見返り美人
疋田ブン
第1話
ミステリー作家本澤(ほんざわ)玲子(れいこ)は八十八歳になっていた。完全犯罪小説が得意だった。ミステリーは十年以上も書いていなかった。もう体力がないのだと、本人は語っていた。ただその作品は、映画やテレビドラマに繰り返し使われていた。つまりネームバリューは健在だった。
雑誌に自叙伝を連載し始めて五年になっていた。これが現在の、唯ひとつの仕事だった。最終回も近かった。最初は昭和を振り返ったエッセーを連載していた。出版社の担当が、エッセーを自叙伝に変えてはどうかと提案してきた。玲子は、
「自叙伝なんて、死刑宣告されたようだわ」と笑った。そして、
「それに、あなた、自叙伝なんて、おこがましい」と痛む膝をさすった。担当者は引かなかった。出版社も、最終的にはまとまった形にもなると熱心だった。しかし何度説得されても、玲子は首を縦にしなかった。
その玲子の気持が変わったのは、心臓疾患の手術で入院してからだった。五年前の話しだ。左心房から左心室に血液を送り込む流出路が狭くなっていた。交感神経から心臓を守るβ遮断薬と、心不全予防のACE阻害薬が処方された。一週間入院をして青山のマンションに戻るとまず、
「ミーちゃんは?」と通いの家政婦に尋ねた。
ミーとは、玲子の飼い猫の名前であった。
「いらっしゃいますよ。ペットホテルからここに連れて帰ると、すぐ、先生のベッドにもぐり込んで。ペットホテルでも、先生を恋しがったそうですよ」
玲子の寝室のドアーが開くと、ミーが猫らしい鷹揚さで姿を見せた。
通いの家政婦は、
「先生、病院食は美味しくなかったでしょう」と、キッチンに消えた。
玲子はミーを抱いてソファーに座った。座って自分の心臓のことを考えた。長い間、動き続けた心臓だった。あとどれぐらい動いてくれるのだろう。考え込むとますます鼓動が乱れる気がした。心臓の事を考えるのをやめた。
自叙伝の話を思い出した。恵まれた家庭に生まれた。女子大を出て出版社に入った。おだてられて小説を書いた。それが新人賞をとった。ちょっとした時代の寵児になった。日本画家の戸崎(とざき)真司(しんじ)と結婚した。1号の絵で百万の値が付く画家だった。女の子を授かった。真(ま)希(き)と名付けた。このたった二人しない家族を、四十一歳のときに失った。夫は事故死し、日を置かずに娘は自殺したのだ。一人残されてからも小説は書き続けた。
玲子は、自叙伝を書くにしてもこれだけのことだと思った。ミーに思いっきり頬ずりしながら話しかけた。
「ミーちゃん、ママの人生は、人に語るほどでもないのよねぇー」
数々の賞を貰った。ベストセラーもたくさん残した。テレビドラマや映画に何本もなった。
「だからって、どういうこともないのよねぇー、ミーちゃん」
ミーが「ニャー」と鳴いた。
「でもネ、ミーちゃん」
玲子は入院中、考え通したことを思い出した。作家なんか掃いて捨てるほどいる。作品なんて星の数だ。ほとんどの作家は忘れられていく。作品も同じだ。あの人も、あの人も、あの人が書いたあのベストセラーも……。名前も作品も、永遠に振れ動く時間と言う箒に、きれいさっぱり掃き捨てられていった。わたしの作品だって同じだ。エネルギーを費やして書いた作品が、見向きもされなくなってしまう。
「だからミーちゃん、ママはね。あのことを書いて、ママの名前と、ママの書いた作品が、いつまでも、いつまでも忘れられないようにしようと思うの」
ミーは玲子の目を見ようとはしなかった。
「自叙伝を書こうかしらね、ミーちゃん」
こうして玲子は自叙伝の連載を始めたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます