二〇二一年 都羽 瑞雲(とわ みずも) Ⅰ
――青春とは、人生のある時期ではなく、心のありようを言うのだ。
それは太宰修が人間失格で綴った言葉である。
また、夏目漱石は、先生は私に向かって、若い時の一日一日がどんなに貴重であるかを説いた――とされる。『こころ』より。
つまりは私たちの今の一秒には、私たちの気がついていない価値がある。だけど、親だって、先生だって言う。
勉強。勉強。勉強。
今の私たちに何が大切なのか――それは、クラスメイト誰しもが共通の言葉で理解しているし、自分にだって当てはまる。
何が大切かなんてわからない。だけど、数年後の私は後悔をしたくない。
「高校最後の学年だからって、慌てたように何か思い出になるようなことをしようって、なんか古臭くて、駄作くないか?」
教壇に立つ私に向かって金髪頭の
彼の声は大きく、クラスの中ではその意見の強さが際立っている。だが、その発言の内容は否定的なものばかりで、結局のところ何も行動に移すことはない。あれは、いつだったか……クラス旅行の行き先を決める際にも、竹岡は他人の意見に対して批判を繰り返すばかりで、自らの案を提示することはなかった。
そんな竹岡の意見を聞いて、教室の窓際に佇む担任の
発言力のある竹岡に共感した笑いを示すことで自分のクラスでの権限を高めたいとか、そんなくだらん理由で笑っているのだろう。
――生徒に媚びる方が駄作くない?
私は、煮え立つ気持ちを抑えながら困惑の表情を粕田に向けた。助けて欲しいと、私の懇願の瞳がぶつかった時、粕田は駅のホームにある嘔吐物を見た時のような目の背け方をした。仕方なく私は、また声を出す。
「何かやりたいことがある人は?」
教室は静かになる。
誰も口を開こうとしない。
担任は教室の天井を眺めていた。
「粕田先生。なかなか難しいです。どうしても何かやらないといけないんですか?」
私の視線から目を反らす粕田に向かって、堂々と白旗を振ってみた。
「ちなみに、委員長からの案はないのか?」
質問を質問で返された。大人が自分に向けられた矛先を回避する時に使う手法である。
「特にありません」と、何も考えずに告げたら「おい、少しは考えてから答えろよ」と呆れられた。
青のストライプ柄のワイシャツの前立てを掴んで、パタパタと扇ぎながら粕田は生徒達を見た。
「飲食店ってのは、どうだ?」
去年のクラスでは、お好み焼きを販売した。私はその時のことを思い出し、あからさまに苦い顔を見せる。一年前も例の如くクラスをまとめていた私は、全ての苦悩を背負うことになった。食材の保存や調理器具の消毒、手洗いなど、クラスメイトに細かい衛生管理を徹底させることに四苦八苦した。食材の購入費や調理器具のレンタル費用など、お金をまとめ手配をした。当日の営業時間中の対応も全ての人が自分の役割を把握しているわけではなく、また全員が協力的であったわけでもない。私の学園祭のイメージがキャベツになるほど千切りをした。
「それ、いいじゃん!」
真っ先に賛成の声を上げたのは竹岡である。こういう時だけ何故か、彼は肯定的になる。
「なかなか難しいと思うけど……」
今のこのクラスの状況で、クラスメイト達の役割が平等に分担され、円滑に露店が運営されるとは思えなかった。
「おい、都羽。すぐ否定的なことを言うなよ。協調性って大切だぜ。やってみよう」
あなたが『協調性』を人に説くなと、むっとして言い返してしまう。
「じゃあ、露店を運営するとして竹岡君は何をやってくれる?」
「俺は、食べるの専門だからさ」
教室全体がどっと笑いの声で満たされた。ちっとも面白くない。要は全て人任せということであろう。私のため息と重なるように、一人の生徒の声が耳に届いた。
「体育館を借りて演劇なんてできないかな?」
発言した下田哲也は柔らかな笑顔を浮かべていた。
その後、下田は自らの案を雄弁に語った。
