第32話 分水嶺


「さあ、どうするべきか……」


 俺は岐路に立たされていた。王女と謁見したときもそうだったが、ここが人生の分岐点だと確信できる瞬間だったんだ。今すぐ戻るべきか、それとも残るべきか……。


【シルルの思念】という下位の魔物でもべらぼうに強いのに。その本物で中位の魔物【シルル】相手となれば、現状の魔力では勝てる見込みが薄い。


 しかし、これは見方を変えれば、魔力レベルを飛躍的に上げられる千載一遇の大チャンスかもしれない。


 万が一死んでしまった場合でも、あらかじめ過去の地点を決めた『マンホールポータル』を傍らに置いていれば、俺の遺体が触れた時点で過去に戻れることになる。掠りもしなかったらゲームオーバーだが。


 とにかく、中位の魔物の強さを身をもって知ることは、今後を踏まえても非常に重要だ。魔力の純度を一気に引き上げれば、魔力トレーニングの効果が大幅に増加するのだから。時間を戻しても、記憶=精神=魔力は変わらないはずだ。


 俺がそこまでして短期間で強くなろうとするのにはちゃんとした理由がある。グラスデン家にやり返すためでもあるが、連中を含めて俺の排撃を目論むであろうから大切なものを守るためだ。


 ゲームの本編は着実に迫ってきている。となれば、この世界は悪役貴族の俺を排斥しようとするはず。それに抗うような強い力がなければ、誰かを守ろうなんていうのは荒唐無稽な話だ。


 地道に魔力レベルを上げるという手もあるが、多少リスクを冒してでも大きな成果を得られる可能性があるのであればやらない手はない。


「アイラ……もし俺が帰ってこなかったら、俺のことを一生恨んでくれ。絶対に許しちゃダメだ……」


 俺はあえて運命の流れに身を任せることに決めた。死亡フラグも出ているんだ。このまま進めば、確実に【シルル】と遭遇する。


「……」


 従魔を巻き添えにしたくないのもあって、しばし自分の足で歩いていたときだ。特に何か起きたわけでもないのに、空気が微妙にするのがわかった。


 もし、今よりほんの少しでも魔力が低ければ感じ取れなかったかもしれない。それくらい微細なものだったが、それに気づけたのは途轍もなく大きなメリットだった。今まで身を粉にして修行してきたのは決して無駄じゃなかったってことだ。


「――はっ……」


 信じられるだろうか。空気が微かに揺れ動いてからまもなく、唐突に頭の中がぼんやりしてきて、視野が極端に狭くなる感覚を俺は味わっていた。


 まるで、そこだけしか目に入れてはならない、さもなくば死は避けられないと本能が訴えているかのように。曖昧模糊とした感覚の中で、唯一それだけが明瞭としているという異様な状況だった。


 もうすぐが来る。そう確信した俺は、過去の地点を思い出しながら『マンホールポータル』を足元に設置する。


「……ララ、ラ……」


「……」


 合間をさほど挟まず、子守歌のような眠りを誘う歌声が聞こえてくる。どこかで見た覚えのある人影とともに。


 外殻はこの上なく硬くて噛み切れないのに、中身は柔らかくて歯応えすら感じない。それが侵入者に対して抱いた俺の第一印象だった。


 纏うオーラからして中位の魔物【シルル】だと断言できる存在は、あたかも人の子のような振舞いで俺のテリトリーへと容易く踏み込んできたのだ。


「ネエ、アナタ、誰……?」


「……あ、あ……」


 気づけば【シルル】が俺をまっすぐ見上げていた。質問されているのに答えることはおろか、まともに声を出すことさえもできない。恐怖や緊張の余りというより、無力すぎて自身が赤子に戻ったかのような錯覚すら覚えていた。


 これは多分アレだ。【シルル】の殺気が強すぎて。死臭が噎せ返るくらい強烈なために逆に生命の息吹を感じさせている。おそらく、刹那が永劫のように長く思える状況のはずだ。


 このままなら、俺は間違いなく何もできずに死ぬ。また、時の流れが緩慢に感じるとはいえ、【シルル】と出会って一分以上は超過していると思われる。そのため、自分の遺体が『マンホールポータル』に当たったとしても、威圧感によって動けない状態から死ぬまで延々とループするのみだ。


