1-04
『その……すまなかったな』
「え?」
『盗み聞きを強いるような形になってしまった』
「いえ……しかたがありません」
わたしは涙を拭いながら答えます。
『随分とけなげな娘ではないか』
「ええ……本当に、いい子なんですよ」
少し暴走気味なのが玉に瑕なのですけれど。例の詩の件、一体どうしたらいいのでしょう?
わたしは自分のためにキッチンで紅茶を淹れました。
『私の分は結構だ』
ホンダさんが言いますが、もともと忘れていたので、曖昧にうなずいておきます。
ホンダさんはわたしが落ち着くのを待ってから、
『ぶよぶよとした褐色のゲルのことについて、話したのだったな』
「ええ……あなたがたぐねぐねとしたアザミ色の触手は宇宙における知的生命体の守護者であり、ぶよぶよとした褐色のゲルと敵対関係にある。そしてそのぶよぶよとした褐色のゲルが、どうやらこの街に潜伏しているらしい、と」
『私はぶよぶよとした褐色のゲルを追ってこの星にやってきた。私がこの星に降り立ったのは十年ほど前のあの日――そう、幼い君が事故に遭ったちょうどその日だった』
「ホンダさんは、死に瀕していたわたしを、自らと融合させることによって救ってくださったのでしたね」
『そうだ。が、宇宙空間を長く漂っていた私は大きく力を減じていた。そうでなければ君を救うもっとマシな手立てもあった。君の尊敬する『お兄様』のことを記憶しておくこともできた』
「お兄様……」
そのことを思うと残念でなりませんが、死ぬはずだった所を救っていただいただけでも感謝してあまりあることです。
『君との融合で力を使い果たした私は、君の体内で眠りにつくことになった』
「眠り?」
『私は今朝方覚醒するまでの十年近い歳月を、休眠状態で過ごしたのだ。そして、目覚めたその瞬間に奴らぶよぶよとした褐色のゲルに出くわした。正直に言って、驚いたよ』
「なぜホンダさんは今朝、目覚められたのですか?」
『君の想いに反応したのだ』
「想い?」
『生命の危機にあった君は、何か強い想いを抱いたはずだ。その想いが引き金となり、群体生物として本来散在的な形で自我を維持している『私』の中に、核となる意識が発生した。それが私――ホンダ・イチロウと名乗っているこの意識なのだ』
たしかにわたしはあの時、残されたつぐみさんの気持ちに思い至り、死ぬわけにはいかないと強く思いました。
ですが、
「……単に生命の危機に反応されたわけではないのですか?」
『それはちがう。生命に危機があろうとなかろうと、私に核となる意識を与えるほどの想いがなければ、私は覚醒できなかった。君はあのままトラックに轢かれ、おそらくは今度こそ死んでいた。宇宙生物である私は……まあ、生き延びていただろうが』
だとすれば、つぐみさんを悲しませたくないというわたしの気持ちがホンダさんを覚醒させ、その結果としてわたしは助かったのだということになります。なんだか恥ずかしい話ですね。
わたしは照れ隠しに紅茶のカップに口をつけます。
『その想いがなんであったのかは、君の心の問題だから、私から聞くことはしない。
ただ、その想いの核にあったのは――エロスのはずだ』
「ぶ――っ!」
わたしは思わず紅茶を吹いてしまいました。
「な、何ですって……?」
『エロス、だ。地球人類の精神活動は、宇宙における知的生命体の活動水準からすると、平均を大きく下回る。思考は拡散しやすく、記憶は短時間で失われ、なにより本能その他の生理的欲求や環境刺激からの影響を受けやすい。個体として知的活動を営む生命体の中には、百年単位で思索を重ねるものもいる。それに比べれば、地球人類の精神活動は未熟で幼稚、刹那的でノイズにまみれ、無駄が多い』
「それが……その、エロス……と、どう関係するのです?」
『地球人類の精神活動は総じて散漫なものだが、その中でも比較的集中度の高くなる活動がある』
「まさか……」
『そう。エロス……性的欲求の絡んだ精神活動を営むとき、地球人類はその秘められたパフォーマンスをもっともよく発揮するのだ』
「そ、そんな……っ!」
ホンダさんの言うことが本当なら、人類のすべての知的活動はエッチな妄想に劣るということになってしまうのです!