劇は、不思議の国のアリスを題材にし、歌・芝居・ダンスを交えたミュージカルだという。「俺たちのクラスだからできるだろう」と下田は胸を張った。たしかに、役者は揃っていた。相澤さんは小さい頃からプロの役者さんと一緒に舞台に出演していると聞いたことがある。開光高校の映画研究部は、全国の映像コンテストで優秀賞を取っており、その部員もクラスにはいる。きっと、劇への出演だけではなく、脚本も映画研究部の部員が手を入れてくれるだろう。
「問題はダンスだと思うけど、俺と暁斗が教えているダンススクールの中学生たちに出演してもらうのはどうかな。ダンスパートを手伝ってもらえば、劇に厚みが生まれると思うんだ」
下田の言葉で、私は暁斗の方へ視線を向けた。
暁斗は私に向かって目だけで頷く。暁斗と私は小学校からの幼馴染だ。彼が小さい頃からダンスに打ち込んでいることを私は知っている。何をやっても不器用で、すぐに弱音を吐いて涙を見せる暁斗。私はいつも、そんな彼を慰める役目を果たしていた。要するに、私の弟分。しかし、唯一彼が弱音を吐かずに情熱を注いでいたのが、幼い頃から続けていたダンスだった。今でもその情熱を絶やすことなく、後輩たちにもその火を分け与えるように指導にあたっている。
「劇か。いいかもしれないな」
どこからともなく聞こえた声は、絵の具の筆を水で溶いたかのように教室内に浸透していく。
「決りだな」と、粕田が腕を組み歩き、私の立つ教壇の横に位置取る。二度。大きく手をたたいた粕田が生徒の視線を自身に集中させた。
「みんな、委員長に協力してやってくれよ」
粕田の言葉を疑った。
どうして、委員長だからって、学園祭の取りまとめまでやらなければいけないのか。私のための学園祭じゃない。一日は皆、それぞれ平等なの。先生とは、生徒に向かって、若い時の一日一日がどんなに貴重であるかを説くものであると私は思う。不満の顔を粕田に向けるが、その表情から何を読み取ったのか、「心配するな」と曖昧に呟き、私の不信感を壮大に煽った。
「やるしかないだろ!」
学校の帰り道、二組の
「健司は自分のことじゃないから笑えるんだよ。そもそも、なんで私が全部やらなきゃいけないの? 私は粕田の助手じゃないんだよ」
不満の口は止まりそうにない。どうしてだろう、幼馴染には簡単に口が言えた。
「あのさ。私が委員長になったのも、私が自分からやりたいって言ったわけじゃなくてさ。元はと言えば誰もいなくて粕田が……」
愚痴を言えば言うほどに、自分の不満が高まっていくように感じる。健司は、徐々に早口になった私の言葉を受け止め、「そうだよな」と苦笑いをしながら相槌を入れた。私の対応に慣れている。小学校の頃の私は健司のことが好きだった。今の気持ちは不明だ。
健司の家は学校を出て駅とは反対の道を進むことでようやく辿り着くことができる。しかし、彼は「駅を使った方が早いから」と不思議な言い訳を口にしつつ、私や暁斗と一緒に駅まで帰ってくれる。それが私の心に、なんとも言えない特別な感覚を芽生えさせる。健司のその行動は、ただの帰路ではなく、私たちの間に静かに流れる絆の象徴であるように私には思えた。
「委員長ハラスメントだな。暁斗が助けてあげないからいけないんだぞ」
健司は、荒れ狂う私に困ってしまったのか、その横を黙って歩く暁斗に水を向けた。
「助けてるよ」
真夏の照り返しに疲れているのか、脱力感を醸して暁斗が言った。
「あんた、何も手伝ってないじゃない!」
暁斗をきつく睨みつけた。
健司は小学校の途中で引っ越して、高校で運命の再会を果たした。だけど、暁斗は違う。彼とは小学校から中学校、そして高校まで、ずっと同じ道を歩んできた。それだけに、暁斗の私への無関心な態度が一層許せない。
「でも確かに、粕田先生のやり方はあまり良くないかもしれないね」
暁斗が言う。
「カスの粕田だもんな」
健司が言い、「何それ?」と私が訊く。
