殺人犯がいたクラス
がにまた
二〇二一年 京堂 陽向(きょうどう ひなた)
助けて。殺される――
この人、おかしい。常識なんて通じない。
「いったい、何が目的なんですか?」
ようやく口を動かし、絞り出した声は震えていた。
「理由はわかっているだろう」
低く抑えた声が耳に刺さる。公園の多目的トイレにこもったその男の声が空間全体に響る。卓球台で弾かれるボールのように私の頭の中を跳ね回った。
クリーム色のタイル張りの床に尻をつけ、必死で手を使いながら身体を後ろへずらしていく。けれど、背中を冷たい壁が触れた瞬間、逃げ場が完全に断たれたことを思い知らされた。
「わかりません」
本当に、何も思い当たることはなかった。
この男に恨まれる理由なんてあるはずもない。だって、私がこの男と初めて話をしたのは、つい数分前のことなんだから。
名前も知らない。ただ、何度か見たことがある顔――私より四つ年上の、開光高校三年一組の生徒だということだけは知っている。
男はゆっくりと腰を沈め、私の視線の高さに合わせた。酷く怯えているであろう私の目をじっと見つめる。その数秒間、彼の表情は一切変化しなかった。感情というものが欠落しているかのような、無機質な瞳――機械のような冷たさに、全身の血が凍る思いがした。
外は雨が激しく、屋根を叩く音が響いている。神経を削る孤独の音が、妙な絶望感をもたらする。声を枯らして叫んだところで、誰も助けに来ない。ここはそういう場所だと、雨音が私に告げる。
便器の冷たい湾曲に首筋が当たった。もう、後ろには下がることはできない。悲鳴を出しても意味無いので、歯を食いしばって男を睨んだ。
男は私の顔の前で口を動かした。けれど、言葉は発しなかった。ただ、男の口元の動きでその言葉を簡単に読み取ることができた。
殺す――確かに、男は唇の動きだけで告げた。
私の全身の震えが男に伝播したのか、男の体内からも微かな振動を感じた。それは男の体内から出る震えではなかった。
電子的な振動音である。
男は、自身の制服のズボンのポケットに視線を動かした。スマートフォンのバイブ音だったらしい。
男の視線が私から外れる。
――迷ってはいけない。逃げなきゃ。
この多目的トイレの中へ弾き飛ばされた時の凶暴さ、屈みこんで私を見つめ時の冷淡な眼。私を殺すと言った男の言葉には説得力があった。
そう、逃げなきゃ、本当に殺される。
スマートフォンを取り出した男の手には軍手がはめられていた。真夏の夜、激しい雨が降り注ぐ中、傘を持ち軍手をはめていた理由に、再びゾッとした。
男は、スマートフォンの画面に視線を集中させていた。誰かからのメールだったようで、画面を一点に無機質な目が見つめていた。その隙に私は決意を固める。背中を一度引っ込め、お腹に力を入れ、身体を前に倒す。精一杯に勢いをつけて伸ばした両手の平が男の顔面を捉えた。
男の背中がタイル素材の床につく。男が「うぅ」と呻いた。
私は勢いよく立ち上がり、床を蹴ってドアの方へ向かう。引き戸を身体の方へ引っ張ると、鍵がかかっていたようでドンという鈍い音が響いた。慌てて鍵を探す。手元がもどかしいほど震える。ようやく鍵を回して引き戸を開けた。
公園の外に足を踏み出そうとした瞬間、私の後頭部は強い磁力を受けた鉄球みたいにトイレの中へと引っ張られていった。
私の後ろ髪が掴まれていることに気が付いた時、髪なんて伸ばしていなければ良かったと、後悔が頭の中に浮かんできた。
強く髪を掴む男の手を振りほどこうとするけど、その男の方が力は強くて、しまいに頬を殴られ床に伏した。痛い。怖い。死にたくない。私は何度も殴られ、意識は朦朧としていった。
「やっと殺せる」
男が言った。
また、男のポケットからスマートフォンのバイブ音が響いた。スマホが震える音が、今の私にとって唯一の救いに思えた。
男の制服のズボンのポケットの中の振動音が、妙に鮮明に耳に残る。
助けて――
心の中で何度も叫んでも、声はスマートフォンの向こう側にいる誰かには届くことはない。
男は、私の頭を何度も壁に打ち付けていたが、突然その動きを止めた。そして、私を放り出すように手を離すと、こちらを一瞥することもなく、ゆっくりと立ち上がった。
私は力尽きてその場に崩れ落ちた。目線の先には、自分が普段持ち歩いている黒いリュックが見える。全身の痛みと恐怖で、体は痙攣するように震えているが、何とか意識を繋ぎ止めようと必死だった。
男がトイレのドアに向かう気配を感じた。鈍い音を立ててドアが開くと、雨音の中に、微かに男の低い話し声が混じるのが聞こえる。どうやら外に出たらしい。
――死にたくはない。私は腕を痙攣させながらリュックを掴んだ。引き寄せ、リュックの中からスマートフォンを取り出す。パスワード画面の『緊急』のボタンを押して、『1』、『1』、『0』と順番にタップした。
「はい、警察です。事故ですか、救急ですか」
お願い。早く助けて欲しい。男に悟られないように私は声を絞って告げた。
「お名前は?」
そんなの、どうだっていいでしょ。早く助けにきてよ。
「京堂陽向。殺されちゃう。お願い。早く」
「落ち着いてください。学生ですか?」
落ち着いてなんていられない。
「そう。急いで」
「学校名は?」
「赤丘西中学校。そんなことより、急いでよ」
「今、どちらにいるんですか?」
「赤丘市中央公園の多目的トイレの中」
トイレのドアが開いた。男は、自身のスマートフォンをポケットの中へ仕舞いながら、ゆっくりと私の方へ歩み寄る。冷徹な目を向けられ、息を止めてしまった。心臓が早鐘を打つ。私が死なないために、今できることを必死で考えた。
大きく息を吸い込むと、一瞬のうちに、全身に冷たくも強烈な痺れに包まれ、いくつもの鋭い針で刺されるような感覚が広がった。
「開光高校の三年一組の男子生徒に何度も殴られています。殺されちゃう。早く助けて!」
激しい痛みに耐えながら、自分に残された力を振り絞り、呻くように告げた。
男は、私が握り締めたスマートフォンを奪い取り、電源を切る。
私は安堵の息を漏らす。男の学校も、学年も、クラスも警察に告げた。これで、殺されることはないだろう。それでも、男は表情を変えなかった。私のお腹の上に座る。
「警察に言った。逃げなくていいの?」
息が詰まる。喉の奥に何かが詰まったような感覚で、肺に空気を送り込むことすらできない。全身が痛む。声を出そうと口を動かすが、うわずった音が掠れるばかりで、まともな言葉にならない。
男は私の必死の抵抗などまるで眼中になく、私の腹に重くのしかかり、そのまま動こうともしない。
突然、冷たい手が私の首元に伸びてきた。男の動きが視界の端に捉えられた瞬間、頭の中が真っ白になる。
どうにかしないといけないのに、身体が恐怖に支配され、ただ目の前の死の影に飲み込まれていく感覚だけが鮮明だった。
私は恐怖に耐え切れず、ついに目を固く閉じた。見たくない。これ以上、目の前の現実を直視したくない。これが現実であるわけがない――。
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