浮気者殺し

 〈鏡の部屋〉は加賀美先生の文学的な実験場のようなもので、実にいろいろなジャンルの作品が載せられていた。こんな陰惨な話ばかりを送っておいて何を言うんだと思うかもしれないが、人殺しの起きない話――恋愛ものだとか、歴史ものだとか、ミステリーでも謎解きが主題になったものだとか、そういう作品だってたくさんあったんだ。いくら作品の中とはいえ、人を殺す話ばかり書いていたら気が塞ぐんだろう。〈復讐もの〉が出たあとは、キザな怪盗が出てくるロマンスだとか、少女漫画みたいな恋愛ものが出てきたりするのがお決まりだった。僕らは、陰惨な話の方を〈裏加賀美〉、そうじゃない話の方を〈表加賀美〉なんて呼んだりしていた。


 ところが、『検査薬』はこのお約束を、僕が覚えている限り初めて打ち壊した作品だった。恋愛に絡む話だから多少は〈表加賀美〉的な要素もあるかもしれないが、それでも中身は浮気した恋人と最悪の女友達を一緒に破滅させる話だ。『標本男』のすぐあとがこの話だったというのも、何か意味があるんじゃないかと僕は思ったわけだ。


 加賀美先生は、僕が『標本男』に残したコメントを見て、事実を確認し――藤内が行方不明だというのを知った。つまり、自分の発した復讐の意志に対して、協力する人間が現れたことを知ったはずだ。その上で、続けて〈裏加賀美〉が投稿されたんだから、これは僕に対するメッセージに違いないと僕は思った。そして、調べてみることにしたんだ。


 友人面をして恋人に手を出す性悪女と、それに平気で乗るクズ男。僕としては加賀美先生と交際している挙句彼女を弄ぶ男の方をぜひ葬りたかったが、この際僕の気持ちはどうでもいい。


 僕は加賀美先生の家――つまり、蓮見みずえさんの家を見ていた。『検査薬』の楓は恋人と同棲しているが、加賀美先生は実家暮らしだ。ここは小説と現実とで違うところだったが、もし加賀美先生がまた復讐を望んでいるんだったら、どこかで現実と小説がリンクしてくるはず――つまり、〈紗季〉や〈誠〉にあたる人物が、蓮見家に顔を見せるはずだった。


 これは、思っていたより簡単な仕事だった。蓮見家に、たびたび出入りする女がいたんだが、この女が小説の〈紗季〉にそっくりだったんだ。丸顔で、ショートカット。甲高い、舌っ足らずな話し方で、よく喋る。職業、ショッピングモールに出店している店の、アパレル店員。なるほど、『検査薬』はかなりアレンジが加わった作品だったんだと、僕は思った。だが、商社の事務員より、アパレル店員の方が話は簡単だ。客のフリをして店に行けば、ああいう店員ってのは向こうから積極的に話しかけに来る。ネクタイ一本、真剣に選んでいるフリをするだけで、実にいろいろな情報が簡単に引き出せた。加賀美先生が書いていた通り、黙っていられないタイプだったんだろう。


 姓は、佐川。下の名前は分からなかったが、大した問題じゃない。


 「ネクタイ、迷っていらっしゃるんですかあ? 」


 きれいに陳列されているネクタイを前に長考する素振りを見せると、案の定佐川は僕のところへきて話しかけてきた。下っ足らずで癇に障る話し方だったが、これがいいという男も確かにいるだろう。


 僕は笑顔を心がけ、相手に薦められるままネクタイをとっかえひっかえしながら、重要な商談が控えているから、そこへ身に着けていけるような落ち着いていて質のいいものが欲しい、などと話した。


 お客に買う意思があると分かれば、彼女らからしたら逃す手はない。佐川はますます僕につきまとって、そばでピーチクパーチク話しはじめた。女性にもいろんなタイプがいるもんだな、と僕はみずえさんのことを考えながら律義に返事をしていた。


 「いやあ、女性にネクタイを見立ててもらうなんて、初めてですよ」


 僕がはにかみながら言うと、佐川は大げさに目をまん丸く見開いた。


 「ええっ、お兄さんモテそうなのに! ウソばっかり、ホントはカノジョさんいるんでしょお? 」

 「いやいや、なかなか寂しいもんですよ。店員さんだっているんでしょう、彼氏さん。うらやましいですよ、まったく」


 社交辞令程度の水の向け方だったが、それで十分だった。この佐川ってやつは、社交性は申し分ないが分別のない女で(友人の恋人と浮気するような女だから仕方ないが)、初対面の客に向かって自分の事情を何の警戒もなくペラペラ喋ってくれた。


