二〇二五年 福地 暁斗(ふくち あきと) Ⅰ

 警察署の玄関を出た暁斗あきとは、ちらりと腕時計に目をやった。

 外に並ぶ自転車やパトロールカーを横目に見ながら、急ぎ足になる。入口を出たすぐのところで、見慣れた顔の住民から「お疲れ様」と声をかけられた。地域課の仕事が、少しずつこの街に根を張り始めていることを感じる瞬間だ。

 暁斗は一礼だけをして、足を緩めることなく歩みを続けた。山積みの書類を片付けるのに時間を取られ、約束の時間に遅れかけていた。

 高校を卒業して四年で、はじめてクラス会が行なわれる。

 妻の瑞雲みずもから、クラス会の計画を聞いた時には少し戸惑いがあった。四年間、クラスが開催されてこなかったのは、それなりの理由がある。あの時のクラスの人間と顔を合わせてしまえば、どうしても当時の記憶が蘇ってしまう。

 暁斗が高校三年生の頃、世間を騒がせた赤丘市あかおかし中学生絞殺事件が起きた。容疑者として疑われたのは、暁斗の当時のクラスメイトである三年一組の男子生徒たちであった。そして、未だに犯人は捕まっていない。

 暁斗が集合時間をはるかに過ぎて店に入ると、薄暗い照明が優しく彼を包んだ。店内は、木目のカウンターと畳敷きの座敷が広がり、令和を感じさせるポスターが壁に貼られている。酎ハイのグラスを片手に溌溂な笑みを浮かべる今が旬の女優、相澤梨月あいざわりつきと目が合った。一瞬、ポスターの前で立ち止まるが、奥の方から笑い声がこぼれ聞こえ、すぐにそちらに目を向ける。既に場は盛り上がっていることが窺えた。

「あ、来た来た!」

 瑞雲が暁斗を見つけて、声を上げた。

 その瞬間、畳敷きの座敷に腰を落としていたかつてのクラスメイトが次々と顔を向けた。

「久しぶり!」

 瑞雲から聞いていたとおり、出席者はクラスの半分よりも少なかった。座敷の中央にはすでに酒と料理が並び、箸やグラスが散らかっている。その光景に、暁斗はようやく肩の力を抜いた。

「久しぶりだな」

 数年ぶりの再会なのに、彼らの笑顔は昔のままだ。座敷に足を踏み入れ、空いている場所に腰を下ろすと、すぐにビールが差し出された。暁斗が慣れた手つきで受け取ると、瑞雲の乾杯の声があがった。

 時間が経つにつれて、懐かしい思い出話や近況報告が飛び交う。テーブルの上には、熱々の焼き鳥や刺身、天ぷらが次々と運ばれ、どんどんと酒が進んだ。

「おまえ、馬鹿みたいなこと言ってると暁斗に逮捕してもらうからな」

 笑い声と共に、そんな言葉が耳に届く。かつてのあの教室が、まるで目の前に蘇るかのようだった。あの頃の無邪気さは、少しだけ大人びたけれど、根底には変わらない絆があると感じる。

「ねぇ。下田君から連絡あった?」

 いつの間にか瑞雲が隣にいたことに暁斗は驚く。

「そういえば来てないね。連絡もない」

 暁斗は自身のスマートフォンの画面を確認しながら告げた。

「ドタキャンかな?」

 幹事の瑞雲が困惑の表情を浮かべる。

「下田に限って、そんなことはしないよ」

 学校時代から共にダンスクラブに通っていた暁斗は、下田啓史しもだけいしの性格をよく理解している。約束だけは守る男だ。

「連絡する」と暁斗はその場で座ったまま着信を入れたが、下田は電話に出ない。首を傾げる瑞雲に「すぐに折り返しが来ると思うよ」と暁斗は告げて、スマートフォンをテーブルの上に置いた。

