二〇二一年 都羽 瑞雲(とわ みずも) Ⅱ
最初に劇をやりたいと言い出した下田は、自分の役割をきちんと果たしてくれた。彼は自らが指導するダンススクールの中学生たちに、劇中で披露する振付を丁寧に教え込んでくれたようだ。白やオレンジの無地のTシャツに赤のフリルが施されたスカートで揃えた少女たちは、トランペットを片手に踊っていた。その無垢な姿からは想像もつかないほど、見事なダンスだ。
「踊りだけは、いくら練習したってすぐに上手くなるようなものではないだろ。踊りパートを中学生たちに任せるのは我ながら良いアイデアだったと思うよ」
下田は鼻を高くした。
「うん。たしかに、本当に上手だね」
当日に舞台に立つクラスメイトたちは、中学生たちの踊りに心から感嘆し、じっと見つめながら呟き合った。
実は、体育館のステージの上でクラスメイトの演技と中学生達のダンスがどう融合するのか、不安でもあり楽しみでもあった。
「主役の相澤さんが今日都合が悪いみたいで」
下田は「マジか?」と小さく驚いた顔を私に向けた。
「もしかしたら、今週いっぱいは来ないかも」
「なんで?」
「個人的な理由だからあまり言えないかな」
クラスメイトの演技が物足りないからだと、正直に伝えることはできなかった。
下田は下唇を噛みしめ、しばらく唸った後に告げた。
「主役が舞台に立ってないと立ち位置とか掴めないよな?」
困った顔をしたのは下田だけではなく、クラスのみんなも私を見ている。
「誰か別の人が立っていればいい?」
「動きもあるから、ある程度動きが分かっている奴が変わりになってほしいな」
下田が言う。
当日、舞台の上に立たない人物でアリスの動きを理解している人物など限られるだろう。私が考え込んでいると、私のすぐ近くに立っていた暁斗が言葉を発する。
「俺がやるよ」
暁斗は舞台の装飾の準備でいつも演技の練習を見ているし、その合間に中学生たちにダンスを教えていたりもするから代役には適任だと思った。
「えっ、いいの? お願いできる?」
私が目を輝かすが、下田は首を横に振っていた。
「暁斗は中学生たちにダンスを教えているんだ。舞台の外から俯瞰して見て、アドバイスをほしい」
下田の言うことは正論だ。下田と暁斗以外にダンスを細かく指導できるクラスメイトは他にいない。
「他に誰か主役をできる奴はいないか?」
下田が訊ねる。
一人だけいた。クラスメイトの視線は私に集中している。
「一応、全体の流れは把握しているけど……」
だけど、演技も踊りもすぐにできるとは思えなかった。
「そんな不安な顔をするなよ瑞雲。台本持って確認しながら、形だけ動いて貰えればいいんだ」
「うん。わかった」と、私は頷き体育館のステージの上に立つことになった。
舞台の上の私はみんなの演技やダンスに注意を払えるほどの余裕を持っていなかった。何度もクラスメイトが練習する姿を見ているのに、そこに立つと頭の中が真っ白になってしまい、ロボットのような動きで舞台上を放浪していた。
「ごめんね。いない方がマシだよね?」
体育館の隅で休憩しながら、近くにいた下田に声をかけた。
「いや。いてくれて助かるよ」と下田は半笑いを浮かべる。
「ねぇ。馬鹿にしてる?」
「ぜんぜん。馬鹿になんてしてないよ。本当に位置の確認だけでも必要だ」
下田はそれでも可笑しそうに口元を緩めていた。水分補給のため体育館を出て外の水道に向かうと、同じく外に出ていた中学生たちの輪から微かな声が聞こえてきた。
「ほら、あの人だよね。アリスやっていた人」
私が水分補給に来る前から私のことを話していたのだろう。聞こえていないフリをして私は水道の蛇口を上に向けた。
「歩いている時は人間みたいに歩くんだね」
ステージの上でロボットみたいに動いていた私を揶揄しているのだろう。私は気にせず、蛇口に顔を近付ける。
「あの人が主役だとさ、なんか気合が入らないよね。小学生の学芸会みたいじゃない?」
