ep.2 「今の生活って、君等とたいして変わらないかもね?」

子供の頃、わたしはとても裕福な暮らしをしていた。

今となっては夢の彼方の出来事にしか思えないけれど、温かい朝食と、飾られた花々と、クリームとジャムたっぷりのスコーンは憶えている。すげえ旨かった。


平和でお菓子食い放題の日々は、けれどあっという間に崩壊した。

不穏な空気が日々その濃さを増し、ついには家ごと燃やされた。


憶えているのは母様の、わたしの顔をなでつけ優しく言った「どうか、健やかに」という言葉。

炎を背景に言う姿は、この世でもっとも美しいものだったと今でも言える。


それですら私の錯覚か、幻想でしかないのかもしれないけれど。


「ふん!」


だって、裕福だった家の人間が、下水に棲み着いたネズミ退治をするとは思えない。

ぢぃィッ、と断末魔を上げてネズミが潰れる。手にした小型ハンマーは、今日も仕事の役に立つ。


下水に流れ着いたトンカチを、壊れたモップの柄で伸ばしたものだ。

取り回しが難しいけれど、この細腕でも一撃必殺が可能だ。

今日も金属製のヘッドが血で濡れる。


ここは地理的には北方の島だけれど、海流の関係なのか割と気候は温暖だ。

人だけではなくネズミも繁殖してしまうほどに。


金網、鉄格子、殺鼠剤散布などの数々の対策は簡単に突破する。

彼らにとって、空腹は命よりも重いらしい。


その意気やよし、だが殺す。


危険に敏感な小動物は、虐殺しておけばしばらくは寄って来ない。

わたしが来た、という情報がすばやく伝達される。


統率しているネズミが、きっといる。

無謀な反抗をさせず、こちらの出方を伺い逃げる。


目下のところのライバルだけれど、その姿を見たことすらない。

随分シャイな奴らしい、その内に熱い口づけをしたい。

ちなみに、トンカチの平らな打突部分のことを口という。


「まあ、考えてみれば」


パシャパシャと下水を行く。

魔法防護のために汚れることはない。

特に足元は念入りに対策済みだ。


「今の生活って、君等とたいして変わらないかもね?」


ネズミはわたしたちの出したゴミを食べて生きている。

わたしたち下働きは、先生や学生たちの残した残飯を食べて生きる。


食物連鎖にも似た流れがある。


より正確に言えば、先生を初めとした上層部の人たちが食べた残りを上級職員や生徒たちが分け合って食べ、その残りを生徒たちの世話をする個人メイドたちが食べ、その残りをようやくわたしたち下級職員が食べている。


まあ、それでも食べきれず、ネズミどもに放流してしまう程度には裕福なのだから、あまり文句は言えない。


ちゃんと食べているのに背が低いのはどうしてなんだとは思うけど、その呪い先はどちらかといえば己の肉体であり、肉のカケラも入っていないシチューじゃない。


「よし、今日もいい虐殺だった」


ひと仕事終えて清々しい気分で学園内を歩いた。

討伐の証拠として背負う袋には皮を剥いだ鼠がいる。


貴重で新鮮な栄養源だ。

長く棲み着いたのは食えないけど、下流から逆流してきたばかりの奴らは臭みも少ない。

物言わぬ血抜きされた肉として出番を待つ。


食べる肉がないなら、狩ればいいじゃない。


こうした副収入は、下級職員の特権でもある。

職務に支障のない範囲であれば、着飾ることも食料の自力調達も認められている。


ネズミ肉は、筋張ってて鶏肉っぽいけど、それでも食えることは食える。


「ふんがぐーん♪」


思わず鼻歌すら出てしまうほど、浮かれていた。

そう、完全に油断していた。


ちゃり、と胸元のペンダントが揺れ――


「そこの貴女!」


道行く令嬢に絡まれた。



 + + +



わたしはすぐさま左右を見渡した。

場所は通路中央、主に使用人が使う通路だ。授業が終わり生徒たちが戻る時間であり、誰もが忙しなく移動している。


窓外には帰宅途中のお嬢様方が大量にいた。

飛び降りて逃げるわけにもいかない。


どこへ逃げても目撃される。

逃げるルートがない。シット。


「小職に御用でしょうか、お嬢様」

「……貴女、いま逃げ出そうとしなかったかしら」

「とんでもございません、小職への問いかけであることを確認しただけでございます」


勘いいな、この令嬢。

巻き髪の金髪で、それなりに高い背丈だ。

わたしからは少し見上げる格好になる。


名前はたしかカリス。

カリス・ペルサキスだ。


ペルサキス家は南方に突き出す地域を統治する。

三方を海洋に面している関係から海運に強い。

モノも情報も人も行き来するためか、押しの強い人が多い。


違う文化や宗教の思い通りになるよりも、ペルサキス家の理屈を笑顔で押し通した方がいい、そんな家訓がある。

別の言い方をすると交渉上手に見せかけた頑固者になれ、って家訓でもある。


「まあ、いいわ。貴女、下級職員よね」

「はい」


職員、という名前がついているけど、まあ、使用人だ。

ここが学院だからこそ、そういう扱いをされている。


わたしが先生や学院生に見えることはないだろうから、上級職員かどうかを確認したかったのかもしれない。

上級職員とは、部門トップとほとんど同じ意味だ。シェフ長だったり寮管理トップだったりメイド長だったりする。


「……貴方いま、そんなこと見りゃ分かんだろこのタコ、って顔しなかった?」

「いいえ、滅相もございません」


ぼさぼさ髪が顔を覆ってるからと油断していた。

そんなにも正確に見通すなんて。やるな、この令嬢。


「まあ、いいわ。それ――」


わたしの胸元のペンダンを指した。

え?


「それは、下級職員は認められていない贅沢品よね、ちょっとしたものなら許されるでしょうけれど、これは明らかに逸脱してるわ」

「ちょ、ちょ?!」


困る。これ、母様の形見の――


「没収よ」


呆気なく持って行った。

断ち切られたチェーンが宙で揺れ、令嬢の手の中に収まった。

伸ばした手は届かない。


令嬢は、とても良いことをしていると勘違いした口調で。


「割といい品ね、売ればいくらになるかしら」

「申し訳ありません、それは――!」

「大丈夫、ちゃんとお金は貴方に渡すわ」


そういう問題じゃない……!


「こちらの手数料は、たったの三割でいいから」


思わずトンカチの長柄を握りしめたわたしを非難できる人は、きっと誰もいないはずだ。


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