「知らないのか? あいつ、カスの粕田って呼ばれているんだ。みんな陰で呼んでるぞ」
「そうなんだね」
「それに、俺は今でもあいつのことを許していない」
健司の声は暗く、怨念が交じったように聞こえた。
健司が飼っていた猫のシマシマが人間の手によって殺されたのは三カ月前のことだ。小学校の頃、引っ越したタイミングでたまたま拾った猫だという。亡くなったお母さんと一緒に育てた猫だった。家にいたはずのシマシマが消え、翌日に小学校の体育館の裏で哀れな姿になって発見された。『黒と茶色が縦に混ざっているから』と、小学生の頃の健司は小学生みたいな理由で拾った子猫をシマシマと名付けたようだ。公園のベンチの下で段ボールに入れられ身体を丸くしたシマシマは、大人の拳ほどの大きさしかなかった――と懐かしみ、悔しがる健司に私はかける言葉を見つけることができなかった。
長い間、家族の一員として過ごしてきたシマシマが、突然この世界から去ってしまった。
『そんな理由で学校を休むな』
それは、当時の担任であった粕田が健司に投げた言葉だった。精神的に疲弊していた彼にとって、その言葉は鋭い刃のように心の奥底に突き刺さったのではないか。粕田は、健司を心配し『ゆっくり休めばいい』とは言わなかった。
「担任が変わって本当に良かったと思っている」
健司が付け足す。二組の健司はよく一組の私たちに同情を向けた。
「学園祭、心配だな」
私は二人に向かって呟いた。委員長だから、追い込まれていても走り続けなければいけないプレッシャーがある。学園祭の終わりまで、この重圧を背負い続けるのかと思うと、心が沈んでいくような気がした。
「クラスのみんながまとまるよう、俺からも声をかけるよ」と発したのは、意外にも暁斗だった。普段はクラスで控えめな彼が、教室で声を張る姿は想像もできなかったが、私は素直に「ありがとう」と伝えた。
「小道具や衣装の準備したりだとか、音楽手配したりだとか、手間になるようなことか必要でしょ?」
「うん。必要」
「やるよ」
暁斗の宣言に私は目を丸くして驚いた。いつも、やる気がなさそうに口を開けて机でぼんやりとしていた暁斗は、人のことを少しは気に掛けられるよう成長したのかもしれない。
「暁斗、大人になったな!」
私は、暁斗の肩を叩いた。嬉しくて、照れくさくて、馬鹿にしたような反笑いを見せる。
「当然でしょ。みんな受験勉強で忙しいんだから」
今にも口笛を吹き出しそうな、ひょうひょうとした態度で暁斗が言う。成績優秀で常に学年一位を競っていた暁斗は、誰よりも早く卒業後の進路を決めていた。開光高校が持つ城葉大学への推薦枠を利用すると、返済免除の奨学金を受けることができる。特に頭が柔らかいわけではない暁斗がその推薦枠を掴むために、並々ならぬ努力を重ねたことを私は知っている。
「脚本はハムスター先生に頼むんだよな?」
ふいに健司が聞いた。
ハムスター先生とは、映画研究部部長のあだ名である。『先生』とは呼ばれてるが、それは彼が部で作品の脚色を手がけているからで、彼もまた私と同じ開光高校の生徒である。
「そうだけど。別のクラスの出し物を手伝ってくれるかな?」
「たぶん、大丈夫だと思う。なんなら、俺が頼んでおくけど」
「本当に? それなら嬉しい!」
同じ二組である健司が頼んだ方がハムスター先生も引き受けてくれるだろう。ハムスター先生と一度も話したことのない私は、実は交渉の間に健司が入ってくれることを期待していた。
『ハムちゃん、独特だから』と私に告げたのはクラスの女子であった。
彼女はその『独特』という言葉を良い意味で使っているわけではないと、すぐさま理解した。だから、ハムスター先生に脚本をお願いしなければならないことも私の不安の一つになっていた。
唯一、私が恵まれているものがあるのだとすれば、この幼馴染の存在なのかもしれない。暁斗、ありがとう。そして、健司の優しさには少しだけ胸がドキリとした。
