1-03

 庵に落ちた重苦しい沈黙を破ったのは、ノックの音でした。


「……お姉さま、いらっしゃいますかぁ?」


 それは、つぐみさんの声でした。


「ああ、はい……。ただい…ま……、――っ!」


 答えかけて、気づきます。わたしの片腕が、まだ触手のままなのです!

 つぐみさんにこんな姿を見られるわけには参りません!


『ふむ……隠れればいいのだな?』

「え、ええ……早く!」

『わかった』


 ボコボコボコッ!!

 異様な音を立てて、わたしの右腕が脈打ち、沸騰しながら、庵の壁面目がけて凄まじい勢いで膨らんでいきます。右腕の触手は壁面をあっという間に埋め尽くしたかと思うと、その中央をばくり……と開きました。


『さあ、入れ!』

「え、えええっ!」


 テントの幕のように開いた裂け目の奥には、ぐねぐねとしたアザミ色の肉襞が蠢いています。

 せっかく用意してくださったのですが、中に立ち入るのはできれば遠慮したいところです。


「お姉さまぁ?」

「――っ!」


 戸外から聞こえてきたつぐみさんの声に、わたしは覚悟を決めました。

 わたしがその裂け目に飛び込むと、触手の肉襞が不気味に蠢き、わたしの身体を押し包んでしまいます。しっとりとした体温ほどのあたたかさの肉襞が全身にまとわりついてくる感触に、思わず悲鳴を漏らしてしまいます。しかし、開きかけたわたしの口を塞ぐように、ぬめりを帯びた触手が飛び込んできて、実際には声を上げることはできませんでした。入口もあっという間に塞がってしまったため、外の様子を窺うことすらできません!


「……お姉さま?」


 ガチャ、という音とともに、つぐみさんが庵の中に入ってきました。

 わたしはぴたりと動きを止めます。


「……あれ? いらっしゃらない……」


 つぐみさんはきょろきょろと室内を見回し、小首をかしげます。明るい栗色の巻き毛を頭の左右でくくった髪型が、かわいらしく揺れます。今朝のことがあって心配していたのですが、つぐみさんは膝に大きな絆創膏を貼っているほかには大きなお怪我はないご様子です。

 と――


(……??)


 わたしは目の前の光景に違和感を覚えました。

 わたしは最前、ホンダさんの作り出した触手の壁に塗り込められてしまったはずです。それなのにわたしには、庵の中で戸惑うつぐみさんの様子がはっきりと見えているではありませんか! それも、庵の斜め上から俯瞰するような角度で、です。


『声を出してもいいぞ』

「……は、はい」


 口には触手がねじ込まれているはずですが、声を出すことができました。


「これは一体……?」

『君を触手壁に塗り込め、カムフラージュした』

「わたしが今見ている光景は……?」

『私の触手アイによる視覚情報を君の脳内に直接提供している。ちなみに君が今発している『声』は、口腔内に挿入した触手によって君の咽喉の震動を検知し、聴覚情報として処理した上で、やはり君の脳内に直接提供しているものだ』

「……つまり?」

『触手が君の目となり、口となり、耳ともなっている』

「……状況はわかりました」


 わたしは改めて庵の中を見渡します。

 触手アイは触手壁の反対側の壁に位置しているようで、庵の壁に偽装した触手壁の様子を見てとることもできます。それはたしかに、元の壁と寸分も違うことのない完璧な偽装でした。


 ところで今気づいたのですが、何もこんな苦労をして隠れなくとも、事故の後のように触手をしまってしまえば済む話だったのです。

 女の子として何か大切なものを失ってしまったような気持ちに襲われながら、わたしは庵に入ってきたつぐみさんの様子を窺います。


 セント・フローリアには制服が二種類あり、つぐみさんが着ていらっしゃるのはワンピースタイプのものです。清楚なオフホワイトを基調とし、セーラーカラーには紺のラインが入っています。リボンタイは一年生を示す黄色です。