声の源を探るように、私はそちらへと顔を向けた。
「ねぇ。陽向、声大きいよ。聞こえているよ?」
輪の中の女の子たちの視線は、髪の長い一人の女の子に向けられていた。陽向というのが、彼女の名前だった。
私は陽向に視線を向けたまま、中学生達の輪の中に近付く。
「ごめんね」
刺を出さないように優しく告げた。
フリルのスカートが揺れる、まだあどけない少女たちが、私の顔を恐る恐る見つめた。
「本当は主役は私じゃないの。彼女、今日は都合がつかなくて、私が代役になっちゃったからやりにくよね?」
「そうだったんですね」
遠くのLED照明が照らす陽向の透き通るような白い肌は、まるで月明かりが染み込んだかのような儚さが漂う。ほのかな明かりに照らされた口元が、私には妙に不気味に思えた。
「本番のアリスは本当に凄い子なの。悪いけど、今日は私で我慢して。ごめんね」
「知ってます」
陽向が言った。
「相澤梨月さんですよね。私、あの人に会えるの楽しみにしていたから」
相澤さんは地元の有名人だ。テレビに出ている相澤さんに会いたい気持ちは理解できる。
「ごめんね」
私はもう一度、小さく頭を下げた。
「そもそもさ。私たちが協力しているのに、主役がいないことが有り得ないけどね」
それでも、独り言を呟くように陽向が言う。
「ちょっと。陽向、言いすぎだよ」と少女たちはクスクスと笑う。
どうして、この子にそんなことを言われなきゃいけないのか――私は陽向に反論しようとした。けれども、陽向の主張のどこに間違いがあるのか、私は考えに至ることができなかった。
「そろそろ練習再開させよう」
体育館の中から暁斗が私たちに向かって声をかける。
その瞬間、少女たちは黄色い声を出し、顔を柔らかくした。
私がその場で呆然と立っていると暁斗が私の方へ来た。
「どうしたの?」
「別に、なんでもない。後半も頑張ろう」
私は明るく努めて、暁斗に言った。
明くる日も相澤さんは放課後の体育館に姿を表すことはなかった。
「また、あの人がアリスをやるよ?」
中学生の輪の中からクスクスと笑い声が聞こえる。その中心にいるのは陽向だ。彼女はステージの上でも、私に小さい声で文句を言った。
「本当に邪魔くさい」
「ダンスに集中できない」
「相澤梨月の劣化版」
その声は、聞こえるか聞こえないかの曖昧さを抱え、私に向けられたのか、それとも他の誰かに宛てられたのか定かではなかった。けれども、その言葉が私を貫くものであったことを、私だけは理解できた。
「私、何か陽向ちゃんにしたかな?」
不安になり私は聞いた。
「なんのことですか。被害妄想ですか?」
陽向は馬鹿にしたような笑みを浮かべる。年上の私に対して、恐れを知らずに反発する。その傲慢な態度をためらわずに貫けるのは、彼女の父親が赤丘市の権力者であることが起因しているのかもしれない。
陽向の父親は日本を代表する半導体会社の京堂テクノロジーの社長だということをクラスメイトから聞いた。赤丘市の経済は、京堂テクノロジーの存在によって大きく左右されている。京堂テクノロジーは赤丘市の主要な雇用主であり、地元経済の中心的な柱となっているため、京堂テクノロジーの業績や運営が赤丘市の経済全体に直結している。
「あなたじゃ、役不足なの」
耳元で繰り返される執拗な言葉は、まるで何かに執着しているかのようだった。
下田が休憩を促すと、陽向は無邪気な笑みを浮かべ、長い髪を生き生きと揺らしながら、下田の元へと近付いていった。
私の不満は、乾いた大地にひび割れを走らせるように、胸の内にじわじわと裂け目を広げていった。
「今日は来てくれるよね?」
昼休みの教室で相澤さんに訊いた。
体育館で練習できるのは、その日が最後であった。
「みんな、すごく一生懸命に練習してるから、相澤さんもきっと驚くと思う。だから、今日は来てほしい」
本当にステージの上のクラスメイトの演技は上達していた。
「来れるよね?」
