3. 蠕動――グロテスクな小夜戦(セレナード)
3-01
わたしは夜空を飛んでいます。
歩いているときはとても広く感じるセント・フローリアですが、空へ舞い上がると瞬く間に小さくなり、その瀟洒な校舎もまるでお菓子で作ったおとぎ話のお家のようです。
その周辺の郊外の街並みは、凛が小さい頃にはまっていたジオラマを彷彿とさせます。
花園は街の山手にあり、その反対側、市街地のさらに向こうに、問題の埠頭倉庫群があります。
礼さまの持たせてくださったタブレット端末の現在位置表示は、混乱したかのようにめまぐるしく修正を繰り返しながらも、倉庫への進路をかろうじて示してくれています。
『君の適応能力にはまったく恐れ入る』
「適応能力……ですか?」
『ああ。本来の身体機能の範囲を明らかに超える運動を行っているのに、ほとんど混乱する様子もない。それどころか、先ほどから私の力をある程度自分でコントロールしているだろう?』
「そういえば……そうですね」
ぶよぶよとした褐色のゲルに寄生されたエリス様との戦いでは、わたし自身ホンダさんの触手をある程度操って戦っていました。意図してのことではありません。そうしようと思ったら、自然にできてしまったのです。
『私との十年に及ぶ共生が、君の中に何か特別な感覚を養っていたのかもしれんな』
「そう……なのですか?」
『この触手翼だって、君の制御だろう。鳥類でもない君に自然に備わっている感覚ではないはずだ』
そう言われても、実際に違和感がないのです。
わたしの腰の後ろからは、一対の翼――ホンダさん言うところの触手翼――が生えています。
それは、三味線のバチを両腕に余る大きさにして、片方を歪めたような――そう、映画や何かに出てくる悪魔の翼、そのものなのでした。翼は力強く風を捉えてたわみ、わたしの身体を恐ろしい速度で運んでいきます。
どんどん人間離れしていくようですが……先ほどのスカートから噴き出す触手流や、他人様の鼻や耳に潜り込む指触手よりは格段にマシです。
『しかし、なんとも目まぐるしい話だな』
「芋づる式に浮かび上がってきましたからね」
『我々の星では触手根伝いに、という』
「どうでもいいです」
エリス様を襲ったぶよぶよとした褐色のゲルは、おそらく、つぐみさんとともに埠頭倉庫へと移動したのではないかというのがわたしたちの見立てです。花園に残してきた礼さまとエリス様も心配ではありますが、いざというときにはすぐに連絡をいただくようお願いしてあります。二度も遅れを取ることはないというエリス様の心強いお言葉もありました。ホンダさんも何らかの予防措置を取られたようで、保健室一帯は安全だとおっしゃいました。
『……あれだな』
生身で空を飛ぶ経験はとてもスリリングなものではあるのですが、今回は事情が事情です。わたしは空から見下ろす夜景を楽しむ暇もなく、埠頭倉庫へと直行します。
埠頭倉庫は、港から荷揚げされるコンテナをトレーラーや列車へと積み替えるための施設で、膨大な広さがあります。高校としては地域で随一の敷地面積を誇るセント・フローリア女学園ですが、空から見る限り、埠頭倉庫はその数倍の面積があるようです。
わたしは埠頭倉庫を見下ろす鉄塔の頂に着地しました。
もともと人が立つような場所ではないので、わたしは両足を触手へと変化させて鉄塔に絡め、姿勢を安定させます。
「さて、どうやって探しましょう……?」
わたしもこの頃になるといくらかは頭が冷え、つぐみさんを助けるためにもっとも有効な行動は何か、ということを冷静に考えられるようになっていました。
『ふむ……思ったよりも捜索範囲が広いな』
「付近一帯の物流基地なんだそうです。何かよい手はありますか?」
『音響探査がいいだろう。触手を地中に潜らせ、根のように張り巡らせてから、
「わかりました」
姿勢維持のために鉄塔に絡めつけた触手をさらに伸ばします。
触手は鉄塔伝いに地面まで下りると、ずぷりと湿った音を立てて地中に潜り込みます。地中に潜り込んだ触手は幾重にも分岐し、埠頭倉庫一帯を覆う網の目のようなネットワークを作り上げていきます。その要所要所に高感度の聴覚器官を作り上げれば完成です。
せっかくなのであまった触手で地中にリボン結びを作っておきました。
『…………』
「ホンダさん?」
『いや、なんともはや……すさまじい手際だ』
「そんなことより、音響探査をお願いします。こればかりはわたしの脳では無理です」
『あ、ああ』
わたしに仕事を取られて呆けていたホンダさんですが、すぐに音響探査に取りかかってくれました。
『ふむ……近場ではとりあえず二つ、人間同士の会話が拾える』
「聞かせてください」
『まずは、埠頭の縁に駐められたシルバーのスポーツカー――そう、あれだ――その車内音声になる』
ホンダさんの言葉とともに、若い男女のものとおぼしい声が聞こえてきます。その背景では洋楽が小さくかかっています。アメリカの女性シンガーの曲のようです。
「最近会長の娘ってのが出てきてさ」
「会長の娘?」
「そう。まだ高校生だってのに、本社でインターンさせてんのよ」
「おいおい……そんなのありなのかよ」
「ありなんじゃないの、会長様の娘なんだから。ま、あたしもそれで反感持ってたんだけどさ」
「それで?」
「実際親の七光りもいいとこなんだけど、その子、見場もなかなかのもんでね。職場の男どもが構う構う。ほら、あたしのイトコが通ってるお嬢様学園があるじゃない」
「ああ、あの聖ナントカいう? じゃあ、あの子の先輩ってことか」