「で、でも、わたし、あの時にエッチなことなんて考えてません!」
『エッチ、というのとは少し違うな。他人との関係性、とくに異性とのそれを含んだ想いであればよいのだ。内容は必ずしもセクシャルなものとは限らない』
「いえ、あの時は……」
わたしが想ったのはつぐみさんのことです。
『ふむ。察するに、君が想ったのは先ほどの彼女のことなのだろう?』
「え、ええ……でも、つぐみさんは同性です!」
『それは、君にとって性の対象となるのがどちらの性か、という問題だな』
「へ……?」
なんだか、とんでもないことを言われた気がします。わたしの心の奥に隠れている別のわたしが飛び出してきて、わたしの耳を塞ごうとします。これ以上聞いてしまうと後戻りできないところに行ってしまう。もうひとりのわたしは心の中で首をぶんぶんと振りながら、わたしにそんな警告をしてくるのです。
しかし、ホンダさんはそんなわたしの様子に気づくこともなく、その言葉を口にされてしまいました。
『――君は、女の子の方が好きなのだろう?』
わたしの頭が真っ白になりました。
「な、ななな……っ」
『自分に嘘をついてもしかたなかろう』
「う、嘘なんてついてません! わたしはノーマルです!」
わたしとて一人の女の子です。いつかは理想の王子様と……などと、甘い夢を見たことのないわけがありません。
なにも、あの日のお兄様でなければイヤだとまでは申しません。
わたしは想像してみます。さわやかに晴れた晩春の昼、小高い丘の上の綺麗な教会から出てくる、わたしと王子様の姿を。
チョコレート色の扉が開き、緋色の絨毯がころころと転がり、その両側からはライスシャワーが降り注ぐ。そんな夢のような光景の中、わたしはウェディングドレスを着て幸せそうに微笑んでいます。そしてその隣にいらっしゃるのは、白のタキシードに身を包んだ王子様です。
王子様はわたしより少し背が低くて、明るい栗色の、ふわふわとした巻き毛を頭の両脇でくくったかわいらしい髪型をしています。目はくりくりと大きくて、頬は赤ちゃんの肌のようにすべすべです。そして桃色のふっくらとした唇を開いて、わたしにこう言うのです。
「大好きです、お姉さま」
――と。
って、えええええええっ!?
『ほら、やはりそうだろう?』
「そ、そんな……っ」
わたしの性的アイデンティティがもろくも崩れ去った瞬間でした。
しかし――しかし。
確かに思い当たる節はなくもないのです。
なんとも迂闊なことですが、お兄様に憧れるうちに、わたしはお兄様にふさわしい女性になるというよりは、お兄様のような人になりたいと、そう思うようになっていたのでした。
そう思うようになったのが先か、女の子を好きになったのが先か、それは今となってはわかりません。
お兄様を理想の男性として美化するあまり、まわりの男性が物足りなく見え、自然と女の子とばかり一緒に居るようになった、というのもありそうな話です。
「そんな……わたし……わたし……」
これまで信じてきた何もかもが崩れ去ってしまったような気がしました。
いえ、本当は薄々気づいていたのでしょう。わたしはあれだけお兄様に憧れながら、お兄様の隣に立つ恋人としての、あるいは妻としての自分をどうしても想像できないのでした。それでも自分を騙し、世の中の「ふつう」に合わせようと生きてきた結果がこのざまなのです。
先ほどわたしの耳を塞ごうとしたもう一人のわたしが、呆れた顔でため息をついています。
――ほら、だから言ったのに……。
と。
『なかなか難儀なものだな……エロスというのも』
「ひ、他人事だと思って簡単に言わないでください!」
『いや、すまない。我々ぐねぐねとしたアザミ色の触手には性別の概念は存在しないのだ』
「……それはそれで、寂しいような気もしますね」
『君たちからすると、そうなのだろうな。しかし君は片方の性を必要としていないわけだが』
「お、女の子が好きだからといって、男性が世の中に必要ないとまでは思いません! 別に、男嫌いというわけではないのですから」
『ふむ。興味深い意見だが、これであの時私が覚醒できた理由はわかっただろう?』
「ええ……納得するしかありませんね……」
わたしは小さくため息をつきました。本当の自分を見つめる機会が得られたことはよかったのかもしれませんが、「ふつう」ではない自分と折り合いをつけていくにはまだまだ時間がかかりそうです。
「そ、それで……ぶよぶよとした褐色のゲルのお話でしたね」
『ああ。奴らは有害宇宙生物に指定された危険な存在だ。知的生命体の文明へと潜り込み、内部から腐食させることを無上の喜びとしている』
「そんな恐ろしい生物がこの街に……」
『幸いなことに、奴らが活動を開始してから、まだそう時間は経っていないようだ』
「それは、宇宙基準で……ですか?」
『いや、地球基準で、だ。というのは、この星における奴らの気配がまだ弱いものだからだ。この教育機関――セント・フローリア女学園の半径数キロ以内に大半の気配があり、それより先にはほとんど感じられない』
「わかるのですか?」
『我々ぐねぐねとしたアザミ色の触手には奴らの気配を察知するための独自の感覚器官が存在するのだ。地球人類の感覚でいえば……まあ、奴らの臭いを嗅ぎ分けることができる、といったところか』