相澤さんの席の正面に立った私は、机に身を乗り出すように彼女に訊いた。
「どうかな?」
曖昧な返事を残して、相澤さんは涼しい顔をしながらイヤホンを耳に入れた。
みんな学園祭の舞台を成功させるために頑張っているのだ。今日だけは来てもらわないと困る。私は相澤さんのイヤホンを優しく外そうと彼女の耳に向かって手を伸ばすと、相澤さんは苦々しい顔を浮かべて顔を横に背けた。
「なに?」
相澤さんは自分の手でイヤホンを外して、私を睨んだ。
「お願い。放課後に体育館で待っているから」
相澤さんは「わかっているよ」と大きく溜息を吐き、またイヤホンで耳を塞いだ。
「みんなも今日は参加してほしい」
私は昼休みの教室に声を響かせるようにお願いした。
クラスの中で、準備に熱心に取り組んでくれたのは半分に過ぎず、他の半分は最初の段階で姿を消していた。手伝いを求める声を上げたのは、単に助けが欲しかったからなのか、それとも一部のクラスメイトだけに負担が偏る罪悪感からなのか、自分でもその意図は曖昧だった。教室で私が声をあげた時、たまたま廊下を歩いていた担任は呆れた表情で教室の中を見やり、それから無言でその場を後にした。
その日の放課後も相澤さんは姿を表さなかった。
下田は家の用事があるから遅れてくるらしく、暁斗は教室で最後の舞台の装飾に力を入れる、中学生を含めた体育館にいるみんなをまとめるのは私だけだった。
下田と、暁斗という監視の目がないから、中学生達のダンスには気合が入っていなかった。二組の生徒なのに演技の指導をしてくれるハムスター先生は困り果て、同じく二組の生徒である健司が、気持ちを落とした私の代わりに舞台の上に気合を入れてくれた。
健司の声を無視して、一向に真面目にダンスを踊ってくれない中学生たちに私は憤りを感じ、近付く本番に焦る気持ちを放出させてしまった。
「どうして、ちゃんとやってくれないの?」
陽向は落ち着いた笑みを浮かべながら、私の方へと歩み寄る。
「瑞雲さんだって、真面目にやってないじゃないですか?」
私の演技を馬鹿にしているのだろう。
「やっているよ。私は」
真剣な顔を言葉を返すと、中学生たちが人を嘲笑うような声をあげた。
「主役の子が練習に来ないのは悪かったと思っている。だけど、他のみんなは頑張っているよね?」
陽向は私の目を真っすぐに見た。
「なにか勘違いしていませんか?」
「どういうこと?」
心当たりがないから私は訊いた。
陽向は私の耳に顔を近付けて告げる。
「ムカつくの。あんたのことが嫌いなの」
耳元で囁かれた声に私は「どうして?」と返した。
「これ以上、下田君に近付いたら殺すから」
私にしか聞こえない声で囁く。
冷酷な口調には狂気の気配すらあり、私は背筋を凍らし、思わず後ろに退くような感覚を覚えた。
そっか、陽向は下田に想いを寄せて、私が下田と仲良く話している姿に嫉妬していたんだ――学園祭に向けクラスをまとめていた私が、ダンスを踊る中学生たちをまとめていた下田と話すことは仕方のないことではないか。
「わかった。気をつける」
私も彼女の耳元で呟く。反論することはしなかった。『殺すよ』と言った彼女の声は真冬の海のように冷たくて静かで、私は恐怖すら感じた。
何故か私は、はじめて会った時から陽向のことを不気味な少女だと思っていた。何をするか分からない子というのが私が陽向に持った印象だった。
――私と皆でつくりあげた舞台を部外者の貴方が壊さないでほしい。
私は祈るような想いで「約束する」と陽向に告げた。
ふいに、バスケットゴールの下にある体育館の扉が重々しく音を立てて開いた。
「悪い。遅くなった」と下田が現れると、陽向の顔は華やかになった。
「みんな、瑞雲さんが言うように、本番まで近いし気合入れてやろう」
陽向はステージにいる中学生の仲間に向かって明るく告げた。まるで、人格が一新されたかのような、爽やかさが滲み出ていた。
「体育館の鍵を返さなきゃいけないから、先に帰るわ」