 瑞雲は何度か小さく頷き、彼女は元々座っていた場所に戻っていく。

「あれ? 奥さんと隣じゃなくていいの?」

 近くにいた旧友たちが冷やかしの言葉をかけてきた。彼らの記憶の中では、暁斗と瑞雲の関係は高校時代と変わらず、あの頃のままの初々しさを保っているようだった。

 暁斗は下田からの折り返しの連絡がないことに気を取られることもなく、旧友たちとの懐かしい会話を心から楽しんでいた。

 宴もたけなわとなった頃、外で煙草を吸っていた旧友の松川まつかわが急ぎ足で暁斗たちのテーブルへと駆け戻ってきた。

「おい、大変だ!」

 松川が大声を上げて店内に戻ってきた。その表情には焦りの色が見え、落ち着きを欠いている。当時は銀色に染めていた髪も今では黒髪に戻り、酒を嗜む姿も随分と落ち着いたように見えていたが、今はその余裕もないようだ。

 松川は、手に握りしめたスマートフォンを慌ただしくテーブルの中央に置いた。

「例の事件の犯人、逮捕されたみたいだぞ」

 松川の言葉にかつてのクラスメイトたちの談笑が止まる。暁斗の酩酊状態は急激に醒まされていく。彼は、しっかりとした眼差しで松川が置いたスマートフォンの画面を見つめた。



【速報】赤丘市中学生絞殺事件、容疑者を逮捕

 赤丘市で発生した中学生絞殺事件について、警察は本日、事件に関与した疑いのある容疑者を逮捕しました。この事件は四年前、赤丘市内の公園において、中学生が公衆トイレ内で絞殺された状態で発見され、社会に大きな衝撃を与えたものです。

 事件現場には猫の死体が放置されていたことが確認されており、さらに、事件前後には同地域で動物が不審な形で殺される事例が相次いでいました。これらの異常な出来事が事件との関連性を示唆しているとみられ、警察は当初からその線で捜査を進めていました。

 捜査当局は、防犯カメラの映像や目撃証言を精査し、四年間にわたる徹底的な捜査の末、特定の人物を容疑者として浮上させました。本日午後、警察はこの人物の身柄を確保し、取り調べを開始しています。

 現時点では、容疑者の氏名や犯行動機については公表されていませんが、警察は引き続き詳細を確認し次第、発表するとしています。地域社会には依然として不安が残る中、住民は引き続き警戒を強めていました。



「ようやく捕まったんだな」

 隣で携帯電話の画面を共に見つめていた男が、安堵のため息を漏らした。その息の中には、この四年間の彼の苦悩が全て凝縮されているように、暁斗は感じた。

「やっぱり俺らの同級生が犯人だったのかな」

 どこからか声が聴こえた。かつてのクラスメイトたちはそれぞれに自身のスマートフォンの画面を凝視し、ネットに新しい情報が落ちていないかを調べている。

「ねぇ、ねぇ。見てよ!」

 暁斗の席からは離れた位置に座る女が隣の男にスマートフォンを見せる。

「おい。嘘だろ?」

 大袈裟に声をあげて驚いた男の顔をその場にいる全員が注視していた。

「捕まったの、下田かもしれない。SNSで名前が出てる。下田の通ってる大学の研究室に警察が来たようだな。何人かの学生が見てて、その内容がSNSに投稿されている」

 女のスマートフォンの画面を眺めながら、その男が告げる。

「嘘!?」と悲鳴にも似たような声が店内に響く。

「三年一組の生徒の中に本当に犯人がいるとしたら、下田かもって思うことがあったんだ」

 乾いた女の声が聴こえた。

 アルコールの影響もあってか、数人の女子たちは愉快に声を張って同調の意を示す。

 ――ネットの情報だ。まだ、下田が犯人だと決まったわけではないだろ。

 暁斗の胸の奥は、その無神経さにざわつき、不快感を募らせた。

 机の上のスマートフォンを手に取り、下田からの連絡を確認するが、折り返しは未だに届かない。そのまま着信をかけたが、彼は応答しなかった。

「逮捕されたってことは、警察は証拠を握っているってことになるよな?」

 皆が暁斗の顔を見ているような気がしていた。

 捜査に関与していない暁斗が中途半端なことを言うべきではなかった。警察官である暁斗が確信のない言葉を返すことは、捜査の信頼性に関わってしまう。彼は沈黙を保ちつつも、頭の中では逮捕に関する法的な手続きや証拠の基準を思い巡らせていた。

