『マリオネット』
最初は、そんなに深刻な気持ちがあったわけじゃなかった。弟に提供されたアイデアを、わたしが形にする。姉弟で共作をしているみたいな、ちょっと楽しい感覚があった。
だけど、もしわたしの考えが正しいのだとしたら、もうこれ以上こんなことを続けることはできない。
作家になって、もうずいぶん経つ。その経歴のほとんどで、主にミステリーを書いてきた。人間の負の感情に焦点が当たり、普段はひた隠しにしている暗い人間性がむき出しになる――復讐心、殺意、恐怖、悲嘆。人間は多面的な存在で、優しさや愛情と同じくらい、そうしたおぞましい部分を隠し持っている。その暗さを浮き彫りにしてこそ、真に迫った物語が書ける。わたしの作品を読む人は、そういうドロドロした人間の一面を垣間見ることを期待しているのだ。
わたしが女性であることが、一部の読者からは顔をしかめられ、一部の読者からは熱狂的に支持された。いや、顔をしかめる側の人は、わたしの性別が何であろうと微妙な顔をしたに違いない――罪を暴く側の視点で進行させる〈探偵小説〉ではなく、罪を犯した側の視点で書くスタイルが多いわたしの作品には〈事件〉の描写が事細かに現れることも多い。人の命が奪われる瞬間なんて読みたくなかった、トラウマになった、という人は一定数いる。その逆に、復讐心から被害者(殺人者にとっては加害者だ)をズタズタにする描写に一種のカタルシスを感じる人もいるし、復讐者の〈虚しさ〉まで読み取ってくれる人もいる。
そして、ただ単に〈女性〉が残虐なシーンを書いているということに興奮を覚えるたちの人も、確かにいるようだった。どんな作品を書いても熱心にファンレターを送ってくれる人には、そういう人が多かった。
わたしは、もともと童話のようなファンタジーを書いていた。魔法、竜、妖精。動物と人間が言葉を交わし、世界を守るために大冒険。そんな世界が好きだったのだ。ところが、そういう世界観の作品はあまり人気が出ず、新たな可能性を求めて試しに書いてみたミステリーやサスペンスの方が世間にウケた。ウケたのだから、そちらの路線で書き続けましょう、ということになってしまう。わたしは困ったことになったと思った――復讐心から相手を切り刻むような展開を書いておいてこう言うのもなんだが、グロテスクなものが好きなわけではない。試しに書いてみる、たった一度きりのつもりだったから書けたのだ。同じ場所にドジョウは二匹も潜んではいない。
そう思っていたのは、どうやらわたしだけのようだった。
「この人、毎回毎回熱心だねえ」
茶の間の机に積まれたファンレターを摘まみ上げながら、
元は封筒の差出人をわたしに見せた。
「ほら、この加藤さんって人。いつも姉ちゃんに手紙くれる人だろ? すげえ厚み」
「そうそう」
わたしは手を止めて相槌を打った。元も読者のひとりだが、それ以前にわたしの身内だ。姉や姉の本に対してどんな反応があるのかは気になるのだろう。
「今回の本もおもしろかったですって書いてくれたわ」
「これだけ便箋が入ってて、それだけなの? 」
「まあ、要約するとね」
「ふうん。おれも読んでみていい? 」
元はわたしの了解を得て加藤氏の手紙を読みはじめたが、そのうちに
「うへえ」
と呆れたように呟いた。
「『いつもながら、一般的に腕力の面で男性に劣りがちな女性である主人公が、自身を貶めた男に制裁を行うという展開は、彼女の身の内に潜む復讐の炎がいかに苛烈かということを言外に表現する巧みな構成であったと思います。わたしも男ですが、女性を腕力で従わせるような輩を同じ男と思いたくないと常々考えています。家庭内暴力など論外です。
『キッチンドランカー』は女性、特に主人公と同じように主婦をしている方から支持される作品ではあるとは思いますが、わたしも未婚の男として考えさせられるところがありました。互いに好きあって一緒になったはずが、なぜこんなことになってしまったのか? という主人公の悲嘆は怒りよりも印象深く残りました。一世一代の告白によって妻とした女性をなぜないがしろにしてしまうのか? 円満なご家庭もたくさんありますから、主人公の夫のような男を非常識だと感じるわたしのような男性読者も少なからずいたことでしょう。要するに、自分の妻に対する甘えの発露こそが、あの夫のような行動なのだと思います。
