第2話

 自叙伝の、最終回の原稿を担当者が受け取りに来た。

「わざわざ足を運んでもらっちゃって、申し訳ないわ。どうしても、手書きじゃないと、スムーズにいかないのよ」

「いいえ、先生。先生の直筆の原稿は、貴重な資料です。大切に保管させていただいております」

「あら、そんな御大層なものかしらね。太宰や三島じゃああるまいし」

「同じぐらいの価値です」

「まあ、お上手ね」

「しかし先生、大変でしたね?」

この担当者が尋ねる大変と言えば、あれしかなかった。それでも、

「何が?」と首を斜めにした。

「ご主人とお嬢さんのことです」

「わたしね、朝起きると、さっきまで見ていた夢が現実で、昔あったことが夢じゃあなかったかと、よく錯覚するのよ。主人の事故死も、娘の自殺も、夢じゃあなかったか、なんて、時々思うのよ」

自叙伝には、夫と娘の死のいきさつが、ざっと次のように書かれていた。

昭和五十二年、玲子四十一歳の初夏。玲子たち一家は品川の小さな二階家に住んでいた。夫の真司は『頼朝挙兵』と言う連作に取り掛かっていた。伊豆や真鶴などに長期滞在し、作品を次々とものにしていた。真司は、気が向いたらふらりと顔を見せるが、品川をほとんど留守にしていた。 

 頼朝が石橋山合戦に敗れ、逃げたところが千葉の鋸南町(きょなんまち)だった。真司は頼朝が船から上陸する絵を描くのだと、その地に滞在をし始めた。玲子は真司の行動に興味を持っていなかった。玲子自身、連載を五つも抱え、気が回らなかったのだ。丁度そのころ、『頼朝挙兵』の筆が止まった。久しぶりで品川に見せてくれた真司の表情や態度が、何となく鈍って見えた。好きでもない酒も飲むようになっていた。スランプなのだと玲子は思った。玲子は作家である。物を作る人間の苦しさは理解していた。

 『頼朝挙兵』の筆は止まっていたが、一枚だけ常に持ち歩き、丁寧に筆を入れていた作品があった。立ち姿の女が後ろを振り向いている絵だった。絵の女は紺色の水玉ワンピースを着ていた。ポーズが菱川師宣の『見返り美人』にそっくりだった。真司は女を描くことが苦手だった。それだけに、その絵は玲子の目に留まっていた。真司に浮気の気配を感じたのは、その絵の完成間近の頃だった。

 二人は長い間セックスレスであった。ある夜、玲子は真司を求めた。絵の女が気になっていたのだ。その真司の手順が違った。触れる強さも違った。匂いも違っていた。ミステリー作家の勘と女の勘が反応した。調べてみようと思った。探偵を雇った。真司は自分の車で行動していた。徹底的に追跡させた。特に千葉の鋸南町は念入りに調べさせた。しかし浮気の形跡はなかった。探偵を変えてみた。結果は同じであった。最後にもう一社、三度目の正直と決め、違う探偵に頼んでみた。この三番目の探偵が証拠写真を玲子に見せた。写真は何枚もあった。問題の女はいつも釣鐘のような帽子を深々と被り、黒いサングラスを掛けていた。相手の素性を尋ねた。探偵は、

「住所も名前も全く分かりません。巧妙です。本澤先生、あなたの小説のようです」と、囁くような声を出した。

 真司の車に片足を掛ける女の後ろ姿の写真を手にした。髪を帽子の中に包み込んだ女の項(うなじ)が目を引いた。きれいな項だった。楚々と罪も穢れもないような色だった。冴え冴えと人を見下すような形だった。真司が描いた絵の、振り向いた女を思い出した。玲子の胸に焼鏝があてられた。

