二〇二五年 福地 暁斗 Ⅱ
暁斗は、瑞雲と共に車を降り、重い足取りで葬儀場へ向かった。
雨が静かに降り続け、黒い傘の下で二人の沈黙は深まるばかりだった。暁斗が下田の死を巡り、一方的に瑞雲を批難してしまったことは、二人の間に微妙な距離を生み出していた。瑞雲との間には、まだあの日の会話の余韻が残っている。
葬儀場の入り口に立った瞬間、暁斗の胸に苦いものが込み上げてきた。下田が世間の誤解と憎悪に晒され、無実のまま命を落としたという事実が、彼の心に重くのしかかる。
下田は、四年前の事件の犯人ではない。
警察は下田に明確なアリバイがあったことを発表した。
それが証明された今もなお、メディアは下田を疑い続け、人々はその影響を受けている。暁斗は、その理不尽さに言葉を失うばかりだった。
葬儀は下田の地元の公民館で行なわれた。
世間が注目する事件であってか、葬儀は親しい者にだけ知らされていたため、参列者はごく少数に留まった。
下田の母親が仮設の壇上で泣き崩れる姿を見つめながら、暁斗は深い罪悪感に苛まれていた。
――あの日、自分がすぐにでも下田と話す機会を設けていれば。
友人として、下田を守ることができなかった無力さが、暁斗の胸を締めつけた。
「どうして啓史が殺されなければならなかったのか?」
下田の母親が呟いたその言葉が、暁斗の耳に焼き付く。下田の母親の悲しみは、暁斗にとってあまりにも重く、また、自分自身の内に抱えた痛みを一層深めるものだった。
「あの子は人を殺せるような人間ではありませんでした。事件のあった時間帯も啓史は家にいて、私は啓史と話していたんです。あの子が犯人ではなかったことを私は知っています」
下田の母親がいくら主張したって、息子はもう戻ってこない。せめて、息子に対する世間の誤解だけは払ってあげたかったのであろう。
葬儀場にはかつてのクラスメイトたちの顔がいくつか見受けられたが、暁斗も瑞雲も彼らに話しかけることはなかった。かつて教室で育まれた友情が時の流れと共に色褪せてしまったように、クラスメイトたちはお互いを見知らぬ誰かとの空間を嫌がるように遠ざけていく。自分が置かれている立場に不安を感じているのかもしれない。
葬儀が終盤に差し掛かり、公民館の中では故人に最後の別れを告げるための時間が設けられている。参列者たちは順番に前に出ていく。暁斗はふとした瞬間、後ろから肩を叩かれた。振り返ると、そこにはかつてのクラスメイトである竹岡則康が立っていた。ちょうど、瑞雲が暁斗の傍を離れた時であり、暁斗が一人になるタイミングを竹岡は狙っていたのかもしれない。かつて頻繁に変えていた竹岡の髪色は、今や生まれたばかりのような自然な黒髪に戻っていた。眼鏡をかけたその顔立ちは、以前とはかなり変わっている。竹岡は小声で暁斗に話しかけた。
「暁斗は警察官だから、怖くないよな?」
かつての彼は恐怖という概念が抜け落ちてしまったような人物であった。よく言えば度胸があり、悪く言えば浅はかだった。だが、今の竹岡の表情には明らかな不安の影が落とされている。
「下田がやられたみたいに、俺たちもいつか狙われるんじゃないかって……。特に俺はさ、事件の有力な容疑者だと言われることもあるから。一応、俺もあの時のクラスメイトだろ」
竹岡もまた、ネットの書き込みを気にしているのだろう。
四年前の事件の後、追試の結果が振るわず、竹岡は留年することになった。暁斗たちと共に卒業できなかった彼は、翌年には学校を退学したと、風の噂で耳にした。
下田と同じように、つまりは無実のまま狙われる可能性があることを竹岡は危惧していた。竹岡にかける言葉を探したが、何を言っても彼の不安を取り除くことはできないことを知っている。
「僕だって不安はあるよ」
暁斗は自分自身の心の中にも同じ恐れが忍び込んでいることを認めた。下田が殺害された翌日以降、暁斗のもとには、何人かの旧友から連絡が届いた。
『誰かに狙われているような気持ちだ。実際に跡をつけられていると思う』
旧友の勘違いなのではないかと聞き流すことができなかった。複数の旧友が同じようなことを証言しているのだ。実際に、当時の開光高校三年一組の男子生徒に何の目的か、付きまとう人間はいるのだろう。
下田が殺害された翌日、京堂陽向の父親が自身の所有する京堂テクノロジーの株式を数十億円規模で売却したとの報道が流れた。これが、容疑者候補たちの殺害を支援するための準備金ではないかと世間を騒がせていたのだ。
