺の現住まいのある街がモデルになっているはずだ。

 どうして、が、しかも、かつてのまま──?


「オレさまは、あくま。悪魔ってのが名前だよ。ピンクいやつらと同じ世界からやって来た。やつらと同様、人っぽい人じゃない何者かだ。とりあえず、悪魔と思ってくれたらいい」


 そっと太ももをつまむ。痛みはない。たしかにここはレプリカで、俺はレプリカの身体になっている。ただ、警戒は解くべきではない。喉が上下する。黙ったまま、そいつの次の言葉を待つ。


「お前、あの人に謝ったほうがよさそうだな。そんな落ち込むんだったらさ。実際、偏見ガチガチくんはダッセェよ」

「は!?お前、昨日の、聞いて……?」


 そいつがニヤつく。嘘だろ。背筋が凍りつく。全部、聞かれていた?いったいどうやって?そもそもこいつは何者なのか?


「左の小指、第一関節くらいのとこ。黒いやつとれなかっただろ。まさか、気づいてなかった?」


 そいつは片方の小指を立てると、もう片方の指でつんつんと指し示してみせた。指は長く、先が尖っている。

 確かめてみればたしかにあった。新しくできたホクロみたいにも見える。


「普通はさ、レプリカじゃなくなったときに全部とれてるはずなんだよ。レプリカでこっそり、お前にたましいのかけらをなすりつけた。んで、そのあとの全部を見聞きしてたってわけだ」

「なんだよ、それ……意味わかんね……」


 悪魔は人差し指をくいくいっと動かしてみせた。そのとたん、指から黒くこびりついたそれが宙に浮かび上がり、悪魔の方へ飛んでいった。


「……目的はなんだ?」


 必死に強気を保っていたが、脚は今にもくずおれそうだった。

 話していたことを、こいつが幽にばらしたらどうなる?幽はむかつくおちょくりばっかりしてくるし、おもしろくて憎めないやつでもあるけど、ピンクの謎集団の一員であることを忘れてはいけない。

 「同化」し、どちらがどちらともわからなくなった広野さんや斉藤さんを考える。同化が進めばこの世界は、いったいどうなる?


「オレさまは、ピンクいやつらの仲間じゃない。それに、あの鏡みたいな人間二人の仲間でもない。オレさまは、ピンクフードの憎きスカシ野郎をぶっ飛ばしたい。そんだけだ」


 悪魔が、棒のような長い脚を組んだ。その目はギラギラと燃えている。

 ピンクフード──ピンク集団のリーダーと、どうやらこいつは敵同士らしい。自分が優勢な状況で、嘘をつく必要もないだろう。


「お前は、オレさまに協力してもらう。ピンクいやつらと人間二人との関係はこれまで通り続けていい。が、お前の本当のボスはオレさまだ。必要に応じて、他のやつらも仲間に引き入れるかもしれないが、ひとまずはお前だけ。だから誰にも、同僚たちにだってこのことは秘密だからな」

「……もし、断ったら?」


 悪魔が軽やかに笑う。その底抜けに明るい笑い声に、俺の肩の力はわずかに抜けた。


「断る?お前、さすがにこんくらいは物分かりあると思ってたわ」


 再び凍りつく俺に、悪魔は腹を抱えて笑った。


「お前には選択肢はないんだよ。だがな、どいつを信じればいいのか、わかんなくなってたんだろ?選択肢を与えず、有無を言わせないオレさまの、言いなりになるほうがラクじゃね?だってそれで世界がどうなろうが、それはお前のせいじゃねえだろ。お前は選ぶことができなかった。そうせざるを得なかったんだ。な、ラクだろ?思考停止の言い訳になる。他人の思想を冷笑しながらそんな自分のことも嫌悪する、卑怯なお前にピッタリ!」


 悪魔を睨む。けれど脚に力は入らず、震えを誤魔化す余裕もない。


「お前みたいなやつ、こき使ってやりたかったんだ〜。なんも感じないハードボイルドなオレカッコイイ〜って××リたいんだろ?マッチョなやつになりたいんだろ?高尚すぎて身震いするその夢、叶えようぜ!!」