 ちなみにわたしはといえば、触手壁で見えませんが、セパレートタイプの制服を愛用しています。背が高いのでワンピースがあまり似合わないのです。


「……このお部屋、どこかおかしくないですか?」


 つぐみさんのお言葉に、思わずどきりとしました。

 触手壁は見事に元の壁をカムフラージュしていましたが、わたしを塗り込めた分だけ厚みが増えています。

 つぐみさんはよくこの部屋に遊びにいらっしゃるので、違和感を覚えられたのでしょう。よく気のつく子なのです。


「うーん……? 気のせい……ですよね」


 つぐみさんも、まさかわたしが壁に塗り込められているなどとは思わないでしょう。

 庵の広さは六畳ほどで、簡単なキッチンシンクも用意されています。冷蔵庫にはお茶やジュースがありますし、戸棚には茶葉やティーバッグもあります。

 つぐみさんは戸棚から茶葉を取り出し、お湯を沸かして日本茶を淹れました。

 庵の中には、大きなダイニングテーブルといくつかの椅子があります。会議室にあるようなそっけないものではなく、かといって大仰すぎない、この部屋に似つかわしいテーブルセットです。何代か前の青薔薇の君がインテリアに凝っていらしたそうで、このテーブルセットはなんと、その方の手作りなのだそうです。その方は今ではインテリアデザイナーとして活躍されていて、インテリアに詳しい方なら名前を聞けば「ああ、あの人か」と思い当たるのだそうです。

 まったく偉大な先達もいたものですが、他の青薔薇の君や四君のOGの方々も、総じてめざましい活躍をなさっています。わたしも青薔薇の君にふさわしい人となるべく切磋琢磨の日々です。


「はぁ~、落ち着きます……」


 椅子に座ったつぐみさんは、日本茶を一口飲むなり、テーブルに寝そべってしまわれました。

 無理もないと思います。登校途中にあんな事故に巻き込まれたのですから。


「病院に行って、警察に行って、やっと花園に戻ってこられました……。

 もう、お姉さまったらいなくなってしまうなんてひどいです! 警察の方も不審がってたじゃないですか! まあ、事故であることは確かでしたから、事情聴取もそんなにはかかりませんでしたけど……」


 ああ、つぐみさんがお疲れなのはわたしのせいでもあるのですね……。それどころではなかったとはいえ、悪いことをしてしまいました。

 それにしてもつぐみさん、ずいぶんと大きな声でおひとりごとをしゃべられますね。一緒にいる時にはわからないお癖です。


『聞こえやすいように音量を調整してある』

「それは……」


 そこまでしてしまうと盗み聞きというよりは盗聴です。わたしはホンダさんに言ってつぐみさんの声をカットしてもらおうと思いました。

 ですが、


「あぁ、でも……朝のお姉さま、かっこよかったなぁ……」


 つぐみさんのお言葉に、わたしは思わず耳をそばだててしまいます。つぐみさんはテーブルに片方の頬をくっつけたままつぶやかれたので、お声はとても小さかったのですが、ホンダさんが気を利かせて拡大してくださったようです。


「他の方が誰も反応できないでいるなか、美しいお髪をなびかせてさっそうと駆けつけてくださって……。ああ……ああ! お姉さま……つぐみは果報者です……!」


 さっきまでのぐったりした様子が嘘だったかのように、つぐみさんは瞳を輝かせ、両手を握りしめてうっとりとした口調でおっしゃいます。


「あの時、お姉さまはきっと、自分の命に代えてでもわたしを助けてくださるおつもりだったんだわ……。だって、あのトラックがまっすぐ突っ込んできていたら、お姉さま、絶対に轢かれてましたもの」


 ぐしゅ、と湿った音が聞こえました。

 何かと思ってつぐみさんを見ると、つぐみさんは顔中をしわくちゃにして泣かれています。


「ああ……本当にお優しいお姉さま! 天使のようなお方! 全然迷いもせずに、自分の命を擲って他人を助けようとなさるんだもの! 聖母さまが今の時代にお生まれになっていたら、間違いなくお姉さまみたいなお人だったのに違いないわ! いえ、凛々しいお姉さまなら、神の御子のお役目でもよさそうね! わたしはマグダラのマリアになって、お姉さまのお足を洗って差し上げるの!」


 つぐみさんは感極まった様子で椅子から立ち上がります。


「もちろん、他のきみのみなさまもすばらしい方々だわ!

 赤椿の君は華麗でかっこよくて、一体どれだけの乙女が憧れてるかわからないくらいだし、黄水仙の君はご聡明でありながら誰にでも気さくに接してくださるお方。もちろん、四君筆頭の呼び名も高い白百合の君も、才色兼備を地でいかれる華やかな姫君です。

 でも……でも! わたしは声を大にして言いたいのです! わたしのお姉さま――青薔薇の君こと深堂院志摩さまこそ、君の中の君であらせられると! つややかな長い黒髪は、眉の上で上品に切りそろえられ、怜悧なご容貌は大理石の女神像のよう! それでも時たま浮かべられるほのかな笑みがすばらしく魅力的で、あれを一度でも見てしまった乙女は、もう一生お姉さまのことを忘れられないでしょう……! 一見そっけないようでいながら、相手のことを心から思いやってくださっていて、どんなつまらない相談事にも本当に真剣にお答えになってくださるの!」


 い、いたたまれません……! 本当にわたしはどうして隠れようとなんてしてしまったのでしょう!