「昨日、背負ってたリュックが誰かに切られたんだ。露草競輪場前の商店街を歩いていた時だと思う。店に入って昼食を食べている時に気がついた。今日、そのリュックを持ってくればよかったな。リュックじゃなくて俺を刺そうと思っていたんじゃないのか」
リュックを確認するまでもなく、竹岡の動揺した様子を見れば、彼の言葉が事実であることは容易に想像できた。インターネット上には、暁斗の顔を含め、かつてのクラスメイトたちの写真と名前が一覧で公開されている。まるで暁斗たちは指名手配者のようだ。
「警察には相談した?」
「もちろん。話したよ」
「それで、何て言われた?」
「気をつけてくれで終わりだよ。どうにかしてくれよ」
竹岡は嘆くような声を静かに漏らす。同じ組織に所属する暁斗への不満も混ざっているのかもしれない。
「僕からも上司に伝えるようにするよ」
暁斗は小声で告げた。
「俺たちの首には懸賞金がかかっているんだ」
京堂陽向が殺害された事件から四年が過ぎた今でも、暁斗たちは犯罪者のような扱いを受けることがある。あの声明文のせいで、かつてのクラスメイトたちへの被害が更に拡大してしまうのではないかという不安が暁斗の頭の中を渦巻いていく。
――この不安は、誰が京堂陽向を殺害したのか、本当の犯人を突き止めない永遠に限り付き纏うのではないのか。
暁斗は自分が真実を突き止めなければならないのではないかと感じ、強く拳を握る。下田の無念を晴らすためにも、そして、これ以上の悲劇を防ぐためにもと気持ちを掻き立てる。葬儀場の冷たい空気が、暁斗の決意を固くしていった。
葬儀場を後にした暁斗は、瑞雲と共に暗がりの駐車場へと歩みを進めた。先程から振っていた雨は止んでおり、真夏の生暖かい夜風が暁斗の頬を撫でる。
瑞雲の横顔はまだ険しい。二人の間に流れる無言のせいか、駐車場の砂利を踏む音がやけに大きく感じられた。
車に乗り込もうとした時、スラリとした女性が突然目の前に現れた。
「えっ!?」
暁斗は驚き、身を構えるのが遅れた。
黒い影は近づく。
竹岡から聞いた話がまだ頭の中に鮮明に残り、押し寄せる不安に暁斗の心は激しく揺さぶられた。だが、傍らにいる瑞雲だけは守らなければならない。咄嗟に、暁斗は瑞雲を手で後ろへと隠した。
突如として現れたのが女性だということがわかった。夜の闇に溶け込みながらも妙な存在感があった。四十代くらいかと思われたが、駐車場の人勧センサーのライトに照らされたその顔は、若作りの風貌のせいか彼女の年齢を曖昧にする。
「県捜査第一課の海老根葵(えびねあおい)です」
女性はそう名乗り、素早く警察手帳を見せた。暁斗は身構えた姿勢を解くことはしなかった。その名前に心当たりはない。
海老根は暁斗の疑いの視線を真っすぐに見つめ返した。彼女の鋭い眼差しから、何か確信めいたものを暁斗は感じる。
「赤岡署地域課の福地暁斗さんですよね。しばらくここで待たせてもらっていたの」
その声には無駄な感情が含まれておらず、ただ事実を伝えるかのような落ち着きがあった。
海老根は妻の方へ顔を向け、「驚かせてごめんなさい」と小さく頭を下げた。そして顔を上げると、再び暁斗の方へ向き直った。
「福地巡査に聞きたいことがあるの。京堂陽向さんの事件のこと。今から少しだけ時間をもらえない?」
暁斗は彼女の申し出に戸惑いを覚えた。警察手帳を示されたこともあり、海老根が同じ職業に従事する者だという安心感はあったものの、彼女の存在には得体の知れないものがあった。
瑞雲は不安げな表情を浮かべ、心配そうな目を暁斗に向ける。
暁斗は逡巡するが、自身の先程の決意を思い返した。真実を突き止めるんだ――。
「先に帰ってほしい。僕は電車で帰るから」
瑞雲はしばらく躊躇ったが、結局、頷いて車に乗り込み、エンジンをかけた。
海老根は瑞雲の車が見えなくなるのを確認した後、無言で近くの喫茶店へと歩き出した。暁斗はその背中を見つめ、一瞬の躊躇の後、彼女の後を追った。
喫茶店に入ると、薄暗い照明と古めかしいインテリアが落ち着いた雰囲気を醸し出していた。二人は奥のテーブルに腰を下ろす。
海老根はメニューを手に取ると、暁斗を見上げ、さばさばとした口調で言った。
「私のこと、知らないわよね。でも、私は福地巡査のことをよく知っているわ。下田啓史とあなたの関係も」