「面白そうな取り組みだね。僕は、その不思議の国のアリスという話を真剣に見たことがないから、自信を持って任せてほしいとは言えないけどさ。お願いされれば全力は尽くすよ」
早速、健司は私がハムスター先生と話す機会を調整してくれた。
二組の教室の窓際の席で上下に並んで座るハムスター先生と健司の顔を見渡しながら、私は「ありがとう!」と目を輝かせた。
「学園祭で演じるとなると少し慌ただしいね。どこまで準備しているのかな?」
ハムスター先生は、私の顔を一向に見ようとせず健司にだけ顔を向けていた。不快には思わない。たぶん、人見知りなのだと思う。私はハムスター先生の横顔に向かって語りかけた。
衣装や道具も決まってないこと。脚本がないから、まだ誰がなにを演じるのかも決まっていないこと。なに一つ決まっていない。
「学園祭まで1ヶ月を切っている。それは大変だな」
ハムスター先生は苦い顔を浮かべている。もちろん彼の視線は健司の顔から離れることはない。
「俺も手伝おうと思ってる。瑞雲は全部任されちゃって困ってるんだよ。ハムちゃんも手を貸してくれないか?」
私に変わって頭を下げた健司に、ハムスター先生は「わかってる。やってみるよ」と告げた。
私がもう一度、さっきより大きな声で「ありがとう」とお礼を言うと、ハムスター先生は身を丸くさせキョロキョロと目を泳がせていた。
「ごめんな、僕は極度の人見知りなんだ。慣れるまで、人の顔をまっすぐ見て話すことはできない。不安かもしれないけど、与えられた仕事はしっかりやるから心配しないでくれ」
「大丈夫。人見知りなんて問題無いし、こうやって返事をしてくれるだけで嬉しいよ。宜しくね!」
ハムスター先生は健司を見つめてコクコクと頷いていた。
驚くことに、ハムスター先生は二日で脚本を仕上げてくれた。目の下に深いクマを刻んで、パンダみたいなっているのが、ハムスター先生の惜しみない努力を感じて、思わず胸が温かくなった。
部活動の大会用にいくつか脚本を手掛けた実績があるだけに、クオリティがあり、演じる私たちのことをよく考えられている脚本であった。
暁斗は脚本を受けると、すぐに自分たちがやるべきことをリストアップした。演じる人だけでなく、セットや衣装、小道具、音楽を誰が用意するのかをクラスに割り当てていく。
ダンスを踊る子役たちは、中学生だの女の子たちだ。劇をやりたいと言い出した下田が彼女たちとの調整役になった。
「主人公のアリス役を相澤さんがやるから、僕はこの脚本を書くことを決めたんだ」
放課後、私たちの教室に姿を現したハムスター先生は、幼い頃から演劇の舞台に立っていた相澤さんの席の前で止まった。相澤さんのまん丸で大きな瞳は、さらに広がる。人の目を見て話せないほどの人見知りはどこへ消えてしまったのか、ハムスター先生は勇敢な眼差しで彼女の瞳をじっと見つめていた。
「つい最近、君が出演していたドラマを偶然見ていたんだ。例の場面、身の毛がよだつほどの恐怖を感じた。とてもヒステリックだったよ。最高の演技だった」
「ありがとう。素直に嬉しいよ。君の脚本も素晴らしいと思ったよ」
珍しく相澤さんが人を褒める。
「ありがとう! 僕の脚本をプロの演者が演じてくれることを今から楽しみだよ。宜しく」
ハムスター先生が差し出した手を相澤さんが握った。
「それじゃ、やっていきましょう。クランクアップね!」
私が情熱を交わす二人と他のクラスのみんなに声をかけるとハムスター先生は「ごめん」と小さく呟き、顔を赤面させながら相澤さんの手を慌てて離した。
ハムスター先生は身体を小さくさせ、後ろに下がりながら、「それでは皆さん、今日から学園祭まで宜しくお願いします」と控えめな声で告げた。
相澤さんの演技は圧倒的だった。