「たしかに、他の君のみなさんは、卓越した特技の持ち主です。

 赤椿の君ことエリス・奥宮おくみや・エーデルシュタットさまは、演劇部の部長でありながら個人でフェンシングや馬術のインターハイにご出場なさる実力の持ち主。

 黄水仙の君こと馳庭はせばれいさまは、水泳部の部長兼エースでありながらお父君譲りの理数の才まで持っていらっしゃる。

 白百合の君――聖華仙せいかせん友梨亜ゆりあさまは聖華仙グループ総帥の生粋のお嬢様でありながら、財務に明るく、生徒たちはおろか先生方や君のみなさままでまとめてしまう指導力の持ち主。

 それに比べてお姉さまは、華族に連なる深堂院家のご息女ではあるけれど、突出したご特技はお持ちではないですもの。口さがのないものは『お庭の真ん中に堂々たる花をつけるのが白百合、その傍らに赤椿と黄水仙が咲き誇り、少し離れた木陰にひっそりと咲くのが青薔薇』などとおっしゃるの……わたし、悔しい……!」


 つぐみさんの言われることは事実だと思います。他の三人の君に比べて、わたしはなんと劣っていることでしょう。正直に申し上げて、わたしが君を名乗っていいものかと不安になることもあります。


「でも、それは目に見えるものしか見ようとしない、浅慮な方々のおっしゃること! お姉さまの価値を俗世の価値観で計ろうとなさることが間違いなのだわ! そう、お姉さまは聖女でいらっしゃるの! 今日のことばかりじゃないわ! お姉さまが親身に相談に乗って差し上げたことで救われた生徒が、一体どれだけいることでしょう! それでも、お姉さまは決して誇ろうとはなさらないの! それはすばらしい美徳だと思うのだけど、それでは見る目のない方々にはお姉さまの真価はわからないのです……うぅ~!」


 つぐみさんは奥歯を噛みしめて唸り声を上げられます。


「かわいそうなお姉さま! 他のお三方のように自分から前に出て行かれるお方ではないですものね! いえ、だからこそわたしはお姉さまが大好きなのですが、好きだからこそ認められないのが悔しい……!」


 つぐみさんは庵の中をうろうろしながら地団駄を踏みます。

 つぐみさんはしばらくの間、かわいらしい栗色の髪を振りながら「あぁ」「うぅ」と不明瞭な呻きを漏らされていたのですが、やがてはっとした様子で顔を上げられると、とんでもないことを言い出されました。


「そうだわ! お姉さまを讃える詩をお作り致しましょう! それでその詩をマンスリー・フローリアに載せていただくのよ! ああ、そうすればお姉さまのご美徳が花園中に知れ渡るわ! だって、お姉さまは謙虚なお方だから、ご自分の行いを自慢なさるようなことはなさいませんものね!」


 や、やめてください……! わたし、花園にいられなくなってしまいます……!


「そうと決まったら、早速行動です! 文芸部のお友達から詩集をお借りしなくては! お姉さまを讃える詩がへたくそだったら、お姉さまのお恥になってしまいますものね! ああ、お姉さま……つぐみ、がんばります! だから……だから……、わたしの気持ちに応えてほしいとは申しません……でも、末永くつぐみを、お姉さまのおそばにおいてくださいませ……わたし、お姉さまの頼みならどんなことでもいたしますのに、お姉さまは何でも自分でお出来になるから、不出来なわたしにできることなんて何も残されていないのです……。わたし、お姉さまのお役に立ちたい……必要とされたい! お姉さまのおそばにいられる女の子になりたいんです……」


 お言葉の最後は涙で煙ったような声になっていました。

 ああ……嗚呼! わたし、とんでもないことをしてしまいました。つぐみさんのお心を覗くつもりなんて、まったくなかったのです!

 でも、つぐみさんのお言葉を聞いて、胸に熱いものがこみあげてきたことも事実です。つぐみさんがおかわいそうで、つぐみさんが愛おしくて、わたし、気が狂ってしまいそうです。


「……お姉さま、わたしの詩ができたら、ぜひ聞いてくださいませね。今日はお会いできなくて残念でした……」


 つぐみさんはそうつぶやくと、お使いになったカップと急須をきちんと洗われてから、庵を後にされました。

 その背中の寂しそうなことと言ったらありません。すぐにでもこの忌まわしい触手壁から飛び出して、抱きしめてさしあげたい。でも、そんなことをしたらつぐみさんのおひとりごとを聞いてしまったことがバレてしまいますものね……。

 触手壁を割って庵の中に出たとき、わたしの頬には熱いものが流れていました。

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