 その日の夕方、犯人は有馬ありま神社の境内の陰で一匹の猫が虐待され、解体された。当時の赤岡市近隣では、木曜日になると小動物の死骸が発見される事例が何件か起きていた。事件が木曜日に頻発していることから、地域の住民たちは『闇の四日目』と呼ばれていた。

 闇の四日目だから、外には出ないように――と地域の住民は注意を促していたのである。

 その日も木曜日であった。午後十時三十分に赤岡市中央公園の多目的トイレ内で京堂陽向を絞殺されている姿が発見された。被害者の京堂陽向は、犯人に暴行されている最中に警察に電話をしている。

『開光高校の三年一組の男子生徒に何度も殴られています』

 助けを求める電話を受けた警察は、すぐに現場である赤丘市中央公園に向かったのであるが、そこには虐待された猫と絞殺された京堂陽向の姿しか残されていなかった。

 夕方に起きたとされる猫への虐待と、夜中に起きた中学生絞殺事件、どちらの時間帯にもアリバイがない男子生徒はクラスにはいなかった。

 ふと気づけば、宴卓は高校時代の下田の話に収束していた。

 下田のかつての無邪気な振る舞いが、あたかも大きな悪事であったかのように脚色され、話の盛り上がりを見せている。

 下田啓史は人を殺せるような人間ではない。それでも、暁斗はその場の興奮に水を差すような言葉を飲み込んでしまった。

 三年一組の生徒たちは、一様に被害者である。あの日を境に、暁斗は殺人犯の烙印を押され、世間からの差別と誹謗中傷に晒され続けた。その痛みと苦しみは、彼一人のものではなく、かつてのクラスメイトたちもまた、同じように抱えて生きてきたのだろう。

 この四年の間、抑えてきた憤りが、犯人の逮捕の報により怒りとなって溢れ出したのではないか。アルコールの力で抑制が効かなくなった感情は、狂乱の叫びへと形を変え、机の上を飛び交う。

「ほら。お開きだよ。忘れ物ないようにね」

 明るい口調で語る瑞雲の表情には、微かに不安の影が差していた。



 翌日、早朝、下田からの連絡があった。

 布団の中にいた暁斗は飛び起き、自身のスマートフォンに挿さった充電器を抜いて、リビングに向かった。

「ニュース見たよ。大丈夫だったの?」

 ダイニングへの扉を開けると淹れたてのコーヒーの香りがする。台所で食パンを包丁で切っている瑞雲は手を止め、目を丸くして暁斗を見ている。

「大変だったよ。同じことばっか聞きやがって。やっと解放されたよ」

 愚痴を言えるくらいに下田の声は元気そうであった。一晩を警察署で過ごしたにも関わらず、軽やかな声が聞こえてくると、暁斗は安堵の念を抱いた。

「逮捕って報じられていたけど」

「本当に逮捕されたと思うか?」

 暁斗は「いや」と否定の言葉を返した。一日で解放されたことから、法的拘束力を伴う逮捕ではなく、任意同行に基づく事情聴取であったのだろう。警察も勾留の必要がないと判断した。

「警察は、どうして今さら下田の話を聞いたの?」

 四年前の事件に関して事情聴取が行われ、一晩にわたり警察が話を聞くというのは、刑事訴訟法の観点からも相当な理由がなければ実施されない。重大な容疑や新たな証拠が浮上したと考えるのが自然だ。