練習を終え、体育館を出た私たちに向かって下田が言った。
彼は自転車に跨り、ここから一駅先の赤丘市総合体育館に学校の鍵を返しに行く。部活外の社会体育の枠で施設を借用していたので、鍵は学校ではなく市内の施設を管理する総合体育館に返すことになっていた。
下田を見送った後、私と健司は三年一組の教室まで向かった。時刻は既に二十一時を過ぎており、校舎内は深い静けさに包まれている。
「そういえば今日って、先生たちの暑気払いとか言ってたよな」
校舎が異常に静まり返り、人の姿が見えないのは、顧問が不在のため部活動が中止されていたからだろう。
健司と歩く学校の廊下は、薄暗くて、なんだかドキドキした。
三年一組の教室の扉を開けると、暁斗は華やかな笑顔で私たちを迎えてくれた。
「遅かったね。待っていたよ」
暁斗と一緒に舞台の装飾をしていた数人の生徒も満足そうに私たちを見ている。
「見てよ」と暁斗が言った視線の先に私も目を向けた。
暁斗が指さした先には、『不思議の国のアリス』の舞台装飾が息を呑むほどに美しく施されていた。壁にはカラフルなトランプのマークが描かれた布が垂れ下がり、教室の隅には、奇妙な形をしたキノコや大きなカップの模型が配置されている。中央には、大きな鏡が設置され、その前に立つと、まるで自分が物語の中に迷い込んだかのような錯覚に陥る。
その光景に目を奪われ、私はしばし言葉を失った。暁斗が中心になって、手間ひまかけて作り上げた装飾は、細部にわたって精緻に作り込まれており、あたかも本物の「不思議の国」の一部が現実世界に降り立ったかのようだった。彼らの情熱と創意工夫が詰まったその空間は、感動的な美しさを放ち、私の心に深い感銘を与えた。
「驚いた。何て言ったらいいのか」
私の言葉に作業をしてくれた皆が嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「この少ない人数で、ここまで進めたの?」
いつもと変わらない数のクラスメイトしか、教室の中にはいなかった。
「うん」と暁斗が頷く。
私が昼休みにお願いしたからと言って、誰一人、心が動くことはなかった。
「ごめんね。大変だったよね」
「別に瑞雲が謝ることではないでしょ。それに、ここにいる皆と作業ができて、俺は楽しかったよ」
他のクラスメイト達も暁斗の言葉に頷く。
「健司も別のクラスの準備にこんな遅くまで手伝ってくれてありがとうな」
暁斗が言うと、健司は遠慮がちに手を振り、「俺は別に好きでやってるから。それにしても、よくここまでの装飾ができたな」と再び感心を示した。
教室を出た私たちが体育館の横を通ると、体育館の扉の前に人影が見えた。
「陽向かな?」
暁斗が呟く。
目を凝らすと、長い髪をたなびかせた陽向のシルエットが静かに佇んでいるのが見えた。
「親が迎えに来ないのかな。声かけてくるね」
暁斗は舞台装飾のための荷物を両手にぶら下げていた。
「そんなに心配することないんじゃない?」
陽向に対する煮え切らない気持ちが私の心の中にあったのかもしれない。陽向のことなんて構わないで駅まで急ごう――そんな言葉を喉元で堪えた。
私の言葉に暁斗は首を横に振った。
「物騒な世の中だからな……」
それ以上、深いことを暁斗は言わなかった。最近、赤丘市では猫や犬が無残な姿になって発見される事件が増えている。そして、開光高校体育館前でも、先日、何かに切り裂かれた猫の死骸が見つかったという。その、被害者である健司が近くにいるから暁斗は言葉を濁して私に伝えたのであろう。
誰かの手によって飼い猫を殺された健司が「そうだな」と頷く。
「体育館の倉庫の中で精液が見つかって、警察が来たこともあったよね。直近で警察が二回も来ているんだ」
確かに最近、開光高校の周囲も物騒になってきたとは感じる。けれども、陽向になんて関わらなければいいのにといった不快な思いが、心の奥底でくすぶっている。