「海老根さんは、県の捜査第一課と言いましたよね。京堂陽向さんの事件を担当しているのですか?」
確認のために暁斗が訊いた。
「そう。先日、異動があって、京堂陽向さんの捜査を引き継いだところ。あれから、四年が経つでしょ。県警も大きく方針を変えたみたいね」
「容疑者の範囲を当時の三年一組の生徒から広げるんですよね?」
警察内部にいる暁斗の耳にもその情報は入ってきていた。
事件から時間が経過し、通常であれば容疑者の範囲は絞られていくはずだが、この事件では生徒たちのアリバイが崩せず、捜査は停滞しているのが明らかだった。今さら捜査の範囲を広げても、時間とともに事件は風化し、曖昧さが増すばかりだろう。
「本当に困った仕事を押し付けられたわ」
海老根が愚痴っぽく呟いた。初動捜査の重要性をよく理解しているであろう海老根にとって、この状況は、割れた卵で目玉焼きを作れと指示されているようなものだろう。割れる前の状態には戻せない。それでも、当時の状況を知る人物から少しでも情報を得たいのだ。
「それで海老根さんは何が知りたいのですか?」
「今のところはすぐに知りたいことないかな」
はっきりと彼女は告げた。
「じゃあ、どうして私をこんな場所まで連れてきたのでしょうか?」
「そうね。挨拶がてらかな」
海老根の言葉が暁斗にはあまりに悠長に感じられた。警察が未だに犯人を取り逃がしているせいで、下田は犠牲になったのではないか。
「随分と呑気ですね」
警察の階級上、海老根が上官だったが、暁斗は親友である下田を思い、その言葉を飲み込めなかった。
「私は小さい心からダンスをやっていたんです。元々、引っ込み思案で友達がいなかった私が唯一のめり込むことができたのがダンスでした」
唐突に口を開いた暁斗の言葉に海老根はじっくりと耳を傾けた。
「私の人生ではじめてできた友人がダンス教室で知り合った下田でした。下田は私と正反対の性格で、彼は社交的でクラスの人気者って感じの児童でした。それこそ、小学生の頃は毎日のように下田と遊んでいました。頻度は違えど、その関係は中学生になっても、高校生になっても、変わりませんでした」
「そう」と短く海老根が相槌を打つ。
「下田の奴、ムカつくんですよ。揶揄うのが下手で、嫌がるまで人のことを小馬鹿にして笑うんです。当時は何度も喧嘩をしました。正直、嫌いだった時期もあります。それでも、私の親友が誰なのかと訊ねられれば下田の名前を挙げます」
海老根は運ばれてきた紅茶にガムシロップを一滴垂らし、赤く彩られた厚い唇にカップをそっと近づけた。
「犯人を捕まえることができなかったから、下田は殺されてしまったんです」
暁斗の声は震えていた。下田が事件に巻き込まれ、無実の罪で命を奪われたことに対する憤りを海老根にも理解してほしかった。
「すぐに捕まえるから」
暁斗には、海老根の言葉が、まるで木にぶら下がった風船を取ってあげるかのような、感軽々しさを感じた。しかし、紅茶の入ったカップをテーブルに置いた海老根の表情には、確固たる意志が滲んでいる。
呆然としたまま海老根を見つめる暁斗に、海老根は続けた。
「被害者の父親が、とんでもない声明を出したせいで、私たちも窮地に立たされているのよ。でもね、貴方達のことを考えたら、もっと深刻よね。三年一組だった福地巡査も相当困っているんじゃない。どう?」
暁斗は、海老根を信頼していいのか迷い、曖昧な返事をした。すると、海老根が「具体的に教えて?」と、身を乗り出す。
「京堂陽向さんの父親が声明文を出してから、私の元にかつての同級生から何件か連絡がありました」
海老根が「詳しく」と問われ、暁斗は一瞬考え込み、それぞれが話した内容を一つひとつ丁寧に思い返しながら、細部まで漏らさずに伝えた。
暁斗が話す間、海老根はコップの中の氷を揺らしながら、視線は店内の奥の方へと向けていた。
「今の彼らの目には、見知らぬ人々が皆、自分を裁こうとする執行者に映っているはずです」
「わかるよ」と短く海老根が告げる。
「相談されたのは電話だけではありません。今日の葬儀でも相談されました」
実際に竹岡は背負ったリュックを切り裂かれたと言った。竹岡の語り口調は事実のようにしか聴こえなかった。
「竹岡則康さんね?」
「ご存知で?」