 その日の夜、真司を責めた。許さないと言った。裏切られたと言った。わたしはみじめだと泣いた。あの絵のモデルが浮気の相手だろうと問い詰めた。それはただの勘だが自信があった。もし真司が素直に認め、二度と会わないと約束してくれれば、許そうと思っていた。しかし真司は口を噤(つぐ)んだ。真司が口を噤むのは何か強い思いがあるときだった。玲子の声は大きくなった。攻める言葉は強く汚くなった。罵る言葉が次々に出た。小さな家だった。声は家中に響き渡った。娘の真希に聞こえていると思った。しかし開き直っていた。声は家の外にも漏れた。物見高い人たちが住んでいる場所だった。玲子はそれも吹っ切れていた。妻のヒステリックな声に耐えきれなくなった真司は、車のキーを片手に家を飛び出した。ガレージからエンジン音が聞こえた。真司が酔っぱらっていたことを思い出した。引き留めようと思った。が、やめた。娘の真希が開け放たれたドアーの向こうに立っていた。真希は泣いていた。

 真司はその深夜、国道357号線で事故死した。酔っ払い運転と大きく報道された。娘の真希の異変には全く気が付いていなかった。玲子は仕事に追われていた。仕事で夫の浮気と事故を紛らわせていたのだ。真希との接点は二の次になっていた。真希は高校二年になっていた。ナイーブな子だった。真司に似たのだと思っていた。真希が学校の屋上から飛び降り自殺したのは、真司が事故死した三か月後だった。書き残したノートがあった。玲子はそれを読んで、娘の追い詰められていた状況を知った。

 真希には自分を責める傾向があった。意固地で気難しい面もあった。友達付き合いも下手だった。ノートにはまず、内面の弱さに葛藤する心情が吐露されていた。それから、外側より被った精神的苦痛が綴られていた。あの夫婦喧嘩の騒ぎは近所中に知れ渡っていた。流行作家と有名画家の一家は目立っていた。複雑な感情も持たれていた。その喧嘩の後の父親の事故死だった。近所の人たちは、単なる事故死にするのは面白くないと思った。真希は、白眼視に晒されたとノートに書いてあった。それだけではなかった。真希は小さい頃から潜在的に仲間外れにされがちだった。あの騒動の後、その仲間外れが、陰湿な虐めに変わっていたのだ。

  「もっともっと、いろいろ話を聞いてやればよかったのよ。本当に優しい子だったの。優しすぎると言うか、気が弱かったのよ。主人の葬儀が終ったら間(ま)を置かずに、この青山に引っ越しておけばよかったのよ」と、玲子は出版社の担当の前で鼻を鳴らした。

「あんなに淡々と書いていらっしゃいますが、お苦しかったのでしょうね」

玲子は黙って頷いた。担当者は声を改め、

「そう言えば先生。編集長から、連載した自叙伝を、一冊にまとめたいので、お力をお借りしたいと、そう伝言を預かっています」と笑顔を作った。

「そのお話ですけどね」と、玲子はハンカチを手で揉みながら、

「最初、そんなお話もいただいていましたが、本にするのは、わたしが死んでからにして欲しいの。面映ゆいことも、たくさん書いているから、まとまった形にすると、きまりが悪いのよ」と言った。

「はぁ」

「そちらにも、いろいろお世話になったけど、これが本澤玲子の最後のわがままだと思って、快諾して頂戴ね」

「あぁ、ええぇ」

「わがままついでにね、あそこに仏壇があるでしょう」と、リビングの片隅を指さした。それは細長い仏壇だった。全体がすりガラスでできていた。すりガラスには蓮の花の浮彫が一面に施されていた。夫の戸崎真司と娘の真希の写真と位牌が飾られていた。

「あの仏壇の中に、わたしの最後の原稿を入れておくから、それと一緒に、まとめた本を出版して欲しいの」

「あの仏壇の中に原稿ですか?」

「そう。わたしが死んだら、必ずその原稿を使って欲しいの」

玲子の涙はすっかり乾いていた。

担当者は不承不承の面持ちで帰っていった。

 その夜、玲子は仏壇に入れておくと言った原稿を書いた。自叙伝の最終稿と目論んだ文章である。それは次のようなものだった。

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