 悪魔への恐怖を凌駕する、自分の心を、肉体ではなく心の真ん中を刺す言葉は痛い。死ぬほど痛い。


「ほぉら、考えるのなんかやめて、考え続ける同僚たちのこと馬鹿にしながら、オレさまを手伝えよ。腐った同類のネッ友がみーんな幸せになってさみしいよな?拗らせアイタタボーイくん♪イヤだはナシだぜ。さ、契約の印だ。オレさまに跪いて……」


 動けない俺に、悪魔はやれやれという顔をしてソファーから身を起こす。そして、まるで子ども相手のように腰を屈めると、でかい手を差し出した。


「握手だ」


 ──そのとき、だった。


『充!みつるー?』


 リビングの向こうで、呼ぶ声。

 遠い記憶の、やさしい声。


『もう、いつまで鏡の前にいるの!』


 「ああ、説明がまだだった」悪魔が思い出したように言った。


「ここはレプリカはレプリカでも、お前の思い出の中のレプリカ。とっておきのオレさまの力だ。ここにはオレさまとお前しか入れないんだぜ?秘密の話をするにはもってこいだろ。……なんだよ?驚いて声も出ないか?いや、話せなくなったのはけっこう前からだっけ?悪魔は気が短いんだぜ、コワイ思いしたくなきゃいい加減に──うお!?」


 頭の中がグラグラする。思い出。違う。俺はこんな記憶、思い出にしたつもりはない。全部忘れたし、捨てたはずだ。


 きらめく恋のあれそれなどないけど、それなりに充実してたはずの中学時代。学級委員長の沢谷さんはしっかりしていて、やさしくてかわいくて、時折喋れたら心が浮き立って、それだけで幸せだった。断片的な、岸さんや瀬戸の記憶もある。友人との馬鹿騒ぎはたくさん。楽しかった。悪くない思い出だ。


 それ以外は、ない。


 これまでの時間の積み重ねで、俺は大人になったはずだ。虫に喰われた記憶など、あるはずはなく、だから俺は自分で自分の過去の一部を葬った。ないものにした。

 なのに。


「な、なんだよ、悪魔に無礼だぞ?オレさまがやさしくてよかったな。なあ、急にどうしたんだよ……?」


 黒くてでかいそいつの身体にしがみつく。視界は真っ暗になり、そうすれば、全部遮断できる気がした。


『あと一分だけ!』

『まったく。何度見ても顔はおんなじですよ』

『母さんに似て美形だって?』

『ハイハイ』


 俺の、幼い声もする。「……馬鹿だな」悪魔の低く小さくなった声が、俺の頭のすぐ上でした。

 されるがままで、離れようとしないことがありがたかった。


「言っただろ、これはお前の、ただの思い出のレプリカ。干渉はできない。だから、そんな隠れようとしなくたって、オレさまたちの姿は見えないよ。なんならあっち行って見てみるか?スルーされるぞ?」

「いやだ……!」


 悪魔にしがみつく。気はとっくに動転し、さっきとは違う恐怖と胸の奥の痛みに支配されていた。


『今日の夜ごはんなに?』

『まだ決めてない。なにがいい?』

『あれ食べたい。とろっとしたオムライス。母さんの作る、かためのやつもうまいけど、半熟のも食べてみたい!』

『こないだ、レストランで食べたようなやつね。わかった、挑戦してみる』

『やった!楽しみ!』


 母さんの、ふわとろオムライス。

 それはどんな味だったんだろう。

 「わかった」って、言ったくせに。


「……なんか、あったのか?お前」


 悪魔の身体は、温度は低めだが、たしかな体温があった。レプリカでも体温があることは知っていたが、こいつにもあるんだ。

 そのあたたかみと、こいつに似合わない陽だまりみたいな匂いが、心を少しは落ち着かせてくれる気がした。

 もっと話してほしい。それで、あの遠くからする声を、どうかかき消して。


「ここ、いやだ……嫌……」

「わ……わかったよ。新しいのをつくるから、落ち着けって……」


 こわい。捨てたはずの思い出に向き合うのは。

 わけのわからない、それも心をナイフでグサグサ刺してきて、脅しまでしてくるやつに全身全霊で頼るなど、完全にどうかしている。そんなことわかってる。けれど俺には、今、悪魔に対する恐怖も、己のプライドもなかった。


「……くるしい……助けて」


 顔は涙と鼻水でべちゃべちゃになり、悪魔のスウェットをぐっしょりと濡らしていた。そんな俺を悪魔が突っぱねないこと、それがすべてだった。

 見上げれば、悪魔が俺を見下ろしている。仮面で半分隠された顔から、その表情はあまりわからない。ただ、口は動揺しているかのようにパクパクと動いていた。


「──たすけて、お願い……」


 悪魔の金の瞳孔に、光が跳ねた気がした、その瞬間、


    バリリリリリリリッッッ!!!!