「当然でしょ。四年前のその日の彼は、家の倉庫の中で同じクラスの生徒と一緒にいた。彼にも、もちろんアリバイがある。福地巡査は帰宅中に竹岡の家の倉庫にいたクラスメイトの松川と会話をしているよね?」
学園祭の準備をサボった松川には、悪びれる様子を感じなかった。揚々と彰人たちの前に現れ、会話を交わしたのを覚えている。帰宅のため瑞雲と健司と一緒に駅に向かう最中のことであった。
「よくご存知で」
「福地巡査の元クラスメイトのことなら、ある程度は頭に叩きこんだわよ。それにしても、福地巡査の同級生の身に危害が及んでも、仕方のない状況ね」
海老根が言う。
「しばらくの間、皆んなを警護することはできないのでしょうか」
「うーん。どうだろう。誰をいつまで警護するればいいんだろうね?」
暁斗は海老根の質問に首を傾げた。はっきりとした答えは見つからない。それでも、かつてのクラスメイトたちがこの四年間、世間の目を避けるようにひっそりと生きてきたのだろうという漠然とした想像が頭の中にはある。
「たしかに下田警視さんが殺害されてように、模倣犯が生まれる可能性だってあるわね。私の方から対策はするように伝えておく」
海老根は紅茶を飲み干すと席から立ち上がった。
「今日は挨拶をしたかっただけだから」と机の上の伝票を手に取る。
「今日はこれで。また赤丘署に顔を出すわ。せっかくの注文だし、しっかり飲み干してから店を出るのよ。それとお願いが一つだけある」
最後に思い出したように海老根は言う。
「なんですか?」
「どこかで、あなたの奥さんの話を聞かせてほしい」
暁斗が「わかりました。伝えておきます」と頷くと、海老根はゆっくりと店のレジの方へ向かった。
暁斗の席に置かれた紅茶は、蒸気すら立ち消え、一度も口をつけぬまま、その琥珀色の液体は静かにカップの中に残されていた。
下田の葬儀から二日が過ぎたが、赤丘署の地域課は普段通りの喧騒に包まれていた。その中で、暁斗の心には、葬儀の重苦しい余韻と、またしてもかつてのクラスメイトが被害に遭うのではないかという不安が、根を張り続けていた。
この二日間、暁斗はデスクに向かってはいるものの、思考は常に下田のことに引き戻され、仕事に集中することができずにいた。
妻の瑞雲からは「無理をしないで」と言われたが、何もしていない時間こそ、かえって不安を募らせるものである。
昼を少し過ぎた頃、上司の岩井がいつもより少し早足で暁斗のデスクにやってきた。表情は普段の冷静さを保っていたが、新たな事件があったことは一目でわかった。
「暁斗、ちょっと来い」
岩井が低い声で呼びかける。暁斗は瞬時に緊張し、立ち上がって岩井のあとを追った。署の廊下を歩く足音が響く中、岩井が唐突に告げた。
「落ち着いて聞いてくれ。君の同級生がまた被害にあった」
暁斗は胸の奥で心臓が一瞬、息を潜めたかのように感じた。
すぐに岩井が言葉を加える。
「駅で事故だ。命に別状はない。駅のホームで突き落とされたが、電車への衝突は免れたみたいだ。被害者は
「はい」と暁斗はおぼろげに返事をする。
古地のイメージといえば、歴史や社会学が好きな同級生というくらいで、当時も深く関わることはなかった。先日のクラス会にも古地は顔を見せず、卒業してから一度も暁斗は彼とは会っていない。
「ホームから急に落とされたみたいで、腕を骨折したみたいだ」
下田の死をまだ消化しきれていない中での、またしても身近な旧友が巻き込まれた事件である。どこに向ければいいのか、怒りが込み上げてきた。
「意識はあるということですよね?」
「問題ない。被害者は、念のため、赤丘病院にいる」
安堵の息が自然と漏れた。すぐに頭の中には、葬儀の際に竹岡が相談してきた内容が蘇ってくる。
『俺たちの首には懸賞金がかかっているんだ』
その時は漠然とした不安に過ぎないと受け取っていたが、今となってはその言葉が胸に染み渡っている。下田が殺されたばかりであるにも関わらず、再び同級生が危険に晒される事態となった。声明文に込められた陰謀は、予想を超えた形で社会に波紋を広げ、暁斗たちの周囲に不穏な影を落としているのだと、改めて痛感させられた。
「犯人は捕まったんですか?」
「近くにいた私服警官が取り押さえた」
犯人の逃走が阻止されたことに、ひとまず胸を撫で下ろす。再び同じ相手に狙われるという不安は、払拭できた。しかし、一人捕まったからといって、全てが終わったわけではない。まるでマトリョーシカ人形のように、その背後には新たな刺客が控えているかもしれないという疑念が、静かに頭をもたげてくる。