わたしも、もし『キッチンドランカー』が先生の実体験をもとに書かれたものなのだとしたら、いても経ってもいられなくなっていたことでしょう。わたしは警察官をしております。一般市民以上に体を鍛えている自覚はありますし、その力を愛する女性に向けるなど、とんでもないことと思っております。……』こりゃすごいな。姉ちゃんのこと好きだって言ってるようなもんじゃん」
「そんなに深い意味のあることじゃないと思うわよ」
とわたしは言った。作家というのは不安定な仕事だから、加藤さんのようなファンは単純にありがたい。でもお互いに顔も知らないわけだし、わたしのことをどんな女だと思っているのかは分からないけれど、実際に会ったらがっかりされてしまうかもしれない。だから、わたしはファンレターにどんなことが書かれていたとしても、過剰な期待は抱かないようにしているのだ。
元はにやにやしながら言った。
「加藤さんも待ってるし、次も頑張って〈復讐〉しなきゃね」
「そんなこと言ったって、もうネタなんかないわよ」
わたしは思わず元に言っていた。わたし自身は、そんなにひどい事件に巻き込まれるような人生を送ってきたわけではない。人を殺したいなんて思ったこともないし。人気があるからといって、ミステリーだのサスペンスだのを書くのが得意なわけでもない。犯罪者側に立つのはやめて、王道の探偵側に立ったものを書いてみようか? 探偵ものなら、ファンタジー要素を入れることもできるかもしれないし。本格的なサスペンスなんて、ずっと書き続けるのは無理だ。ドラマの血のりだって直視できないくせに(だから、わたしはもし自分の作品が映像化されてもまともに見られない気がする)。
元は、しばらく黙って加藤さんの手紙を見ていた。そして、思いもかけないことを言ってきた。
「……あのさ。おれがアイデア出したら、だめかな」
「元が? わたしの小説の? 」
「そう。姉ちゃん、あんまり残酷なの書きたくないんだろ。おれ、文章はあんまり得意じゃないけど、読んでみたいネタが結構あるんだよね。一回やってみない? おれの名前は出さなくてもいいからさ」
わたしにとっては、ありがたい言葉だった。元のアイデアは本人が言い出しただけあって小説として仕立てるのには申し分なく、わたしは原案として元の名前を出すようにすべきだと思ったが、元はあくまでわたしの作品として自分のアイデアが形になるところが見たいのだと言って譲らなかった。
最初に元が持ってきたのは、担当編集の男に強姦された作家の女性が、その復讐に乗り出す『標本男』という話だった。性犯罪は、書くのにも胸が痛い。架空の人物とはいえ、敢えてそんな出来事に遭遇させてしまったことを主人公には申し訳なく思った。
書きはじめは元のアイデアだったとはいえ、復讐シーンには我知らず力が入った。強姦男を拉致して木に拘束し、四肢を切り落とす。そして、主人公を辱めた彼の欲望の塊に制裁を下すのだ――元はそこまでの復讐を提案してきたわけではなかったが、いつの間にかそんなふうに筆が走っていた。書きながら自分の想像が恐ろしくなったし、出来上がった原稿に目を通した担当編集や、原案を作った元でさえ、痛そうに目を細めながら読んでいた。
元は言った。
「姉ちゃん、やっぱりこれ系統の才能あるよ。おれ、ここまでの復讐は考えつかないもん……痛そうだし」
「それはあんたが男だからでしょ……人聞きの悪い」
わたしは口先ではそう言いながらも、まんざらでもない気分だった。
ところが、『標本男』が発表されてしばらくした頃、近くの町で殺人事件が起きたという報道が出た。それが『標本男』でわたしが書いた殺害方法にそっくりだったことでわたしもしばらくマスコミに追い回されることになり、おちおち外出もできないようなありさまだった。
雑木林の中に惨たらしい死体が放置されていて異臭騒ぎになっただとか、殺された男性も『標本男』で殺された編集者のような前科のある男だったのだとか、どこから本当でどこから嘘か分からないような話がいくつも飛び交った。わたし自身はどんなに話を聞かれても被害者とは面識がなかったし、虚構と現実の区別がつかない人がいるのは困ります、というような答えしかできなかった。
わたしは毎日何度目かも分からない取材を受けながら、気が気ではなかった。わたしたち家族しか知らないことがあった――死体が発見される前、自宅に一通の手紙が届いていたのだ。匿名で、パソコンで作成された文章が一文だけ書かれたそっけない手紙。事件が発覚する前のことだから意味も分からず、誰かのいたずらだろうとやり過ごした手紙。だがそれは確かに、その後明らかになる事件を暗示したものだったのだ。