 爆音と、まばゆい光に包まれる。


(な、に……)


「離れんなよ!!」


 突風と爆音にかき消されぬよう、悪魔が声を張り上げた。抱き寄せられ、俺も吹き飛ばされないように、悪魔により強くしがみつく。


 眩しくてうるさくて、目が開けられない。


「なんだこれ!お前の力かよ!?いや、オレさまの!?」

「お、俺の力は、たしか、ブチギレた敵の頭をヘンにさせる、みたいなやつで……!」

「んだよ、それ!んじゃあオレさまが、今お前に、ぐわーってなったのは……」

「ぐわ?って、なんだよ!」

「知らねーよ!!」


 ギャーギャー言い合ううちに、気づけば、爆音はやんでいた。そこはもう、さっきの場所ではなかった。真っ白な部屋。モノは何もなく、窓が一つあるだけだ。


「どこ、ここ……」

「……お前、いつまでくっついてるつもりだ?」

 悪魔の言葉で、急いで突っぱねるように離れる。真っ黒な生地でもわかるくらい、スウェットの真ん中は濡れていた。


「それ」

「あ?」

「ごめん……」


 悪魔は俺の視線を追い、自身の服に目をやった。「気にすんな」とぶっきらぼうに言う。


「プライド高そうなお前が素直になるの、なんか、あれだ、そう、こわいんだよ。……なんも言わないで勝手にあんなとこ連れて行って、悪かったよ。ごめんな」

「そ……そーだよ、お前が悪いよ!」

「なっんだお前!オレさまが謝ってやってんのに!」

「悪かったって思ってねえだろ!」

「思ってるっつの!悪魔に誠意のある謝罪を求めんな!」


 「……つか、こんなこと言い合ってる場合じゃないだろ」辺りを見回す。ここはどこなんだ。

 頬をつねる。痛くはない。


「レプリカ、ではあるな。けど記憶のレプリカじゃないし、ピンクフードのクソ野郎がつくった街のもんでもねえ。ここは、言うなれば、仮の……」

「『仮』って?」


 悪魔がうーん、と唸った。


「オレさまの力はすげえんだが、本物のレプリカをつくる力はないはずだ。記憶のレプリカっつうのは、関係のないやつらにはないようなもので──そもそもレプリカの世界自体が偽物のようなものだから、こんな言い方はヘンだが、まあとにかく、オレさまがつくるレプリカはそのままずっと留めておくことはできない。お前がいたさっきのレプリカも、去ったことで完全にないものになった」

「ここは何なの?」

「……わかんねえ。ただ、オレさまの力かお前の力、あるいはその二つが掛け合わされてできたってことはたしかだ。それと、ここへはお前とオレさま、それかお前かオレさまが招いたやつしか入れないってこともたしか。要は安全ってことだ。……お前がオレさまを裏切らないならな」


 悪魔が俺を一瞥した。

 突如現れたかと思えば俺を飲み込み、監視し、加えてそれを利用した脅しまでしてきた、悪魔。俺を刺す言葉はどれも真実をついていて、しがみつく俺を突き離さなかった悪魔。


「選択肢はねえって、お前が言ったんだろ」


 悪魔を見上げ、睨む。


「けどな、見くびんなよ。俺は場合によっては、お前をこっそり裏切るかもしれない。ちゃんと頭回転させて、死ぬほど考えて、俺が正しいと思うことをちゃんと選んでやる。奴隷みたくなるつもりはない。ただ、今は、お前を信じてやる。それだけだ」


 手を上へ差し出す。背の高い悪魔は腰を曲げると、ニイッと笑って俺の手を握った。


「そっちのがカッコイイじゃん?まあやれるもんならだけど。せいぜい、頑張れよ」

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