訓練とうさ耳 5

 ――ああ、聖女だ。


 ライナルトは、ふわりと微笑んだヴィルヘルミーネを見上げて、そう思った。

 ヴィルヘルミーネの微笑みは、いつも可愛くて綺麗だけど、今日のその微笑みは、どうしてだろう、いつものそれとどこか雰囲気が異なって見えた。


 彼女の優しい手が、頭を撫でていくのが気持ちいい。

 彼女が触れる頭や耳が、ぽかぽかと温かい。

 急に頭を膝の上に乗せられた時は恥ずかしくてちょっと焦ったけれど、彼女に膝枕されて頭を撫でられるのは、とてもいい気持だ。


 まっすぐに向けられるヴィルヘルミーネの微笑みは、とても慈愛に満ちていて、優しい。

 そしてライナルトの頭を撫でる彼女の温かい手は、奇跡のような手だ。


 ヴィルヘルミーネに出会ってから、ライナルトは、自分を長年苦しめていた痛みから解放された。

 そして、兎の姿になって、もはや生を諦めていたライナルトは、再び人の姿に戻ることができた。

 覚悟を決めて、もう二度と会わないつもりでこの塔から逃げ出したのに、再び家族に会うことができたし、彼女とともに歩む未来まで、ヴィルヘルミーネはライナルトにもたらしてくれた。


(優しい優しい――俺の、聖女)


 ヴィルヘルミーネが、そして、ヴィルヘルミーネともに過ごす時間が、愛おしくて仕方がない。


 頭を撫でられるのが心地よくて、ライナルトは目を細める。

 頭に残った二つの魔王の呪いの残滓も、かなり呪いの影響が少なくなってきたのだろう、撫でられても少しくすぐったいだけで、あまり感覚がない。


 満天の星空と、それに負けないくらい、いやそれ以上に美しいヴィルヘルミーネ。

 世界に二人っきりになったような錯覚すら覚えて、永遠にこの場にいたいと思えてくる。


 ヴィルヘルミーネの美しさは、内面の美しさだ。

 もちろん、顔立ちが整っているのは間違いないのだが、彼女は本当に、心が綺麗で優しいと思う。

 ヴィルヘルミーネが微笑んだ時、その内面の美しさがふわりと顔に現れる。


 白魔術師の中から稀に誕生する聖女。

 ライナルトは、白魔術師の中から聖女の力を開花させる条件とは一体何なのだろうかと考えたことがあったけれど、今、わかった。


 ――きっと、その心が、聖女にふさわしい人がその力を開花させるのだ。


 ヴィルヘルミーネを見ていると、そう確信できる。


(それにしても、温かい……)


 ヴィルヘルミーネが撫でていくところが、ぽかぽかして気持ちいい。

 このままでは寝てしまいそうだなと、うっとりと目を閉じたライナルトは、次の瞬間、驚いたように大きく目を見開いた。


 ふっと、頭からわずかに残っていた耳の感触がなくなった気がした。

 驚いてヴィルヘルミーネを見上げると、こちらを見下ろすラピスラズリ色の瞳が、「よかった」と細められる。

 震える手をそっと自分の頭に伸ばして、そこにあるはずの二つの獣の耳がなくなったことに気が付いて、ライナルトは細く息を呑んだ。


 ゆっくりと体を起こして、片手を頭に触れさせたまま、ヴィルヘルミーネを見つめる。

 頭にあった二つの呪いの象徴が消えたのかと、そう問いたいのに、声が出ない。

 そんな、声に出ないライナルトの問いを、しっかりと聞き届けたように、ヴィルヘルミーネは大きく頷いた。


「消えましたよ」


 消えた。

 ――消えた。


 ライナルトはおもむろに頭に触れていた手を下ろし、そして、にわかにヴィルヘルミーネを抱きしめた。

 抱き寄せ、ぎゅうっと腕の中に閉じ込める。

 指先が、わずかに震えていた。


 ――消えた。魔王の呪いが、今、完全に、消えた。


 ヴィルヘルミーネがいるから、いつかは消えると思っていた。

 だけど、思っていたけれど、信じ切れていない自分がいた。


 自分を蝕んでいた魔王の呪いは、本当に、完全に消えるのだろうか。

 二つの耳は残ったけれど、人の姿に戻れたのだから、もうこれで満足すべきではなかろうか。

 完全に戻らなくても、痛みもなく、兎の姿でもなくなったのだから、これで充分のはずだ。


 そう思うことで、言い聞かせることで、もし永遠にこの耳が残ったらと不安に思う自分の心を鎮めようとした。

 だって、これまでのことを思えば、本当に、信じられないくらいに幸せだったから。


「ヴィル……ヴィル……!」


 腕の中にかき抱いた華奢な聖女は、柔らかい声で「はい」と返事をくれる。

 声が、指先が、全身が震えて、しばらく動けそうもない。


 ヴィルヘルミーネは、天が遣わした天使ではなかろうか。

 彼女は、彼女の手は、奇跡ばかり起こす。

 愛おしい愛おしい――ライナルトの、聖女。


 腕の中で身じろぎしたヴィルヘルミーネが、そっとライナルトの頬に触れて、ライナルトはそこで自分が泣いていたことに気が付いた。

 華奢で優しくて温かい指先が、涙の痕を拭うように動く。

 そして、ふんわりと、先ほど見た微笑みと同じ、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。


 見れば、ヴィルヘルミーネのラピスラズリ色の瞳も潤んでいて、ああ、自分のために泣いてくれるのだと思うと、もうたまらなくなった。


 そっと、顔を近づけ、触れる寸前で止め。

 じっと彼女の瞳を見つめると、ヴィルヘルミーネはゆっくりと瞼を閉じる。


(ああ――君が、ヴィルが、たまらなく愛おしい……)


 そっと触れた柔らかな唇は、涙の味がした。



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