『貴女を苦しめていた男は、もうこの世にはいません。』
わたしには心当たりがなかった。だが、『標本男』になぞらえて殺人を犯した誰かがいる。そしてその誰かは、殺害された男性が『標本男』でいう強姦魔で、わたしがその被害者であると思っているようだ。
わたしに心当たりはない。被害者と面識もない。だが、わたしのために〈正義〉を執行した人物がいることは確かなようだった。
思いもかけない出来事には見舞われたが、というより、見舞われたからこそ、わたしのもとには執筆依頼が舞い込み続けた。内容はともかく、話題になっていることに違いはない。
元は嬉々として案を提供してくれた。今度は、承認欲求の強い友人に恋人を寝取られた女性が友人を殺害し、自分を裏切った恋人を同時に破滅させる『検査薬』という話だった。
「それでさ、ナイフを入れた花束を持ってって友だちを刺すんだ」
元は楽しそうにアイデアを披露した(自宅でなかったら、誤解した人に通報されていたかもしれない)。
「で、妊娠検査薬をその友だちのうちに置いてくんの。第一発見者が浮気した彼氏で、部屋の中がそんなだったら、疑われるのは彼氏だろ? 」
「妊娠検査薬なんて、よく思いついたわね」
わたしはびっくりして言った。それとも、そういうものには男の子の方が注意していたりするものなのだろうか?
元は渋い顔をして言った。
「ちょっと聞いたことあるんだよね……フリマアプリとかで、使用済みの妊娠検査キットが売られてるって。それ買って、男を脅す女がいるんだってさ」
なるほど、とわたしは思った。ということは、主人公の友人はそれなりに性悪な性格にしなければならない――自分の書いたもののために人が死んだかもしれないのに、わたしはすでに『検査薬』の構想を頭の中で組み立てはじめていた。
自分が発信したものの影響を恐れていたら、作家は仕事ができないのだから。
『検査薬』のような状態は、例によってわたしには覚えがなかった。恋人はいなかったし、主人公の友人のようなタイプの知り合いもいなかった。それなのに。
『あなたがたを苦しめていた裏切り者は、ふたりとも破滅しました。』
また匿名の手紙が届いた。わたしはそれからの数日、戦々恐々として過ごした――だが、恐れても恐れなくても結果は同じだった。
今度はかなり離れた町だったが、『検査薬』と同じような状況で女性が殺されているのが発見された。ニュースではそんなことまで報道はされない。だが人の口には戸は立てられないし、『標本男』のときほど特徴のある殺害方法ではなかったから以前ほどではなかったが、やはりわたしはいつの間にか話題の中心に巻き込まれることになった。
さすがに、わたしは恐ろしくなった。自分の知らないところで自分の知らない人々が誰かに命を奪われ、それを実行した人物はそれをわたしのためだと言っている――なぜこんなことが起きているのだろう? 一体誰が、なぜこんなことを?
「次はどんなのがいい? 」
考え込むわたしに、元はけろりと声をかけた。まだまだ、アイデアは尽きないらしい。
「……わたし、怖くなっちゃった」
わたしは正直に言った。元は不思議そうな顔をした。
「何が怖いのさ? 」
元は本気でわたしが何を恐れているのか分からないようだった。わたしは耐えられなかった。
「だって、わたしが書いたとおりに人が殺されるのよ! わたしには、関係のない人が! あんたもあの手紙見たでしょう。小説と現実の区別もつかない頭のおかしい人が、全然関係ない人を殺して回ってるんだわ! 」
「関係なくないよ」
元は真剣な顔で言った。真剣というより、余分な感情の一切抜け落ちてしまったかのような人間味のない顔だった。
後にも先にも、誰かがあんな表情を浮かべるのを見たのはその一回きりだ。思わず黙り込んだわたしに向かって、元はあっけらかんと言った。
「最初に死んだ男は、昔おれの彼女を襲ったやつなんだ。それこそ、『標本男』のアイツと同じさ。仕事でつき合いがあったってとこも、彼女が示談を受け入れたってとこも、仕事をクビにならなかったってとこも、金曜に行きつけのバーがあるってとこも、女にだらしないってとこも同じ」
わたしは絶句した――思ってもみないことだった。元は、本気で言っているのだろうか? 本当に? 本当に、元の恋人を襲った男が殺されたの?