暁斗が両手に持っていた道具を地面に置こうとした時、健司が言った。
「いいよ。俺が声をかけてくる」
健司は小走りで陽向に近付き、「陽向ちゃん」と呼びかける声が遠くから聞こえた。陽向は何かに夢中で、健司の声は聞こえていないようだ。
戻ってきた健司は、「もうすぐ、陽向ちゃんの母親が迎えに来るみたいだから大丈夫」と言う。
私たちは陽向を残し、学校を後にした。
駅までの道の途中で、民家のシャッターで塞がれた倉庫の奥から声をかけられた。
シャッターが僅かに開いた隙間から倉庫の中を覗くと、バイクやその修理部品が並ぶ中に銀髪の男の姿があった。
「こんな遅くまで作業をしていたのか?」
松川だった。この倉庫がある家は竹岡の家だと言うことを私は知っている。下校途中に竹岡がこの家に入っていく姿を度々見かけたことがある。
これはいつの頃か、作業服を着た大工であろう父親と倉庫の中で親し気に話す二人の会話を聴き、竹岡の声が大きいのは父親譲りであるのだと妙な感心を覚えたことがある。
「そう。学園祭の準備をしていたんだ」
暁斗の態度も素っ気ない。今日はクラス全員で作業をする日であった。暁斗は私の気持ちを汲んでくれたのであろう。
「ご苦労さん」
その言葉に自分の頭の中が熱くなっていくのを感じた。暁斗に全てを任せて、悪びれる様子も見せない彼を許せない。
「竹岡は?」
暁斗が訊く。
「中にいる。話すか?」
「いいよ。じゃあな」と暁斗は片手を軽く上げて、駅へと向かい始めた。
しばらくして、私は暁斗に訊いた。
「竹岡たちは、全部、暁斗に仕事押し付けたんだよね。やっぱり、不満とかあったよね?」
自分の役割を果たそうとしないクラスメイトたちと、そんな中でも穏やかに会話を続ける暁斗の心の内を、もっと知りたかった。それと、私が至らないせいで、暁斗の負担が増えてしまっていると、不満を抱えていたのかもしれないと気になった。
「あいつらのおかげで俺に大切な思い出ができたよ」
「どういうこと?」
私は怪訝な顔を暁斗に向けた。
「竹岡たちがサボることで僕たちがどのくらい困ったかなんて、ただの表面的なことだと思うんだ。実際には、僕たちは共に支え合い、かけがえのない思い出を形作ったんだと思えないかな。ほら、瑞雲と健司とだって、久しぶりにこんなに熱く話せたじゃないか。もちろん、それぞれ不満は持っていたと思うけど、竹岡たちの存在がなければ、こんなに深く絆を感じることはなかったと思うよ」
気取った言葉ではなく、暁斗の本心からの言葉だと感じた。
「たしかに、暁斗の言うとおりなのかもしれないね」
私は暁斗に言われるまで気がついていなかった。表面的な出来事に不安だけを溜めて、中の本質を見ようとしていなかった。学園祭の劇は着実に完成に近付いていた。ひとえにそれは、放課後の時間に残って準備をしてくれたクラスメイトたちのおかげであった。それなのに私は、手伝ってくれない人にだけ目を向けていたのかもしれない。
「改めてけど、ありがとうね。本当に!」
「どうしたの。突然?」と暁斗が首を傾げる。
健司は私たちの会話に耳を傾けず、呆然と空を見上げて歩いている。
別に伝わらなくてもいいんだ。私にとって皆と築き上げたものがかけがえのない想い出になれば。皆のためにも絶対に成功させたい。そうだ、家に帰ったらすぐに、皆に感謝のメールを送ろう。気まぐれだって良い。私が伝えたいから伝えるんだ。
「雨?」
ふいに、健司が呟いた。
私の腕に水滴が当たった。
「ホントだ」と私が言う。
「そういえば、これから激しくなるみたいだよね?」
暁斗の言葉に健司は私たちのことを見た。
「傘持ってないから、先行くな」
私たちが頷くと、健司は返事を待たずに駅に向かって走り出す。
呆然と健司の後ろ姿を眺めながら私と暁斗は歩く。
健司の姿が闇に薄れ、次第に雨は天気予報のとおりに強くなった。
暁斗の両手は荷物で塞がっているから、私は自分の傘を広げ、その一端を彼に寄せた。