「病院に向かってくれ。県警からの指示だ」
岩井が静かに命じる。
岩井の指示に暁斗は自分の耳を疑った。
今まで、暁斗が京堂陽向の事件に関わることはなかった。組織は、事件の関係者である暁斗を捜査に関与させることを避けていた。これは、関係者が捜査に関わることで、証拠の隠滅や捏造、さらには捜査の公正性が損なわれる可能性があるため。また、関係者が捜査に関与することで、心理的なプレッシャーやバイアスが生じ、真実の解明が妨げられる恐れもあるから当然である。
戸惑う暁斗に岩井が重ねた。
「暁斗を向かわせるように指示したのは県警の海老根葵だ」
「えっ?」
「知り合いなのか?」
「いいえ。下田啓史の葬儀に参列した際、帰りに呼び止められ少し話したんです」
「そうか。少し変わっているという噂だが、優秀だと聞く」
暁斗が「どのように変わっているのですか?」と訊ねるが、岩井はその質問を受け流し、「勉強してこい!」と力強く暁斗の肩を叩いた。
暁斗は病院に到着すると、急いで福地の病室へと向かった。
赤岡病院の廊下は、消毒液の匂いと足音を吸収するかのように静まり返っており、無機質な白い壁が続く。
病室のドアの前に海老根の姿があった。彼女はスラリとした体型を引き立てるタイトなジャケットを着こなし、淡々とした表情で暁斗を見つめる。暁斗が近づくと、海老根は無言で軽く頷き、ドアを静かに開けた。室内は、柔らかな朝の光が窓から差し込み、古地の姿が照らし出された。
古地は、腕をギプスで固定してベッドに座っていたが、その表情は思ったよりも元気そうで、どこか以前の懐かしさすら感じさせる。古地と目を合わせると、彼の顔に微笑が浮かんだ。
「おや。福地暁斗君じゃないか。お久しぶりだね」
溌溂とした物言いに、暁斗は四年ぶりの再会を喜ぶかのように軽く手を上げた。
古地の顔には、かつての面影が色濃く残っていた。高校時代、新聞部に所属し、歴史や社会学に情熱を注いでいた古地は、今もその穏やかな知性を漂わせている。怪我はしたものの、その瞳には変わらぬ鋭さと落ち着きがあった。
古地は、「仕事が止まってしまって困るなぁ」とお道化たように言う。詳しく聞けば、彼はコンピューター機器を官公庁や学校に搬入し、セットアップするコンサルのような仕事をしているようだ。腕の負傷が仕事に支障をきたすことが何よりも心苦しいと説明した。
海老根は、さばさばとした口調で古地に尋ねる。
「負傷具合を確認したけれど、大事に至らず何よりですね。さて、今朝の事件について、詳しく話していただけます?」
その態度には無駄がない。
「わかりました。とは言っても、自分でも何が起きたのかさっぱり理解していないんですよ。導入したタブレット端末のソフト更新のために、小学校をいくつか回る予定になっていたんですよ」
「普段から車ではなく、電車を使用しているのかしら?」
「まちまちですね。荷物が多い時は作業者を使うのですが、運転がどうも苦手で」
「今日の作業は日々のルーティン作業だったのですか?」
「いいえ。数カ月に一回のメンテナンスです」
「そう」と素っ気なく相槌を打った海老根が確認したかったことは、古地を襲った犯人が彼の行動を以前から監視していたかどうかであるのだろう。日々の習慣の中で事件に遭ってしまったのであれば、その習慣となった行動が狙われた可能性がある。
「犯人の顔は見ました?」
海老根が続ける。
「もちろん。線路から引き上げてもらった後に睨んでやりましたよ。それにしても、犯人を捕まえたのが私服警察官だってことを知った時には驚きましたよ」
「赤岡市周辺の警備を強化していました」と海老根は暁斗の顔をちらりと見た。もしかすると、海老根が暁斗の要請に応じて、市内の警戒を厳重にするよう手を回してくれたのかもしれない。
「犯人に心当たりは?」
「ありませんね」
「最近、誰かに付き纏われていると感じたことは?」
「ないです。ストーカーの一人や二人いても可笑しくないのにね。生憎、古地春樹の魅力に気づける人間はまだいないようです」
海老根はちっとも顔を緩めることなく、質問を重ねた。
「最近、貴方の身の回りで不審なことが起きたことは?」
「それもありません。同じような危険を感じたことも一切ありませんでした」