「そうそう。ま、あのおてんば娘とは違って、いかにも男好みの楚々とした感じなんだけどね。要するに、現役バリバリの女子高生で本物のお嬢様、おまけに美人。そりゃ、男どもが放っておかないワケよね」
「うわぁ」
「でもま、その子もそれなりに場数は踏んでるみたいで、そういう誘いはしれっと流しちゃうの。あれは見てておかしくってさ、あれ見てあたし、ちょっとあの子のこと好きになったのよね」
「へえ、君のお眼鏡にかなったわけか。珍しいこともあったもんだ」
「茶化さないでよ。でも、そんな状況が続いたら、今度は職場の女連中がおもしろくないわけ」
「ああ、嫉妬」
「簡単に言ってくれるけど、実際厄介なもんよ。これまで自分たちに気ィ遣ってお愛想言ってた男どもが、現役JKお嬢様にまっしぐら。そんなの見てたら、多かれ少なかれイラッともするでしょ」
「そりゃそうか」
「だから今度は嫉妬に狂ったお姉さま方のイジメよイジメ。本人の方は、自分の立場弁えて謙虚にしてるんだけど、存在自体が目障りってことも、世の中にはどうしてもあるわけよ」
「そればっかりはどうしようもない」
「そう、どうしようもない。でも、男も女も、JKごときに大騒ぎしちゃって仕事も滞る有様だったから、温厚なあたしも最後にゃキレてね。机バーンって叩いて、『あんたら、いい大人が高校生に引っかき回されてんじゃねーわよ!』って言ってやったのよ」
「うわぁ……」
「ちょっと、何マジに引いてんのよ! あたしの武勇伝でしょーが!」
「あ、これ武勇伝だったの」
「他の何だって言うのよ?」
「いや……やっちまったな、って話なのかと思った」
「何でよ。あたしの一喝でオフィスがシーンとなったわけ。で、一分ぐらいしたら誰かがぷっと噴き出して、みんな揃って大笑いよ」
「そりゃうまいオチがついたもんだ。でも、その高校生の子はショックだろ?」
「それが逆でさ、それ以来なんかあたしになついて来ちゃってね。今じゃあたしがその子の教育係よ。お姉さまーって慕って来ちゃって、かわいいのなんの」
「そりゃまた……」
「しかも、さしさわりのないような仕事を手伝わせてみると、なかなかやるのよね、その子。正直、課の他の連中よりよっぽど使えるわよ」
「へえ、そりゃマジにすごい。君が仕事で誰かを認めるなんて、初めてなんじゃない?」
「そんなことないわよ。あたしはできる奴はちゃんと認めてるし。……ま、数えるほどしかいないけどね」
「でも、そうなるとその子に興味が湧いてくるな。なんて子なの?」
「……ちょっと。あんたにはあたしがいるでしょ?」
「そりゃそうだけど、そんだけできる子なら、そのうち関わり合いになるかもしれないじゃない。俺も再来月から本社に戻れるしさ」
「あ、そうなんだ! おめでとう!」
「どういたしまして。そうなりゃ、もうちょい洒落た場所でデートできるようになるよ。で、その子の名前は?」
「こだわるわね。ま、名前くらいは教えてもいっか。その子は――」
そこで、ぷつんと音声が途切れました。
『……関係はなさそうだな』
「い、いいところでしたのに……!」
残念ですが、今はそれどころではないのでした。
『もう一つは、倉庫の守衛所だ』
今度はエアコンのゴーっという音と沸騰したヤカンの笛の音が聞こえてきます。事務所らしいその場所にいるのは三人の男性です。しゃがれ声の中年男性と、若い男性が二人です。
「あそこ、まだ搬入してんの?」
「ああ、そうらしい」
「例の噂はマジなのかもしれねーな」
「え、あれっすか? フジさん、あんな噂信じてるんすか?」
「噂? 噂って何です?」
「お、オメェは知らねーのか。ほれ、今搬入してる倉庫があるだろ。埠頭の外れにあるやつ」
「ええ」
「あの倉庫にゃ、バカでかいアクリルの水槽があるらしくてだな、そこになみなみと、得体の知れねー液体が溜められてんだと」
「得体の知れない液体……ですか?」
「おう。なんだかよく知らねーが、化学薬品とかじゃねーのか?」
「薬品? それが、一体何なんです?」
「そこによ……人間を運んできて、ざぽん! よ」
「……はぁ?」
「だからぁ、ヤクザだかマフィアだか、そんな連中の秘密倉庫なんだよ。で、処理しなきゃならねーヤバい死体とかを、その薬品でずぶずぶに溶かしちまうんだ」
「なんでそんなことするんです?」
「なんでってオメェ……コンクリ詰めにして東京湾じゃ、なんかの偶然で見つかっちまうこともあるだろ? 死体をずぶずぶに溶かしちまえば、証拠は絶対上がらねーって寸法よ」
「うへぇ……エグいっすね」
「その証拠に、その水槽の液体は、何かこう、ぶよぶよとした褐色のゲルみてーになってんだと。そりゃあ、人間の死体を山ほど溶かしてりゃ、そんな風にもなるわな」
「マジっすか……」
「おいおい、マジなわけねーよ。フジさんが勝手にフカシこいてるだけだって。フジさんもそうやって新人を怖がらせるの、やめてくださいよ。ただでさえ夜は気味悪いってんで辞めてく奴もいるんすから」
「そんな根性なしは、辞めさせとけばいいんだよ! 大体、最近の若ぇ連中は……」
またしても、音声が途切れます。
『……当たり……か?』
「なんとも……でも、他に手がかりはありませんし」
会話では、埠頭の外れ、と言っていました。
ホンダさんは触手の探索範囲を海側に広げて、再び音声を探ります。
すると――
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