「ちょっとな」と下田は歯切れ悪く答えたが、それにも構わず暁斗は追及した。

「教えてほしい」

 暁斗が間を置かずに言い放つと、下田の迷いが滲む唸り声が耳を捉えた。しばらく、逡巡した下田が言葉を発する。

「もともと暁斗には伝えるつもりで電話をかけたんだ。暁斗の耳には入るかもしれないからな……」

 警察には守秘義務が厳重に課されている。たとえ組織の内部にいる者であっても、余計な情報が漏れることはない。故に暁斗の耳に下田の情報が入ることは限りなく低い。だが、下田から詳細を聞き出したかった暁斗は、あえて余計な口出しはしなかった。

「匿名の通報があったらしい。事件の日の夜遅くに暗くなった体育館の中に入っていく俺を見かけた奴がいたらしい」

 もしかして最初から、下田は不安を抱えながら電話をしてきたのかもしれない。暁斗は、震える声を通して、下田の内に秘めた恐れを敏感に感じ取った。電話口で最初に聞こえた声とは明らかに違う。無理をして、暁斗を心配させまいと努めていたのだろう。

「具体的に話してほしい。通報者はどんな主張をしているの? 夜遅くって何時頃のことなの」

 暁斗はゆっくりと柔らかな言葉に聴こえるように下田に訊いた。

「匿名の通報者は、事件の日の九時三十分過ぎに俺を見たと主張している。ついでに、俺が京堂陽向を殺したと通報してきたみたいだ」

 暁斗は殺される前の京堂陽向を体育館の前で目撃していた。午後九時二十五分を少し過ぎた頃のことだ。瑞雲と共に京堂陽向を見つけた。警察に何度も説明したため、時間に間違いはないはずだ。京堂陽向が生きている姿を確認したのは、暁斗たちが最後だったはず。

「僕たちが最後に京堂陽向を見た数分後だね」

 落ち着いた口調を意識して、大事なことを訊ねる。

「その匿名の人物が主張していることは事実なの?」

「殺したってことか?」

 下田は無理に笑ってみせる。

「違う。下田は体育館に戻って、体育館の中に入ったのか?」

 暁斗たちが京堂陽向を目撃したのを最後に、体育館付近を通った者はいないとされていた。もし、その数分後に下田が体育館に侵入したのが事実であるならば、事件に関する重要な手がかりとなるだろう。

 気がつけば、瑞雲が不安げな表情を浮かべながら暁斗の近くにいた。

 暁斗の質問には応えず、下田が言った。

「俺を助けてほしいんだ」

 言葉の中に強がりを含んだ笑い声があった。その笑い声が、かえって下田の不安を浮き彫りにしているように感じる。

 暁斗は受話器の中に漂う重い沈黙を振り払うことができずにいた。下田の唾液を飲み込む音が聴こえ、それから彼は慎重に言葉を発した。

「事実なんだ。体育館に行った。四年間、ずっと隠してきた」

 下田の声はもはや軽快さを欠き、深刻さだけが残っていた。

 下田が心に負担を抱え、その解決を求めて電話をかけてきたのかもしれないと暁斗は感じた。

「嘘だろ?」

「本当だ」

「どうして?」と暁斗は反射的に口にしていた。

 どうして、学校へ戻り、夜の体育館へ入る必要があったのか。どうして、殺人事件に関わる重大な事実を隠していたのか。

「警察には体育館に忘れ物をしたから取りに行っただけだと伝えた。陽向ちゃんの最後の目撃証言が体育館であることを知っていたから疑われるのが恐くて言い出せなかったと伝えた」

 この電話の中で下田の声が最も震えた瞬間だった。

 暁斗は、彼が警察署で話した内容が虚偽であることを直感的に理解する。

「下田は何を隠している?」

 暁斗の質問に下田は応えなかった。代わりに彼は、暁斗にもう一度お願いをした。

「俺は犯人じゃない。アリバイがあるから、警察も自由にしてくれたんだ。陽向ちゃんが被害にあった時間帯に俺は家にいたんだ。暁斗も知っているだろう。近所の人も俺が家に帰ってきた瞬間を見ていた。俺には陽向ちゃんを殺すことはできないんだ。信じてほしい」

