『検査薬』

 松原まつばらかえでは、ある界隈の有名人だった。百四十文字以内の短文に、イラストや写真をつけて投稿できるネット上のサービス――そこに〈めいぷる〉の名で楓が投稿した、飼い猫との日常をおもしろおかしく描いた四コマ漫画がちょっとした話題になり、次々に拡散されて、半年経つ頃には書籍化、一年経つ頃にはアニメ化の話が持ち上がっていた。


 楓は、突然我が身に訪れたこの栄光を喜ばしく思う一方、ひそかに恐れてもいた。ひょんなことから出版業界と縁を持つことになり、〈先生〉の肩書きで呼ばれるようになったとはいえ、楓はもともと本人の作風から感じ取れるほど人当たりの朗らかな性格ではなかった――というより、本来持っている朗らかさは人見知りの外殻に守られて、普段は他人に開かれることはなかったので、慣れ親しんだ環境とはかけ離れた称賛とともに集まってくるようになった人々が楓は憂鬱だった。楓の本職は商社の事務員で、当然自分が漫画家〈めいぷる〉であることは周囲には伏せていたが、少なくとも楓の職場では、なぜか楓が事務仕事を続けるかたわら漫画家としてデビューしたことが知られつつあった。同僚たちの反応はおおむね良好で、中には


 「わたしも読んでる」


 と言ってくれる人もいたのが救いだったが、祝福されて丸く収まったとはいえ、みずから明かしたわけでもない秘密をいつの間にか周囲に知られていたというのは居心地のいいものではなかった。楓は不安から不愉快な気分を拭いきれずにいた。


 ところがじきに、〈めいぷる〉の成功を言いふらしたのが誰なのかが分かった。楓の友人で、同僚でもある田原たはら紗季さき――彼女は楓が〈めいぷる〉であることをはじめから知っていた数少ない人物のひとりだったが、楓の漫画自体にはさして興味があったわけではないようで、〈めいぷる〉作品が話題になる前は


 「漫画描くとか、なんか暗いシュミだよね。別にいいけど」


 などとからかうようなことを口にすることすらよくあった。


 しかし、最近は違う。紗季は楓が話題の人気作家〈めいぷる〉であること、自分がその友人であることを周囲に吹聴していた。さらには、話題になる前から〈めいぷる〉の画業を応援し、ファン第一号を自負している、などと調子のいいことを会う人会う人にペラペラと語っていたのだ。


 日常生活でだけでなく、〈めいぷる〉が活動拠点としている投稿サービスの中でも、


 〈本当におめでとう! 親友として、とっても嬉しいです。これからも、めいちゃんらしい楽しいマンガ、楽しみにしてます! 〉などと楓の投稿にコメントを残し、それを目にした他のユーザーからの注目を集めて悦に入るようなありさまだった。


 楓は辟易した。紗季は仕事の同期で、入社したての心細い時期を支え合って乗り越えた友人であることに間違いはない。楓にはない、周囲からもはっきり見て取れる明るさが魅力的で、楓も彼女のそんな性格に救われた経験がある……しかし、それにしてもこの節操のなさときたらどうだ。


 「ちょっと、控えてくれない」


 紗季が自分の知らないところでもあることないこと言って回っているのは明らかだったので、楓はある日の昼休憩でそう注意した。


 「わたし、自分が〈めいぷる〉だって、知られたくないのよ。普段の生活とは別に考えたいの」

 「ええ、どうしてえ」


 紗季は口を尖らせた。舌足らずな口調は丸顔にショートカットの彼女の印象をより幼く見せ、叱られたことに納得していない子どもの表情を彷彿とさせた。


 「だって、みんなおめでとうって言ってくれたじゃん。楓だって嬉しかったでしょ? 」

 「そういう問題じゃないでしょ。わたしはそうやって誰にでも広めてほしくないの」

 「せっかくみんなに話してあげたのに、どうしてそんなこと言うの? 信じらんない! 」


 紗季が大きな声を出したので、食堂中の視線が彼女たちに集まった。紗季はわざとらしくさめざめと言った。


 「なんでえ? なんでえ? 楓が自分でそういうこと言わないから、あたしが言ってあげただけなのに! 」


 わたしのためじゃないよ。楓は面倒になって、口には出さずに胸の中で呟いた。紗季は自分が注目されたくて、わたしをダシに使ってるだけでしょ。


 この女は、いつもこうだ。楓はうんざりと紗季を眺めた。自分に都合の悪いことを言われたら、大勢の前で泣き喚く(フリをする)。こうすれば、泣かれた方は周囲の目を気にして、泣いた側の要求を受け入れるしかない。まともな大人の女性なら恥が勝ってとてもできないであろう、そんな子どもじみた脅迫を紗季は平気でやってのけ、そのたびに楓は彼女の主張、もといわがままを飲み込んできた。