 「あたしですかあ? あたしはあ、ちょっと秘密の恋してるっていうかあ……」

 「おっ、禁断の恋ってやつですか」

 「まあ、そうとも言えるかなあ……? あたし、彼氏がいるんですけど、もうひとり気になってる人がいてえ……」


 なんてこった! 加賀美先生の恋人の他に、別に恋人候補がいるってことか? 僕はいよいよ佐川に対する軽蔑を感じた。


 佐川はお構いなしだ。


 「あたしの彼氏、なんか忙しいみたいなんですよお。小説書いてる人なんですけど、お兄さんもしかして知ってるかなあ? ……あ、でもでも、彼あんまりそのこと言われたくないみたいでえ。こないだ喧嘩になっちゃって……なんか冷たくなってきて……だから、他の人の優しさに? 傾いちゃったっていうかあ……」


 君はもう事情を全部分かっているだろうから、彼女のこの発言の本来の意味も分かるだろう。僕もこのときの違和感をもう少し追及していれば、結果は少し違ったものになっていたかもしれない。


 だが、残念ながらそうはならなかった。僕は、佐川は加賀美先生経由で誰か男性作家と知り合い、その作家も加賀美先生と似たような被害をこの佐川から受けているのだろうと解釈した。もしかしたら、加賀美先生はその知り合いのことも一緒にモデルにしたのかもしれないってな。つまり、この時点で僕の頭の中には、女性と男性がふたりずつ登場していた。加賀美先生と、その恋人の男性。佐川と、その恋人の男性――この佐川の恋人というのは、恐らく加賀美先生の知り合いで、作家。加賀美先生と佐川の恋人は、お互いの恋人から裏切りを受けている。


 この計画は、加賀美先生のみならず、その知り合いの男性を救うことにもなるに違いない。僕は適当にネクタイを買い、佐川の甘ったるい声に見送られながら店を後にするフリをした。本を読みながら佐川が仕事を終えるのを辛抱強く待ち(四時間後に成果があった)、彼女の後をつけて、アパートと、部屋を突き止めた。


 土曜日に男が訪ねてくるというのは、小説と同じだった。佐川がふたりの男を弄んでいるなら別々に違う男が訪ねてくるんじゃないかと思っていたんだが、佐川の自宅に現れるのは決まって同じ男だった。ここは『検査薬』が現実に忠実であることを信じるしかなかったが、『検査薬』は浮気男を事件の第一発見者にすることで罪を被らせる話だから、よく訪ねてくる男がいるとすれば、それは加賀美先生の恋人に違いなかった。加賀美先生が知り合いと自分をモデルにしたとしたら、その知り合いも浮気されていることに気づいているに違いない。


 あとは、大筋『検査薬』にあるとおりだ。大きく違うのは、僕はこの一件に登場する人物とは誰とも面識がないから(佐川が僕の顔を覚えていたなら話は別だが)、佐川の部屋へ出かけていくために宅配業者になりすましたことだ。それらしく見えるように服を揃えて、リュックに入れて出かけた。一見業者のようだが、どこの会社でもないことはよく見れば分かる、という程度の変装だった。花束を買い、中に刃物を仕込んだ。先にアパートの裏手へ行き、リュックに入れてきた衣装に着替えてから、佐川の部屋の呼び鈴を押して玄関を開けさせた。


 さすがに警戒されるかと思ったが、問題なかった。送り主に心当たりがあったからだろう。この辺りは、むしろ小説よりも簡単だったかもしれないな。佐川は喜び勇んで扉を開け、受け取ろうとして腕を開いた胸を、僕に刺された。一回、二回。それで十分だった。


 僕は外から見えないように扉を閉め、花束をほどいて花を佐川の体の上にばら撒いた。これは、それこそ推理小説に出てくる殺人現場のような劇的な印象を見るものに与えると同時に、実に合理的な手だった。指紋のついていない花だけをその場に残して身を軽くし、残った包装で刃物を隠して持ち帰ることができるからだ。僕がここへ来るのを見かけた人がいたとしたら、花束の印象が強く残るだろうしね。