 溜まった雲が破れ、豪雨が降り注ぐように、下田は動揺した声を勢いよく出し続けた。

「知っているよ。下田に殺人なんてできるはずがない」

 落ち着かせるように暁斗が言う。

 下田は引きつったような笑い声を無理に漏らしてから、重々しく告げる。

「電話で話すようなことではないんだ。今日の夜、そっち行ってもいいか?」

 暁斗は了承の意を込めて短く返事をした後、「無理しないように」と言葉を添え、静かに通話を切った。

「今晩、下田が家にくるって。相談したいことがあるみたい」

 瑞雲は、暁斗がダイニングテーブルに置いたスマートフォンを見つめる。何かを見透かすような瞳でじっと眺めたままだ。

「わかった。その時間帯は外すようにするね」

 瑞雲は台所に戻る。彼女は下田との電話の内容を深く聞くことをしなかった。



 暁斗は、警察署の地域課で日々の巡回業務に従事している。朝一番の業務は、前日の報告書の確認と、その日担当する区域の状況把握だった。地域住民から寄せられる小さな苦情や相談ごとの対応も重要な任務だ。迷惑駐車の通報、近隣トラブルの調停、または高齢者の見守り活動など、多岐にわたる課題に柔軟に対応することが求められる。

 その日も暁斗は、午前中の巡回に出かけ、地域の人々と顔を合わせながら、穏やかな日常を守るために尽力していた。商店街を歩くと、馴染みの店主たちが挨拶を交わし、近所の子どもたちが元気よく手を振る。暁斗はそのたびに笑顔で応じ、地域に溶け込んだ存在であることを実感していた。

 暁斗が署に戻ったのは、昼を大きく回った頃だった。二階にある地域課へ向かう階段を上ると、署内の異様な活気が暁斗の肌に伝わってきた。慌ただしく階段を駆け下りる同僚とすれ違った。三階にある刑事課や生活安全課からは、緊張感に満ちた声が断続的に響いてくる。

 その時、いつも違う署内の空気を暁斗は感じた。

 暁斗が地域課の執務室に戻ると、上司の岩井いわいが腕組みをして暁斗を見つめた。五十代前半の岩井は、日に焼けた肌に、年季の入ったごつい体躯を持つ男だった。広い肩幅と太い首は、長年の現場経験が染み付いたような存在感を醸し出している。彼の眼光は鋭く、普段は部下たちを見守る温かな眼差しの中にも、冷静さと厳しさが垣間見えることがあった。

 岩井はいつも以上に硬い表情をしていた。暁斗に鋭く目を合わせ、無言のまま顎を軽く引いて、自分のデスクに来るよう促した。暁斗が近づくと、岩井は腕を組んだまま、低く抑えた声で言った。

「戻ったばかりで呼び出して悪いな」

 岩井の声には、通常の業務連絡とは異なる重みが感じられた。彼は机の上に広げられた地図に視線を落とし、数秒の沈黙の後、顔を上げた。その動作一つ一つに、これから話す内容の深刻さが滲んでいた。