わたしは口の中がからからになるのを感じながら、何とか言葉をつないだ。話そうとすると唇がうまく動かなくて、喉がごくりと鳴った。
「じゃ、じゃあ、ちょっと前に亡くなった女の人は……? 」
すると、元はわたしの顔を見てためらうように口ごもった。
「姉ちゃん、やっぱり知らなかったんだな……言った方がいい? 」
「……何よ。何なのよ」
じゃあ言うよ、と元はおもむろに口を開いた。
「前に姉ちゃんを捨てた男いただろ。浮気してたんだよ、あいつ。おれ見たんだ。駅で、知らない女と腕組んで歩いてた。姉ちゃんに会いにうちに来てた頃からだぜ」
「それが――その浮気相手が、この間殺された人だったってこと? 」
「そうだよ。間違いない――『検査薬』のバカ女と同じだ。デカい声でぺちゃくちゃ喋って、黙っていられない。あんな女に寄ってこられて鼻の下伸ばしてるバカ野郎が姉ちゃんを捨てるなんて、百年早いんだよ」
わたしはすっかり狼狽した。姉であるわたしにとって、弟はいつまで経っても弟だ。小さい頃の印象は消えないし、家族だからお互いのことをよく知っているはずだった。
それがどうだ。目の前の青年は、本当にわたしの知っている弟なのだろうか?
元はわたしの近くに腰かけ、静かに言った。
「そんな顔しないでよ――おれがやったわけじゃない。
「じゃあ、誰がやったのよ? 」
わたしはたまりかねて叫んだ。情けないが、声が震えた。混乱してどうしたらいいのか分からなかった。
「こんなこと……誰かに知られたら………」
「知られたってどうってことないけどね。姉ちゃんもおれも、悪いことは何もしてないんだし……おれだって、こんなに思ったとおりになるとは思ってなかったよ」
元はふと遠い目をした。
「姉ちゃんのとこにいっつも分厚いファンレターを送ってくる人、いただろ。あの人の手紙を見て、コイツなら姉ちゃんの書いた小説をそのまま再現するんじゃないかなって思ったんだ。姉ちゃんにずいぶん惚れ込んでたし、自分が正義の側に立っていると信じて疑っていない。思い込みと勘違いが激しくて、人の話を聞かないタイプだ――そうしたら、本当に事件が起こった。本当にあのファンレターの人がやっているのかは分からないけど、もし何かあったとしても頭のおかしいファンがひとりで暴走したんだ、って片づけられるだけさ」
「でも……」
「姉ちゃんが自分で自首したって、警察じゃ取り合ってくれないよ。何もしてない人が自首なんかしたって、無実の証拠が増える一方だ。せいぜい捜査を攪乱するなって注意されるくらいさ……それより、おれはまだ書いてほしい話があるんだけど? 」
わたしは、今でも元が原案の作品を発表し続けている。本当にただの物語のこともあるみたいだけど、ときどきわたしが書いたとおりの事件がどこかで起きる。おかげでいつの間にか死神なんて呼ばれるようになってしまった――だけど、事実だから仕方がない。
わたしは、わたし自身が恐ろしい。事実を知らされたときはあんなに動揺したのに、自分の書いた小説のとおりに人が死ぬということが、次第にほの暗い快楽になりはじめているのを認めないわけにはいかなかった。自分の作品に人を殺すだけの影響力がある。人の命を左右するだけの支配力がある。それは作家にとっては、抗いがたい幸福だった。
しかしもう、耐えられない。わたしは、人を人に殺させるために小説を書きたかったのではない。わたしの小説は、人殺しの道具ではない。読者が罪を重ねることを望んだわけではないのだから。
わたしは、すべてを警察に打ち明けるつもりだ。『検査薬』事件のときに届いたものからは、謎の手紙もすべて保管してある。信じてもらえなくても構わない。
わたしが次の話を書かないと言ったら、元はどうするだろうか。わたしを脅すだろうか。それとも、殺すだろうか。わたしがこの記録を発表したら、一連の事件を起こした人物はわたしを殺してくれるのだろうか。
わたしひとりがいなくなれば、解決だ。こんなことなら、何もかも最初からなかったことになればいいのに。
そんなことを思っても、わたしにはどうすることもできない。今日も、弟がわたしのところへやって来る。
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