脚本に書かれた文字を口にする相澤さんは、私が知っている相澤さんではなく、まるで全く別の人物が目の前にいるようであった。相澤さんの表情、視線、指先の動きすべてが、物語を生きているように見えるのだ。いつもの教室は特別な舞台に変わり、独特なオーラを放った彼女は輝いていた。普通の高校生とは異なる、長い年月の積み重ねが生んだ深みと、自信に満ちたその姿に、ただただ圧倒された。
「瑞雲? さっきから手が止まっているぞ」
暁斗に言われた。
教室の片隅で装飾を黙々と進めていたが、相澤さんの卓越した演技に思わず目を奪われ、その存在感に何度も手を止めてしまった。
「だって、凄いじゃん。気にならない?」
興奮気味に言う。
「まぁ、凄いよね。まさにプロって感じ。あの膨大な台詞をこんな短期間で全て覚えてしまうなんて、恐れ入るよ」
他のクラスメイトたちが台本を片手に動作や立ち位置を熱心に確認している間、相澤さんの手は台本を必要とせず、ただ自信に満ちた動きを繰り返していた。きっと、相澤さんは今日の練習に向けて準備をしてくれていたんだろう。
「気になるけど、手を止めたら駄目だよね。せっかく、暁斗が準備してくれたんだから」
暁斗もまた、この日に合わせて、事前に準備をしてくれた。体育館の無機質なステージを、夢の国の幻想的な舞台へと変えるべく、綿密な計画を練ってくれた。
「そうだ、瑞雲。衣装のことだけどさ」と、暁斗がスマートフォンの画面を見せる。いくつもの画像を指で捲って、「何個か案は考えたけど、こんな感じの衣装がいいのかな?」と不安気な顔をする。
「どれも凄くいいと思う。迷うね。みんなに聞いてみよう」
準備の段階で私は感動していた。
暁斗も、ハムスター先生も、相澤さんも、それだけじゃない。熱心に台本を持つクラスメイト、小道具を作成に手を動かすクラスメイト、全員が一つの作品を完成させるために、互いの力を結集しているのだと実感する。
同じクラスでもない健司が協力してくれていることも少し嬉しい。
私が抱いていた絶望にも似た不安は杞憂に終わりそうだった。
「見て!」
その日の帰り道、私は暁斗と健司に一枚のチラシを見せた。
「なにそれ?」
健司が訊く。
そのチラシは、生徒たちに劇の詳細を周知するためのものであった。
「同じクラスに新聞部の生徒がいるでしょ?」
「あぁ」と健司と暁斗が頷く。その新聞部の生徒の顔を二人は思い浮かべたようだ。
「頼んだら、すぐに制作してくれた」
淡いクリーム色の紙の上部には、華やかなフォントで『不思議の国のアリス』と書かれている。その文字の周りには細かな花や葉が絡まっている。イラストの中心には、アリスが優雅に座っており、彼女の周りを囲むように奇妙なキャラクターたちが描かれている。アリスの左側には、マッドハッターが奇抜な帽子をかぶり、右側には不気味なハートの女王が威圧感を放つ。背景には、幻想的な風景が広がり、深い森や迷路のような道が描かれていた。チラシの下部には、細い線で囲まれたボックスに、公演の詳細が繊細な字で記されており、その上には小さな星や月のイラストが散りばめられている。全体的に、色とりどりのパステルカラーが柔らかく溶け合い、まるで夢の中の風景が広がっているかのような仕上がりだ。
「凄いでしょ。驚いちゃった!」
二人はそのチラシを手に取ると、目を輝かせながら、驚きと興奮の感情を抑えきれず心からの賛辞を口にしていた。チラシを熱心に見つめる暁斗が、「この意味がいまいち分からないな」と小声で言った。
『~真実は天空から舞い降りる~』
暁斗が指で示したのは、チラシのサブタイトルであった。
「こんなシーンあるの?」
健司が私に訊く。
「ないよ」
サブタイトルの意味を理解することはできなかったが、その意味不明な部分も含めて、このチラシを一層魅力的に感じさせる。
私は二人に深い感傷を交えながら、『ありがとう』と囁いた。最近、ずっと感謝してばかりだ。
「その言葉は、新聞部に言ってくれよ」
健司は笑う。