「今朝、赤丘署管内で殺人事件が発生した」

 一呼吸置いて、岩井は続けた。

「容疑者は二十代前半の男だ。事件直後、近くで張り込み中だった刑事が現行犯で逮捕している」

「張り込み中の刑事が、ですか?」

 暁斗は岩井の言葉に疑問を抱き、間髪を入れずに質問した。偶然、事件現場近くで張り込みをしていたということだろうか。

「被害者が張り込み対象だった」

 暁斗は一瞬言葉を失う。状況を理解できないまま、無言で頷き続きの話を促した。

「被害者は路上で首と背中を複数回刺されており、救命隊が到着した時には既に死亡が確認されている」

 岩井は暁斗の目をしっかりと見つめ、小さく息を吐いて続けた。

「被害者の名前は下田啓史。君の同級生だ」

 岩井の低い声が、まるで空気を裂くように暁斗の心に響いた。

 暁斗は数瞬、警察官としての冷静さを失い、息が詰まるような感覚に襲われた。岩井はその動揺を鋭く察知しながらも、淡々と話を続ける。

「これは俺たちの管轄内の事件だ。個人的には辛いだろうが、君にも知らせておく必要があった。まだ、昼食を取ってないだろ? ゆっくり休め」

 厳しい表情の岩井は部下を気遣う不器用な優しさを垣間見せた。

 その後、暁斗は呆然と休憩室へと向かった。それからの業務のことはあまり覚えていない。下田の事件のことが頭から離れなかった。

 現行犯で逮捕された殺人犯は、逮捕された地域を管轄する警察署の取調室で事情聴取を受けるのが通常である。だが、この犯人は検察庁に送致された。取り調べの場所は、事件の規模や内容によって異なる場合がある。

 暁斗がその犯人の姿を目にしたのは、テレビの画面越しであった。真夏にもかかわらず、犯人は薄手のパーカーを身にまとい、フードを深く被っていたため、顔の全貌は映し出されなかった。露わになった肌は青白く、眼鏡の奥にあるその瞳は、どこか幼さを残しているように見えた。 

『陽向ちゃんを殺した犯人が許せなかった』

 捕まった犯人が後に語った動機だという。


 暁斗が家に帰ると、玄関先で瑞雲がすぐに顔を覗かせた。彼女の顔には、不安と心配の色が滲んでいた。

「大丈夫だった?」

 瑞雲の声は、いつもより少し震えていた。彼女が気にかけているのは、暁斗の心の中が保たれているかどうかだ。

 暁斗は静かに頷くと、そのままキッチンに向かい、鞄から弁当箱を取り出した。弁当箱はすっかり空っぽだった。すべてを食べ終わっていたことに、かえって驚きのような感心を覚える。無意識のうちに食欲があることは、平常心を保っているかのように見えるが、自分の内面がひび割れていないかどうかは暁斗自身にもわからなかった。

「下田が殺された」

 暁斗は、声を絞り出すように言った。その言葉を聞いても、既に事情を知っている瑞雲は驚いた様子は見せない。

「どうして?」

 ゆっくりとした瑞雲の問いかけは、暁斗に返答を求めるものではない。ただその言葉を口にせずにはいられない苦しみが滲んでいた。

『下田は、被害者である京堂陽向を一方的に追い回していた』

 昨日、暁斗が確認したSNS上には、根拠のない噂が飛び交っていた。

『警察は下田を容疑者と見ているが、決定的な証拠がなく逮捕に至っていない』

『彼は酒癖が悪く、大学の友人と飲むとき、自分が陽向ちゃん殺しの犯人だと吹聴している』

『再び同じような犯罪を計画しており、警察が二十四時間監視している』

 いずれも下田の人柄とはかけ離れた憶測ばかりである。

 彼には確固たるアリバイがあった。

「下田が京堂陽向さんを殺したわけではないんだよ」

 暁斗は瑞雲に理解を求めるように語りかけた。SNSに流れる数々の情報に触れても、暁斗の下田に対する信頼は揺るがない。

「わかっているよ。でも、ネットには犯人を賞賛する声まで書かれている」

 瑞雲は悔しげに言い放つ。何も知らない者に犯人扱いされる悔しさ――その感情は、暁斗と瑞雲の間で共鳴していたのかもしれない。

「そういった類は、見ない方がいいかもね」と暁斗は諭すように告げたが、その暁斗も昨晩はSNSの世界を覗き見ていた。

「でも、暁斗に何か危険が及ぶんじゃないかって心配なんだよ」

 瑞雲は困惑した表情を浮かべ、暁斗に視線を向けた。

「僕の身が心配?」

 暁斗は理解できずに問い返す。

「もしかして、今、話題になっているニュースのこと知らない?」

「うん」

「京堂陽向さんの父親が声明を出したの……」

 瑞雲は戸惑いを浮かべながらスマートフォンを操作する。しばらくして、真剣な表情でそれを暁斗に差し出した。

 瑞雲が差し出したスマートフォンの画面に目をやると、そこには京堂陽向の父親が発表した声明が映し出されていた。文字は冷たい光を放ち、まるで周囲の空気を一層重くするかのようだ。