 唯一の希望があるとするなら、こうして冷静に思考できているということだ。何かの拍子で体さえ動けるようになればなんとかなるはず……。


「コノ、ハ……」


「……え、あ……?」


 自身の命が尽きるイメージが明確に浮かぶ最中だった。彼女がそれを口にした途端、何故か俺は言葉を発することができるようになった。その勢いでテクニックも使えるのかどうか、【シルル】に『レインボーグラス』を試してみる。



 名称:【シルル】

 魔力レベル:5.0

 魔物ランク:中位

 特殊能力:『自然回復量向上・中』『再生・中』『威圧・中』『嵐の予感』『トランプルフィールド』『テレポート』



 本当に使用することができた。俺は間髪入れずに『クリーンアップ』を使って【シルル】を払いのける。『デンジャーゾーン』のおまけつきだ。


 危険領域に派手な血煙が上がるが、やつの能力を見ればこれで倒せるはずもない。それでも足止めにはなる。そこから直ちに『マンホールポータル』の枠を踏み、屋敷の自室への移動を試みた。


「――はっ……」


 着地するような感覚がしたかと思うと、景色が俺の部屋へと移り変わる。周りに【シルル】の姿はない。


 それでも、やつには『テレポート』があるだけに最後まで油断は禁物だ。何故なら、ポータルの穴は俺が移動した瞬間に消えるものではない。ほんの数秒間は残留するからだ。


【シルル】は『テレポート』で危険領域から一瞬で離脱できる。それだけでなく、『マンホールポータル』に直接飛び込んでくる可能性すらある。


 そうでなくても、範囲攻撃になる『トランプルフィールド』があるので近づかれるだけでもまずい。それもあって俺は入り口に『デンジャーゾーン』を新たに仕掛け、魔除け効果のある『ホーリーキャンドル』も併用する。頼む、どうかこっちへ来ないでくれ……。


「……」


 天井の『マンホールポータル』が消えていく。しかも周囲に【シルル】の姿はない。よかった。助かった……。


「う……?」


 俺は思わず倒れ込み、胸の辺りを押さえていた。あれ……どうやらしばらく呼吸をしてなかったみたいだ。本当に、当たり前のことすら完全に忘れてしまう程度には凄まじい体験だった。


 それにしても、【シルル】が妙なことを言ってたな。匂いがするって。一体なんの匂いだ……? まあそんなことを考えてもわかりそうにないか。俺は魔力がそこそこあるだけに、美味しそうな人間の匂いがしただけかもしれないしな。


 それより、魂を削ったのと引き換えに魔力の純度は滅法上がったはずだから、これは期待できそうだ……。



 名前:ルード・グラスデン

 性別:男

 年齢:15

 魔力レベル:4.0

 スキル:【錬金術】

 テクニック:『マテリアルチェンジ』『レインボーグラス』『ホーリーキャンドル』『クローキング』『マンホールポータル』『インヴィジブルブレイド』『スリーパー』『ランダムウォーター』『サードアイ』『トゥルーマウス』『クリーンアップ』『デンジャーゾーン』


 死亡フラグ:『呪術に頼る』


 従魔:キラ(キラーアント)、ウッド(デーモンウッド)



 俺がシルル山から戻ってきて三日経ったわけだが、祠で魔力トレーニングした結果、3.8から短時間で0.2も上がって4.0になった。


 遂に魔力レベル4の大台に突入し、さらには父ヴォルドの3.9を超えたこともあり、俺はウィンドウをしばし眺めて達成感に浸っていた。


 ただでさえ魔力レベルが高いせいもあるが、あれだけ上がりにくい状況だったのにな。やはり、【シルル】と遭遇したことで魔力の純度を一気に引き上げられたのが大きいんだろう。


 これによって俺自身も一皮剥け、中位の魔物相手でも動じることなく普通に戦えるようになるはず。それにしても、今は消えてるが今までで最も死臭を感じさせる死亡フラグだったな……。


 唯一、『呪術に頼る』という死亡フラグだけは未だに残っているが、これは正常さを失って全てを敵に回す羽目になるから仕方ないといえる。


「ルード様、何かはないですか?」


「え、忘れ物……?」


 タイミングよくアイラが現れたかと思うと、妙なことを言い出した。彼女の表情にしても、いつもの自然体の様子に見えて、よく観察してみると若干の圧を感じる。


「……あ……そうそう、そうだった。今度一緒に散歩するってう約束をしてたんだったな」


「それです!」


 寝てる間にユキに顔を引っ掻かれたくないし、思い出せてよかった。何より彼女に黙ってシルル山へ登ったっていう罪悪感もあるので、ちょっくら行ってくるか……。

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