海老根は「そっか」と呟き、古地の目をじっと見つめた。
「古地春樹さん。ちょうど貴方に聞きたかったことがあったの」
「おや。なんです?」と古地は明るく応じる。
「四年前の京堂陽向さんが殺された日のことです」
古地の顔に浮かんだ一瞬の緊張を、暁斗の目は逃さなかった。
「さんざん応えてきた内容です。今でもよく覚えてます。なんでも応えますよ」
「事故に遭ってすぐのことなのに申し訳ないですね」
「気にしないでください。聞きたいこととは?」
古地は余裕な笑みを浮かべる。
「ただ単に確認をしたかっただけです。その日、古地さんは、学校が終わると露草競輪場前駅近くのカラオケ屋に行ったそうですね」
古地は頷き、一緒にカラオケ店に行った五人の名前を挙げた。五人とも当時の暁斗のクラスメイトであり、彼らがその日にカラオケに行っていたことは暁斗も知っていた。
「普段からそのメンバーと仲が良かったんですか?」
「いいえ」と古地はあっさりと応える。
暁斗もその状況に違和感を覚えていた。クラス内でその五人が親しく会話を交わしている場面を見たことがない。まるでパエリア、餃子、タコスが一つの食卓に並んでいるような、不自然な組み合わせだと感じたのだ。
「決して仲の良くない五人がどうしてカラオケに行ったのかしら?」
「全員が魔法少女アカデミーというアニメのファンだったんですよ。知ってます?」
海老根が首を傾げると、古地が続けた。
「オタクアニメです。同じクラスで、せっかくの共通点があるのだから一緒に盛り上がろうってことでカラオケに行くことになったんですよ」
「私はそういう文化は知らないけど、素敵な集まりだったんでしょうね」
「えぇ。とても盛り上がりましたよ」
「学校からどうやってカラオケ店まで行ったの?」
「徒歩と電車ですよ」
「古地春樹さんと今井勇樹さんが電車を利用していたことは確認が取れています。露草競輪場前駅のホームの監視カメラに映っているのを私も確認しました」
「そうですか」
「行きも帰りも、五人ではなく、お二人で帰られたのですね?」
「はい。元々の属性が違いましたから。カラオケボックスを離れると何を話せばよいのか分からず、戸惑ってしまいました。何かおかしいでしょうか?」
「いいえ。他の三人も露草競輪場前駅にいたことは確認が取れています。確認された時間帯的にも貴方達五人に京堂陽向さんの殺害は不可能です。ですが……」
海老根は言葉を切って古地の顔色を窺う。
古地は「なんですか?」と余裕の表情を浮かべた。
「カラオケボックスの中に貴方達五人がいたという証明ができていないんですよ」
「五人に犯行が不可能だったんですよね。カラオケボックスにいたことなんて確認が必要なんですか?」
古地は大袈裟に手を広げ、すぐに「痛い!」と苦痛の声を挙げた。どうやら、自身の腕が負傷していることを忘れて腕を広げてしまったようだ。
「カラオケボックスの受付簿には、たしかに古地さんの名前が記載されていました」
痛がる古地を気に留めることなく、海老根が告げた。
「海老根さんが言いたいことはわかりますよ。受付簿に記載した利用人数が二名だったことですよね?」
海老根は小さく頷く。
「あの店はどの部屋も広々としているんです。二名と記載しても。五名と記載しても、割り当てられる部屋は一緒です。ですが、会計時の金額は変わります。俺と今井勇樹が先に会計を済ませて、他の三人は非常階段から俺たちが割り当てられた部屋にこっそりと入室しました」
「会計時の金額を変えるため、お店を騙したということでいいですね?」
「えぇ。悪いことをしました。ちゃんとお店にも謝って正規の金額を払いました。学校にも厳重注意を喰らいましたし、四年前に警察にだってこっぴどく叱られましたよね?」
投げやりに古地が続ける。
「わかってますよ。俺たちがやったことは、利用者と店側との契約の信頼性を損ない、経済的損失を引き起こし、倫理的にも法的にも問題がある行為であった。すごく反省をしています」
「そう。もう一つ聞かせて」
「なんでしょうか?」
「カラオケから出た後の貴方達の行動も教えてほしい?」
古地は「構いません」と返事をし、唇を結ぶ。
「古地さんは、露草競輪場前駅の商店街で開光高校の先生方に見つかっています。その日、学校の先生方の暑気払いがありました。ちょうど、宴会が終わった時に貴方は先生方に見つかってしまった」