 


声明

 私は、陽向の父として、皆様にお伝えしたいことがあります。

 娘を失った痛みは、私の言葉では到底表現し尽くせません。彼女がいないという現実を受け入れることは、今もなお私にとって耐えがたいものであり、その喪失感は、私の人生を根底から揺るがしました。結果として、私は自らの職務を全うすることが困難となり、会社の代表を降りる決断をいたしました。四年前の話です。

 しかし、そんな私にも、ひとつの安堵の知らせが届きました。それは、娘を襲った卑劣な犯行の容疑者が一人減ったという事実です。本日、下田啓史という人物が何者かにより殺害されたことが報道されました。彼は当時の開光高校三年一組の生徒の一人です。

 娘が警察に対し、最後に残した言葉があります。皆さんもご存じの通り、娘はそのクラスの男子生徒の手によって殺害された。最後に、私にメッセージを残してくれたのです。

 下田啓史が娘を奪った真犯人であったのか、それともただの容疑者の一人に過ぎなかったのか、私には知る術がありません。けれども、私はこの場で、下田の命を奪った者に対して、深い感謝の意を表明します。

 もし下田啓史が真犯人であったならば、あなたは正義を成し遂げたことになります。そして、たとえ彼が無実であったとしても、あなたが容疑者を一人減らしたという事実は、私にとっては重要な一歩になります。

 私が願うのは、陽向のような悲劇を二度と繰り返さないことです。そのためには、あらゆる手段が必要であり、今回の事件もその一環として理解しています。よって、この行動を取ったあなたに対し、またあなたの家族に対しても、特別な保証をすることをここに約束します。法の裁きを受けるべきは真犯人であり、あなたではないのです。

 最後に、娘を失った父として、また人間として、この声明が何らかの形で皆様の心に届くことを願っております。どうか、あなたのような勇敢な決断を下す英雄が現れることを私は強く望んでいます。



 読み終わった暁斗は天井を見上げ、目を瞑った。

「狂ってる」

 暁斗は自然と言葉を溢した。

 京堂陽向の父親は、娘を亡くしたことで精神的に追い詰められ、ついには会社の代表からも身を引いていた。その声明は、見る者の心に寒気を残すほど、ぞっとするような歪みを帯びていた。

「どうかしているよね」

 瑞雲の声は震えている。その声明を読んだ瑞雲もまた、下田のことを頭の中で何度も反芻はんすいしていたに違いない。暁斗は唇をかみしめ、手にしたスマートフォンを強く握りしめた。

「この声明を読んで、また間違いを起こしてしまう人は増えないかな?」

 瑞雲が暁斗の顔を覗く。

 声明に込められた父親の狂気ともいえる執着心が、暁斗の胸を重く押し潰す。京堂陽向の死によって、全てが歪んでしまった。陽向さんの父親も、下田も、そして暁斗やクラスメイトたちの人生が歪んだ。

