第2話 ともしび
痛みと共に目が覚めたのは屋敷のリビングだった。キッチンから零れるランプの明かりと、蝋燭が揺らめき部屋が照らされていた。私は空腹で倒れてしまったのだろう。振り子時計が小気味いい音を四回鳴らす、夜明けは近い。
外で遊んで、お昼寝をしてメイドに起こされる。それでも二度寝をしていると、時計の音が響き渡ってようやく目が覚める。ディナーの用意が出来ていて、目をこすりながら目を覚ます。少女の時代は終わって前の前のには仄暗い闇と小さな灯火が揺らめいていた。明星と三日月、窓から覗く暗夜は蒼く研ぎ澄まされてゆく。
ヴィクターさまが私をここまで運んでくれたのでしょうか?
ぐつぐつとした音、トマトの芳しい香りと。コンソメとガーリックの匂いにつられて立ち上がる。頭の中も後ろも痛い、きっと倒れた理由は貧血ですわ。半日何も食べず、朝食も殆ど喉を通らなかった。ジーヤとは口も殆ど聞かず、お屋敷についてからは少し怪我をして。それから、噛みつく本の相手をしてからの大爆発。精神的疲労がピークに達していたのでしょう。
夏とはいえ木綿のワンピース一着では肌寒い。手近にあったブランケットを羽織りキッチンに向かうとヴィクターがスープの味見をしていた。
「まぁ、こんなものでしょう…あれぇ?目が覚めましたか?」
ヴィクターが味見用の匙を持ったままこちらを見る。ただの調理器具のはずなのにヴィクターが持っているだけで不安になる。トマトスープの色は緑でも青でもなく、綺麗な赤色をしていて安堵する。
「ご迷惑をおかけいたしましたわ。」
私は深々と頭を下げる。いくら変わり者のヴィクターだとしても、私が迷惑をかけたことには変わりはありませんもの。彼が不埒な輩なら、犯し殺されてもおかしくはない。そうでなくとも、夜の急な侵入者に手を上げなかっただけで強運だろう。
「…頭を上げてください、ロックハート卿。また貧血になられたら叶わない。」
眩暈がして倒れそうになる私をヴィクターの腕が支えてくれる。私を覗く灰色の瞳、神経質そうな眼差しの奥に心配そうな色が滲んでいる。
「ゆっくり、あげてください。全く!自分の具合ぐらい自分でみてくださいよ。」
一言多い!むくれて文句を言いそうになったけれど、思った以上に体調が悪いしヴィクターが言っていることは的を射ている。これからは自分の面倒は自分でみなくてはいけない、当たり前のことだ。誰も召使いなどいないのだから。だから、少しだけむくれる、心を殺すのもまた生き辛い。
「スープを作っておきました。よろしければ召し上がってくださいね。」
ヴィクターはもう食事を済ませたらしい。
濃密な香りが胃袋を刺激する。もう少し落ち着いてからいただきましょう。
その前にヴィクターさまにお話ししなくてはいけない事がありますわ。
「お待ちなさい!先程の錬金術について相談できないかしら!」
「はぁ…私は眠いんです。人の事情を考えてください。」
一瞬むっとしてしまうが、彼は眠ろうとしている所で私をここまで運んで。
あまつさえ食事まで作ってくれた。…文句はいえませんわ。
「明日の夜、お話は聞きましょう。それまではご自分で考えてみるのが良いかと。」
ヴィクターは寝ぼけ眼で自室のある地下へと戻ってゆく。ヴィクターが扉を閉じた音を確認したあと、ふらつく身体をゆっくりとお越し鍋の中で温まったスープをマグカップによそう。いつもなら使用人がしてくれていたことだ、皿にスープをよそうという当たり前のことすら他人任せだった自分の未熟さに気が付き、自分に嫌気が差す。スープの中身はこの街の農園のトマトだ、味付けは一流のシェフとは程遠いけれど、ニンニクと黒胡椒が効いていて元気を取り戻すのには最適の味付け。疲れ切った緊張状態の身体に一気に染みわたる。二杯目のおかわりと、籠に添えられた素朴なライ麦のパンを口にしながらこれからの事を考える。
自分で考える、ただこの屋敷を分譲しようと考えても。どう売り込めばいいか、何をしなくてはいけないか、要点がなければビジネスとして打ち出すのは難しい。蝋燭でペン先をあぶり、筆を走らせる。
①家賃の不払いや滞りがあると困る。ある程度身分の保証された者。
②傭兵や軍人は危険。他住民の為に入居の段階で断る必要がある。
③吟遊詩人や踊り子、旅芸人もお断り。
④言うまでもないけれど、娼婦や男娼は絶対にダメ。
⑤武芸に秀でた紳士だと心強い。
このような形でしょうか、キッチンとバスルームは共用。
暖炉とかまどの当番は交代制。あとはお掃除当番…
空が白んできて日が差し込む。周囲を見回すと、夜には見えなかった床の亀裂や壁の染みが目立つことに気が付く。階段の手摺にはネズミの齧り跡。座っているソファも刺繍がほつれてみっともない。考える前にやることがありますわね。
まずは全体の大掃除。ランプのお手入れに、食器の新調。
壁紙の張替えと余分な家具の廃棄。お庭のお手入れと、ハーブの畑。
そして、そして…なんだか楽しくなってまいりましたわ!
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