「半径数キロ……」
『それ以上のこととなると難しいな。奴らも、我々の感覚器官を欺く程度のことはやってくる』
「では、ホンダさんの気づかないところでああしたゲルが大量に潜伏しているという可能性も?」
『いや、それはない。我々の感覚器官を欺くとは言っても、周囲のものを利用して気配を紛らわせる程度のこと。気配それ自体を消し去ることはできん。が、時間的猶予はあまりないぞ』
「なぜですか?」
『ひとつには、奴らの増殖速度が速いということだ。奴らに限らずゲル種の繁殖は単純な分裂によるものだ。環境にもよるが、放っておけばねずみ算式に増えていく』
ひとつがふたつに、ふたつがよっつに、よっつがやっつに……というわけですね。ポケットの中のビスケットのように、そのままなくなってくださればよかったのですが。
『もうひとつは、地球人類の抱える、生物学的脆弱性の問題だ』
「生物学的……脆弱性、ですか?」
『ああ。宇宙における多くの知的生命体は、自らの精神活動の基盤となる構造を、外界からの有害な影響から保護するために、特別な防衛機構を備えているものだ』
「……つまり?」
『この星のコンピューターでも、ネットワークに接続するならばウイルス対策ソフトを導入するだろう?』
「ええ」
『そのように、宇宙における多くの知的生命体は、彼らの脳にあたる箇所を守るために、何らかの防御手段を持っているものなのだ。が、地球人類は――』
「たしかに、脳を守るのは頭蓋骨だけ、ですね」
『それでは物理的な衝撃に対する防御にしかならない。いや、それすらも不十分だと言うべきだろう。先ほどのように、トラックに轢かれただけで脳に蓄積された情報があっさりと失われてしまいかねない』
トラックに轢かれただけで、というのは地球人類としては頷きがたい言い方なのですが、人はごくささいな事故ででも死んでしまうという意味であれば、その通りでしょう。
『さらには、体内にごくわずかな量の化学物質が取り込まれただけで、精神活動の方向性がねじ曲げられたり、破壊されたりしてしまう』
「……お酒を飲めば頭が回らなくなりますし、病気の中にはウイルスや高熱のせいで脳に後遺症を残すものもありますね」
『こんな致命的な脆弱性を抱えた知的生命体は、宇宙広しといえども地球人類くらいだろう。奴ら――ぶよぶよとした褐色のゲルにとっては格好の餌食だ』
「……っ」
わたしははっとしました。わたしたちにとって、脳がとてもデリケートな器官であることはあたりまえのことです。でも、宇宙の知的生命体にとってはそうではないのです。悪意ある侵入者である彼ら――ぶよぶよとした褐色のゲルにとって、この星はまさしく楽園のように思われることでしょう!
「そんな……! わたしたちは一体どうすれば……!」
『慌てるな。そのために我々ぐねぐねとしたアザミ色の触手が存在するのだ。この場、このタイミングで私が居合わせたのは不幸中の幸いだった』
そうでした。ホンダさんはぶよぶよとした褐色のゲルから文明を守護するぐねぐねとしたアザミ色の触手の分離体なのです。
「では、ホンダさんにお任せすれば、この状況は解決されるのですね?」
わたしは安堵のため息をつきながら聞いたのですが――
『……基本的にはその通りだ。私は奴らぶよぶよとした褐色のゲルとの戦いを得意とする分離体のひとつで、そのために必要な能力を備えている。が、今の私はまだ本調子とは言いがたい』
「あ……」
『それに何より、私は君の身体から離れることができないのだ。幼い君の負ったダメージは、無論とうに癒えているのだが、長い間休眠状態にあったせいで、私の身体は君の身体とわかちがたく入り交じってしまっている。君が地球人類の個体として幼体から成体へと大きく変態する時期だったことも災いしたな』
その言い方だとわたしがまるで虫か何かのようですが、大事なのはそこではありません。
「……まさか、わたしの身体は一生このまま……?」
『いや、さすがにそんなことはない。一週間ほど時間をかければ、互いの身体の癒着箇所を解きほぐし、私は分離体としての本来の姿を取り戻すことができる。もちろん、君の身体には何の後遺症も残さない』
その言葉に、わたしはほっと胸を撫で下ろします。
『だが、今はその時間すらないかもしれない』
「では……」
『本来ならば、我々はこんなことを要求したりはしないのだが、背に腹は代えられない。せめて奴らの居所をつかむ調査だけでも、早急に取りかかりたいのだ』
ホンダさんははっきりとは言われませんでしたが、おのずとおっしゃいたいことはわかります。
「そういうことなら、できる範囲で協力させていただきます」
『助かる。もっとも、調査の多くは私の感覚器官から収集した情報の演算処理だ。君は基本的に普段通りの生活をしてくれてかまわない。君に動いてもらう必要が生じたときには、別途相談させてもらう』
なんだかとんでもないことになってしまいましたが、お役に立てるのなら幸いです。
わたしは紅茶を片付け、午後からの授業へと向かいました。
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