「違う。二人がいなかったら、こんなふうにはうまくいっていなかったと思うから」
「まだ準備がはじまったばかりで早いだろ」と涙ぐむ私の顔を見て、二人の男子生徒は笑っていた。
残り、三週間。クラスの皆とハムスター先生と健司の力を合わせれば完成させることができる ――
順調だったのは、最初の数日間だけだったのかもしれない。
練習を開始して三日後に、相澤さんが姿を見せなくなった。
「今日は、はじめて体育館を抑えることができたんだ。来てくれるよね?」
昼休みに相澤さんに訊ねた。
「わからない」
カレーパンを食べながら、無愛想に相澤さんが告げた。
「正直、主人公のアリスがいないと、練習が成立しないというか……」
本人を目の前にして言いにくい言葉であったが、委員長の私がちゃんと言わなければいけない。
大きな溜息で肩を竦めた相澤さんが私に顔を近付ける。熟した白桃の果肉のように柔らかそうでしっとりとした肌を目の前にし、私は臆する気持ちから敬語になってしまった。
「今日の放課後、体育館に来てもらえないでしょうか」
「あのさ。私がいたって練習なんか成立していないでしょ?」
「えっ?」
私には、相澤さんが何に対して不安を持っているのか検討がつかなかった。
「もう少し、全員の演技の質が上がらないと練習には参加したくない」
相澤さんは、普段から一流の演者たちに囲まれステージに立っている。クラスメイトたちと演技を交わすことに何かしら思うところがあるのかもしれない。気持ちは分からなくもない。だけど、学園祭とプロの演劇とは違う。
だから、少しは妥協してほしい――とは、私は言えなかった。みんな、一つになって頑張ってくれているんだ。『妥協』と言えば、クラスメイトを蔑むことになる。
「みんな、相澤さんに追いつくから信じて来てほしい」
私は相澤さんの目を真っすぐに見た。
「練習しないとは言っていない。もう少し、みんなの演技が形になってから私が参加するでもいいでしょ?」
「アリスは主人公なの。さっきも言ったけど、アリスがいないと練習が成立しないの」
「練習まで私がアリスをやらなければいけないわけじゃないよね? みんな、台本を読んでいるわけだし、他の誰かがアリスをやってもいいと思うけど」
「うん。わかるよ。でも、やっぱり相澤さんのアリスじゃないと本質が変わってしまうというか――」
なんて言えばいいんだろう。アリスを演じる相澤さんの代わりなんて、このクラスにいないから。
「なにそれ」と、相澤さんは白けたように目を細める。
「あのさ。この際だからいうけど、そもそも私がアリスをやりたいって言ったわけじゃないよね。ずっと文句言いたかったんだけど、私がアリスをやらなければいけない雰囲気を瑞雲はつくったんだよね?」
問い詰められた私は否定することができず無言になる。
「正直困っているの。別に全てを投げ出すわけではないんだよ。それなりのクオリティの劇なら、私もそれなりのことしかできないってこと。私じゃない適任のアリスがいれば、その人がやればいい。代わりがいなければ私がやる。だけど、私にはこだわりがあるの。それを曲げるつもりはない。私さ、これでも演劇のプロなんだよ?」
相澤さんの言っていることが正しいと思った。
「それは分かるけど――」
だけど、私だって、そんな風に主張したい。クラス委員をみんながやりたくないから仕方なく担任の粕田は私をクラス委員に指名した。クラスメイトが協力的でない時も、私は前に出て声を張らなければいけなかった。みんながそれなりなら、私だってそれなりがいい。堂々と言いたいことを口にできる相澤さんが羨ましいと思った。
相澤さんは自らの主張を終えると私の声を閉ざすように長耳にイヤフォンを装着した。