 暁斗は悔しかった。警察官だから、自分の仕事が否定された気分になり言葉を漏れたわけではない。ただ単に、自分の力のなさを悔やんで告げた。

「こんなことで解決ではないのに」

 天井を見つめ漏らした声はまるで虚空に吸い込まれるかのように消えていった。

 瑞雲はスマートフォンの画面を消し、暁斗の手元からそっとそれを取り戻す。

「空想の話ではないのに、みんな楽しんでいるみたいで――」

 携帯を見つめながら瑞雲が言う。嘆くことしかできない苦しみを暁斗は理解することができた。

「瑞雲も少し休んだ方がいいよ」

 彼女は小さく首を横に振った。

「違うの。疲れたから言っているわけじゃない。ネットに書かれていることは、現実とは異なることをもちろん理解しているけど」

 悩まし気に瑞雲が続ける。

「それらの書き込みの内容の中で、私には一つだけ明確に否定できることがあるの」

「それは事件に関すること?」

「事件に関係しているかはわからない。だけど、下田君と陽向さんの関係についてのことだから、もしかしたら関係あるのかもしれない。下田君、今日、暁斗に相談したいことがあったんだよね?」

「そう、だね。下田はずっと隠していたことがあったみたいなんだ」

 下田から話を聞くことは、もう叶わない。

 今朝の電話で、なぜ下田の心情を強引にでも聞き出すことができなかったのか――そのことが暁斗の心に深い後悔の念をもたらす。

「下田君、陽向ちゃんと特別な関係にあったんだと思う」

「どうしてそう思うの?」

「私、陽向ちゃんに言われてことがあるの。『下田君に近付いたら殺すよ』って。あの頃、学園祭の準備をしていたでしょ。学園祭の準備の関係で下田君と私が話し合うことがが多くあったから。体育館の中だったし、それを見てた陽向ちゃんが嫉妬したんだと思う」

 当時のことは暁斗もよく覚えており、頷く。

「SNS上では下田君が陽向ちゃんに付きまとっていたという書き方をされていたけど、それは間違いなく違う。陽向ちゃんは下田君に好意を寄せていたから」

 実は暁斗も、下田と京堂陽向の関係に何か特別なものが潜んでいるのではないかと考えていた。今朝、下田が相談を持ちかけてきた際、彼が体育館に向かった理由が実は京堂陽向に会うためだったのではないかと、暁斗は思ったのだ。しかし、それは下田自身の言葉によって確認されるまで、単なる推測に過ぎないため、暁斗は無用な憶測を避けることにしていた。

「二人の関係について、当時の担当刑事に話したのかい?」

「言えなかった。下田君に無用な疑いがかかると思って。それに、私、陽向ちゃんのこと、あまり良く思ってなかったから。正直、犯人が捕まらなくてもいいって、そんなふうにさえ思ってた……」

 瑞雲は声を潜め、まるで心の奥底に沈んでいた感情を初めて掘り起こすかのように告げる。

「隠していたんだね。瑞雲の感情がどうであれ、それは事件に関する大事な手がかりになったかもしれない。陽向ちゃんにどんな感情を抱いていようと、警察には話すべきだったよね」

 言いながら、暁斗はその言葉が必要以上に感情的になっていることに気づいた。気づいたが、止められなかった。下田の死に対する怒りが、自分の中で制御できずに溢れ出し、瑞雲に向かって刃となって突き刺さったのかもしれない。

 瑞雲の隠していた事実が、事件に直接関係していない可能性はある。陽向が下田に向けていた視線など、何の意味もないかもしれない。それでも暁斗は、自分の妻が隠し事をしていたことが、どうしても許せなかった。感情の波が次第に苛立ちへと変わり、言葉が鋭さを帯びていく。

「君は、真実を隠した。人として許されないことしたんだ。最低だよ」

 瑞雲は小さく頷いた。

「その通りだわ。私がすぐに言っていれば、下田君は全てを話していたかもしれない。結果として、私にも責任がある」

 暁斗は瑞雲の言葉を聞きながら、彼女の沈んだ声の奥にある後悔と罪の意識を感じ取っていた。しかし、彼の心に募る苛立ちは、まだその事実を冷静に受け止めるには足りなかった。彼の胸の中では、瑞雲への失望と、彼女が背負うべき罪への怒りが渦巻いていた。

 瑞雲にも内心の事情があったことは理解している。それでも瑞雲の立場に立って理解する余裕は、今の暁斗にはなかった。

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