「いいよ?」と暁斗は恥ずかしそうにする。
「照れないでよ。小さい頃なんて一緒にお風呂に入った仲でしょ?」
私が暁斗を冷やかすと、暁斗は真剣な顔を私に向けた。
一つの傘の中で、顔を近付けた暁斗を見て、大人へと成長した彼を真剣に見たことがなかったことに思い至った。
「好きなんだよ」と暁斗がぶっきら棒に言う。
私はもう一度、暁斗の顔をまじまじと見た。それから、健司の背中を探した。健司の背中は薄っすらと闇に消えようとしている。
健司が走って駅に向かった理由を私をようやく理解した。
その日の夜、赤丘市内の公園の多目的トイレの中で京堂陽向は意識のない状態で見つかり、その後、死亡が確認された。
私がそのニュースを聞いたのは翌日の学校のことだ。
そして、すぐに、その噂が私の耳元を掠めた。
クラスの日常が崩れていく瞬間だった。
その日、長期間学校を休んでいたクラスメイトが教室に現れ、金髪の竹岡に「金を返せ」と詰め寄り、殴りかかるという出来事があった。今思い返せば、それも些細なクラスの崩壊の一部だったのだろう。その騒動はまるで小さな波のように消えた。全ての視線と耳は、陽向が殺されたという衝撃の事実に集中していた。
「犯人は三年一組の男子生徒らしいよ」
風の囁きのように耳に届いたその言葉は、私の心を深く揺り動かした。警察は何か有力な情報を掴み、私のクラスの男子生徒を疑った。
私服の警察官たちが次々と開光高校の門を潜り、私のクラスへと足を運んだ。その日の授業は全て自習になり、午後になって私も女性の警察官に事情聴取された。
翌日、私たちのクラスだけが学園祭から除外され、自宅待機を命じられることになった。
「言うまでもないことだが、自宅待機だから家の外に出てもいけないぞ」
担任の粕田があっさりと私の学園祭の終わりを告げた。
私は無意識に、おもむろに立ち上がっていた。
「どうしたんだ。都羽?」と担任は私に目を向ける。
「どうして私たちは学園祭に参加できないんですか?」
「当然だろ。こんなことになっているんだから」
「こんなことって、私たちと一緒にダンスをやってた女の子が死んで、その犯人が私たちのクラスの中にいるからですか?」
担任は呆れた表情で私を見たが、私は意に介さず、伝えたいことを口にした。
「誰かが殺人をしたから、私たちが連帯責任でその誰かの責任を一緒に背負わなければいけないってことですか?」
「子どもみたいなこと言うなよ。当然だろ」
「当然なんですか? 舞台の準備をする時は偏った人にだけ皺寄せがいって。事件の時だけ、どうして私たちまで平等に罰せられなければならないのですか?」
「罰じゃないだろ」と粕田が溜息を吐く。
私だって理解している。
自分の論は無茶苦茶だ。学校が私たちのクラスだけ除外したのは、私たちを誹謗や中傷から守るためである。自分のクラスの中に殺人犯がいるという、そんなプレッシャーから少しでも休む時間を与えるためなのかもしれない。だけど、どうしても口の動きが止まらなかった。
「学園祭に参加させてください」
陽向を殺した犯人は学園祭に参加しなくていい。竹岡たちも参加しない。相澤さんだって、私がアリスをやるから参加しなくていい。サボってた人達みんな参加しなくていいから。そうじゃないと、頑張ってくれた人達に報われない。
「自分のできる範囲で無理しないように参加すればいいんですよね?」
粕田だって、そんな風に言っていたでしょ?
一緒に頑張ってきた皆と最後までやり遂げたいの。子どもみたいな意見だって理解している。私がいくら主張したって、何も変わらないことを知っている。
ねぇ。陽向?
どうして貴方は私の邪魔ばかりするの?
お願い。私たちの学園祭を壊さないで。
殺されても尚、私は陽向が憎くてたまらなかった。
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