「はい。捕まって、校長に怒られました」
露草競輪場前駅に続く夜の商店街は、薄暗い街灯が放つ不気味な影に包まれ、治安の悪さが常に漂っていた。学校でも頻繁に「近寄るべきではない」と生徒たちに指導があり、その言葉に逆らうことの危険性を誰もが知っていた。宴会が終わった時間ということは夜も遅かったであろう。古地がこっぴどく校長先生に叱られている様子は簡単に想像できた。
「先生に見つかったのは古地さん一人だけでした。先生方は、他にも四人が露草競輪場前駅の近くにいたことを知らなかったようですね」
「俺が飲み物を買いに行こうとコンビニに向かっている時に見つかってしまったんです。当たった者の、ふの悪さですね」
「先生方に見つかってしまったのは何時ごろでした?」
「二十時五十分頃でした」
「カラオケ店を出たのは、二十時二十分だったようですね」
「そうなんですね。詳しい時間までは覚えてないです」
「そして、古地さんと今井さんが露草競輪場前駅のホームの監視カメラに映っていたのは二十一時五十分でした。カラオケ店を出てから一時間以上も後のことです」
「五人でアニメ談話で盛り上がっていたんですよ」
「カラオケ店を出た後も会話は続いたんですね?」
海老根が不敵な笑みを浮かべる。
「アニメの話になると皆熱くなれるのかもしれませんね」
「別れ際、貴方達五人は露草競輪場前駅の商店街で警察官と話しましたね」
「夜、遅かったので注意をされました。先生から指導されて、その後に警察からも指導されちゃいました」
古地がお道化たように笑うと、その笑みに海老根も応えた。
「わかりました。話は以上です。ゆっくりしたいところ、ありがとうございました。参考にします」
海老根は身を翻し、ドアの方へと向かう。
暁斗は「ごめんね。また落ち着いた時に話そう」と病室の中に言葉を残して、すぐに海老根の後を追った。
古地の病室を後にして、暁斗は海老根と共に病院の休憩所へと向かった。
平日の昼下がり、病院内は静かながらも、人々の話し声や足音が重なり合い、独特の喧騒に包まれていた。薄い灰色の壁とプラスチック製の椅子が並ぶ休憩所には、いくつかの窓から自然光が差し込み、さわやかな風がカーテンをそっと揺らしていた。
「少し話そうか」と海老根が言い、休憩室の隅にあるカップ式の自動販売機の前で立ち止まった。彼女は迷うことなくレモンティーのボタンを押し、暁斗の方を振り返る。
「あなたは何を飲む?」
暁斗は躊躇いながらも、コーヒーをいただいた。カップに注がれたばかりのコーヒーからは、かすかな湯気が立ち上る。その香りは彼の緊張を一瞬和らげるが、海老根が何を語るのか、内心の不安は消えなかった。
二人は空いている席を見つけ、腰を下ろした。
海老根はレモンティーを手にしながら、先ほど古地から聞いた話について切り出した。
「話を聞いてどう思った?」
その問いかけは、海老根がすでに何かを感じ取っていることを示唆していた。
暁斗はカップを手に取り、少し間を置いて答えた。
「いくつか不自然な点がありました。特に、カラオケに行った五人の行動が妙にバラバラだったことが気になります。竹岡は、カラオケ店に行く前も帰る時も、それぞれが別々に動いていたと言っていましたが、それがどうにも腑に落ちません」
海老根は暁斗の言葉に耳を傾け、静かに頷く。
「具体的にどこが不自然だったのか、もう少し詳しく教えてくれるかしら?」
「例えば、古地春樹が商店街で先生方に見つかってしまった件です。もし皆が一緒に行動していたのなら、古地だけが見つかるというのは奇妙です。コンビニに飲み物を買いに行っていたと言っていましたが、本当なのでしょうか。それに、古地が言っていた『カラオケボックスを離れると何を話せばいいのか分からず、戸惑ってしまいました』という説明と、実際にはカラオケ店を出た後も一時間半も五人で話していたという事実が矛盾しています」
暁斗はコーヒーを一口飲んでから、再び口を開いた。
「古地の話には、何か重要なことが隠されているように感じます」
海老根は、さばさばとした態度で暁斗を見つめる。
「私も同じことを思うわ」と海老根が同意を示す。
「古地が何かを隠しているのか、事実が捻じ曲げられている可能性があるわね。もう少し突き詰める必要があるわね」
「はい。ただ、五人にはアリバイがあるんですよね?」