学園祭が近付くにつれて、劇の練習に参加するクラスメイトの数は減っていった。幸いにも、相澤さん以外の舞台の上に立つクラスメイトは練習に参加してくれていたので、準備が停滞しているという危機感を抱くことはなかった。それがいけなかったのか、担任の粕田に練習に参加しない人がいることを相談しても、「まぁ、強制できるものではないからなぁ」と私をあしらう。
「それでも、みんなが平等に協力するべきだと思います。私がいくら言っても、聞く耳を持ってくれません。先生からも言ってくれませんか?」
私の勢いに押されたのか、粕田は「わかってるよ」と今にも舌打ちしそうな煩わしさが漂っていた。
その日の夕方も演劇の準備が予定されていた。ホームルームが終わると竹岡はすぐに立ち上がり鞄を持って教室を出ようとする。
「竹岡君、待って!」
私は敢えて、大きな声で竹岡を呼び止めた。
教室の教壇の前には、まだ粕田の姿があり、他のクラスメイトも教室に残っていた。
「今日も学園祭の準備あるから」
竹岡が振り向き金髪がなびく、その表情は明らかに不快感を示していた。
「悪いな。今日は行けねぇよ。なぁ?」
竹岡はコバンザメのように連む二人に向かって相槌を求めた。一人は松川という男子生徒だ。腰で履いた制服のズボンのポケットに手を入れ、肩で風を切って歩いている。校則では髪を染めることは禁止なのに、その男の髪は眩しいほどの銀色に染まっている。
連れのもう一人は女の子だ。彼女の細くしなやかな手足は、風に揺れる柳の枝のようにしなやかで、まるで自然と一体となっているかのようだ。
「用事があるんだよ」
銀髪の男が強い口調で告げると、竹岡は一拍置いて「そういうことだから」と視線を外して教室を後にしようとした。
「最近、竹岡君たち来てくれてないよね?」
帰ろうとする三人に向けて私は声を張り上げた。彼等は暁斗と一緒に舞台の装飾や衣装の準備をすることになっていた。はじめの数回だけしか、彼等が顔を出すことはなかった。
教室のドアの前で振り返り竹岡が言う。
「あのな。お前と違って、俺には補習のテストがあるんだよ。テストの点数が悪かったら卒業できなくて留年だ。学園祭の準備をして、俺が留年したら、おまえも一緒に留年してくれるのか?」
私は無言で首を横に振る。
「そもそも、あの舞台衣装ダサすぎだろ」
舞台の衣装の案は暁斗が考えてくれたものである。ショッピングサイトで安いドレスを購入し、そのドレスにたくさんのハート柄を刺繍すること。ウサギのカチューシャと長い尻尾をつけた女子生徒に大きな懐中時計を持たせること。色彩豊かなスーツやコート、そして大きなシルクハットを誰か持っていないかと暁斗は聞きまわってくれた。
「そんな言い方しないでよ!」
咄嗟に声を出した。暁斗は不安気に私の顔を見ている。
「趣味が違うんだ。違う役割を考えてくれたら行くよ」
竹岡は大股で歩き、廊下へ去っていく。
許せなかった。私たちのために必死に舞台を整えようとしてくれている暁斗を侮辱する言い方を竹岡はした。
「待ってよ」
身を翻すことを竹岡はしなかった。
「瑞雲、ごめんね。協力するように私からも言っておくよ」
気まずそうに花梨ちゃんは、教室を出て行く。
私は担任の顔を見た。
私と目があった瞬間、担任は私から視線を逸らした。
肝心な時に粕田は何も言葉を発しない。
しばらく教室には静寂が訪れた。それに耐えられなくなったのか、粕田は教室を後にしようとする。教室を去り際に粕田は教室全体に向かって語りかけた。
「みんな、自分のできる範囲で無理しないように参加しような」
思わず、私は粕田のことを睨んでしまった。全員が自分のできる範囲で無理しようとしないから、頑張っている誰かの方に皺が寄る。
粕田は、教室に残るクラスメイトに向けて小さなガッツポーズを見せた。無理するなと言ったり、頑張れと言ったり、生徒それぞれに役割を与えているのだろう――私は頑張らないといけない生徒。そうやって、私は解釈をした。
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