 そして、忘れてはいけないのが妊娠検査薬だ。開封し、中身を佐川に握らせた上で、机の上に置いた。


 部屋を出て、アパートの中を走った。うまいことすれ違った連中は、みんな目を丸くしたが、追ってくるやつはいなかった。まあ、大して返り血もつかなかったし、この時点では何が起こったのかも分からないだろうしな。通報されるにしたって、余裕はあるはずだった。僕はアパートの裏手に駆け込んで、宅配便屋まがいの衣装を脱いでリュックに詰め込み、もともとの服を着て帰宅した。あとは、警察に事件として持ち込まれるのを待てばよかった。


 翌日、夕方近くになって待ちに待った通報があった。僕はちょうど勤務の日で、何でもない顔をして仕事をしていたんだが、同僚と一緒に佐川のアパートに向かうことになった。僕が佐川の名を正式に知ったのは、このときだ。彼女は、〈佐川美咲〉といった。


 現場には第一発見者の〈誠〉が青い顔をして立っていた。隣近所の住人たちが、遠巻きにしている。中には前日、走り去る僕とすれ違った人もいたが、帽子を目深にかぶっていた不審な宅配業者まがいと現場に駆けつけた刑事が同じ男だなんて、見抜けるはずはない。僕自身は佐川とも〈誠〉とも面識がないんだから、当然だが。


 やはり、机の上にあった妊娠検査薬が殺しの動機と紐づけられた。おもしろかったのは、その後の調べで佐川が本当に妊娠検査薬を使って男を脅していたのが分かったことだ。加賀美先生がこのことを知っていた可能性はあるが、まったく驚いたね――未使用のものをちらつかせるだけじゃなく、他人の使用済みのものを買っていたっていうんだから(最近は個人同士での取引が簡単にできるから、普通では手に入らないようなものも買えるんだそうだ)。〈誠〉の方もなんだかいろいろと心当たりがあるらしく、叩けば叩いただけ埃が出そうなやつだった。無実なのにおどおどしているもんだからなおさら怪しまれ、引っ張っていくことになったときは愉快だったが、同じくらい不愉快だったよ。こいつは、加賀美先生の恋人ってことだからな。こんな調子がいいだけの軟弱な男のどこがよかったんだか……僕はそのときそう思っていた。


 僕は結果に満足して帰宅し、〈鏡の部屋〉の『検査薬』のコメント欄に


 〈あなたがたを苦しめていた裏切り者は、ふたりとも破滅しました。〉


 と書き込んだ。もちろん、こういったインターネット上の匿名性は、完全なものじゃない。本気で発信者を突き止めようと思えば、さほど手間をかけずに正体を割り出すことも可能だ。


 無防備にこんなことを書き込むなんて、迂闊だろうかという思いが頭をよぎらないではなかった。だが、こんなことを真に受けるやつがどこにいる? 小説になぞらえて人を殺す、そんなミステリー小説まがいのことを本当に実行するやつがいるなんて、誰が信じる? ……そう、普通は、信じない。その言葉のとおりに、現実が変わったと確認できる人物以外は。


 自分の恋人と佐川が事件の当事者になったことは、加賀美先生もすぐに知ったはずだ。ニュースで散々流れたし、なんせ恋人と友人だったわけだからな。


 さて、僕はここまででもうふたりの人間を殺しているわけだが、佐川美咲殺しまでは、実を言うと良心の呵責をまったく感じていなかった。むしろ、愛する女性を苦しめる連中を正義の視点で裁き、鉄槌を下していることに悦に入ってさえいた。天網恢恢疎にして漏らさず。うまく社会的な制裁を潜り抜けたように思ったとしても、最終的にはすべてが我が身に返ってくるものだ。婦女暴行と不倫なんて、唾棄すべき悪行だ、復讐されたところで文句は言えない。


 僕は、言うなれば加賀美先生の共作者になったような気分だったんだ。加賀美先生が作品を通して復讐を願っていることに僕だけが気がつき、僕だけが彼女の手足となって、現実を彼女の望むとおりに変えることができる――正直に言って、最高の気分だった。


 だがそれは、次の『マリオネット』を読むまでのことだった。

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