「うん。その五人に京堂陽向を殺害することは無理ね。駅や商店街のカメラの映像や他にも証言だってある」
古地をはじめ五人は、京堂陽向殺害の犯人ではない。では、彼らの行動が矛盾する理由を深く調べる必要はあるのか――暁斗は、賛同に至らない複雑な思いを、表情に出してしまっていた。
「アリバイがあるから、調べる必要はないと思う?」
暁斗の心の奥に潜む疑念を見透かすように、海老根は静かに問いかけた。
四年間も犯人が捕まっていないのだ。警察が掴めていない真実が裏に潜んでいるはずである。
「調べなきゃいけないと思います」
暁斗は首を横に振り、自分の甘い考えを反省した。
「また調べなきゃいけないことが増えたわね。四年前の事件には、謎が多すぎるのよ」
海老根はぼやくように呟いた後、レモンティーのカップを手に取り、ゆっくりと唇を寄せた。その瞳は一瞬たりとも曇ることなく、鋭い光を宿し続けている。
「謎ですか?」
暁斗が促すように問いかける。
「そう。京堂陽向は、多目的トイレで暴行されている最中に警察へ電話をかけて、一分間話しているの。つまり、犯人は彼女を襲っている最中に何らかの理由で姿を消したということになるわ。どう思う?」
「何か突発的な出来事があった、としか……」
「例えば?」
「そうですね。えっと、犯人にとって重要な電話がかかってきたとか?」
「その可能性もあるわね。」
海老根は静かに同意し、続けた。
「だからこそ、警察は三年一組の生徒全員の通信履歴を徹底的に調べたわ」
警察が通信会社から情報を取得することができるのは、もちろん正当な法的手続きを経た場合に限られる。通信履歴の取得には、通信傍受法や刑事訴訟法の規定に基づいて、裁判所が発行する令状が必要になる。
四年前に警察が行った調査は、赤丘市で発生した重大事件に関連するものであった。被害者が警察に残した電話の内容が事件解明の重要な手がかりと判断され、警察は裁判所に通信履歴の取得許可を申請。その結果、正式な令状が発行された。その令状があれば、通信会社は捜査協力として顧客の情報を提供しなければならない。
海老根は数瞬の沈黙の後、「ただね……」と言葉を紡いだ。
「通話記録、メールの履歴、位置情報まで、通信会社を通してすべて取得したのに、事件が起きた時間帯に赤丘市中央公園に接近した記録のある生徒は一人も確認されなかったのよ」
その言葉は冷たい事実のように響く。
「じゃあ、別の理由が?」
暁斗の声はさらに弱くなる。事件から四年が過ぎても答えは見えそうにない。
「京堂陽向は、なぜ赤丘市中央公園に向かったのか。それも鍵になりそうね」
海老根の言葉に、暁斗は静かに耳を傾ける。
「母親との待ち合わせの場所は開光高校の体育館だった。それなのに、わざわざ中央公園に行く必要があったのかしら?」
暁斗は軽く頷きながらも、答えを見つけられない。
「開光高校から赤丘市中央公園までは、歩いて五分ほど。近い距離よね。簡単に行ける距離ではあるけど、なぜ公園に向かったのか」
「犯人が強引に連れ出したのでしょうか?」
「どうだろうね。鑑識の結果、暴行が行われたのは赤丘市中央公園の多目的トイレ内だと判明している。被害者は、五分ほどの距離を黙って犯人と共に歩いていたのでしょうか」
暁斗は低く唸りながら、海老根の話に耳を傾けた。彼女は、疑念を整理するかのようにさらに話を続ける。
「もう一つ厄介な疑問がある。『闇の四日目』と言われていた事件が当時、赤丘市近隣で頻発していたことは覚えてるでしょ?」
「ええ」
当時の赤丘市では、木曜日に小動物が殺傷される事件が相次いでいた。
「犯人はいつも、動物の死骸をその場に置き去りにしていた。なのに、あの日だけ、死骸を袋に入れて、わざわざ赤丘市中央公園まで運んでいる……なぜ?」
暁斗の呼吸が一瞬だけ止まる。
確かに、何かの事情があったかのようにも思う。
「その違和感が、事件の全体像を歪めている気がしてならないのよ」
休憩所のざわめきが少しずつ遠のく中、暁斗はコーヒーカップを見つめた。事件の真相が一層深い霧の中に隠れていることを感じ取った。見逃していた重要な事実が存在するのかもしれない。海老根の冷静な言葉が暁斗の心の中の不安を鮮明に浮かび上がらせた。
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