 そしてどうやら、今度も軍配は紗季の方に上がりそうだった。楓は面倒だった――ここで


 「もうわたしに関わらないで」


 などと言ったところで、事態は何も好転しない。世間の耳目を引くためにならどんなに恥知らずなことでもやりかねないこの女のことだ。〈めいぷる〉として人に知られるようになってしまった今、楓の仕打ちが紗季の気に入らなければ、今度はどんな不名誉な噂を振りまかれるか分かったものではなかった。


 「……もう、お昼休み終わっちゃう。いつまでも泣いてないで、早くしてよ」


 言い合いをしていたのとは別の話題を持ち出すことは、紗季にとっては交渉の決裂ではなく、自分の勝利を意味する。紗季はけろりと機嫌を直し、ほらやっぱりあたしが正しかったじゃない、とでも言いたげな、得意げな顔をしてみせた。


 「感謝してよね! あたしのおかげで、みんな楓のことを褒めてるんだから! 」


 紗季はにこにこ顔で言ったが、楓は適当に相槌を打ってやり過ごした。


 それからしばらくして、どうやら紗季には恋人ができたようだった。楓が気づいたのではない。紗季が一方的に、今日何をしたの、どこへ行ったのと、写真つきで報告を入れてくるようになったのだ。


 楓はげんなりした。紗季はこちらの都合も考えずにしょうもない写真を送りつけてきては、返事を催促するのだ。それも、どうやら紗季とその恋人は、楓が恋人とよく出かけるのと同じ店を行きつけにしているような気配が見て取れた。恋がはじまったばかりで目が曇っているという可能性はあったが、類は友を呼ぶともいうし、紗季を恋人に選ぶような男が楓と気が合うはずはない。もし自分たちが連れ立って出かけているときに紗季たちと出くわしたらどんなに面倒だろうかと、楓は頭が痛くなった。


 ――バカバカしい! 最初から、そんな心配はいらなかったのだ!


 なぜか? 簡単な話だ。楓の恋人と紗季の恋人は、同じ男だったのだから。


これには、楓が自分で気がついた。紗季が送りつけてきた写真の一枚に写っていた男の右手の甲(紗季は必ず恋人の体の一部が写った写真を送ってきたが、顔が写っていたことはなかった)にあるホクロと似たものが、楓の恋人にもあったからだ。


 これだけで、裏切りの証拠とすることはできない――健気にもそう信じ、恋人と紗季を自分自身に対して弁護する材料が見つかりはしまいかと、楓は今までに送られてきた写真を何度となく見返した。だが、楓の願いとは裏腹に、彼らがふたりして楓を裏切り、その模様を楓に送りつけてきていたらしいというのが、次第に明らかになってきただけだった。送りつけられていたときはあまりの煩わしさに大して注意を傾けなかったものの中に、決して顔を写させない紗季の恋人が、楓の恋人でもあるという証拠が無数に転がっていた。例えば、靴に。例えば、髪の雰囲気に。例えば、注文した酒に。


 紗季は写真を送りつけることにあきたらず、たびたび楓の家にやって来ては、この間のデートがどうだったの、こんなことがあったのと、愚痴をこぼすような口調で散々楓にのろけてもいた――つまり、真実を知らない楓に向かって、自分が犯した裏切りを嬉々として語っていたわけだ。紗季が楓の恋人と知らずに交際をはじめたとは考えづらい。楓と恋人の誠はもう半年の間同棲しており、いつも事前連絡もなく突然押しかけてくる紗季は、以前から顔見知りになるくらい頻繁に誠と顔を合わせていたから。


 そういえば、誠は最近、休日は出勤だと言って家を空けることが多かった。仕事が忙しいのだろう、大丈夫だろうか、などと心配していたのがバカみたいだ。


 楓はふたりを問い詰めたりはしなかった。紗季に事情を聞いたところで、自分本位な言い訳を聞かされて不愉快な思いをするだけだ。誠にしても、無口な楓に慣れていた目に、口の軽い紗季が新鮮に、ひょっとしたら女性らしく見え、勘違いしていい気になっているのだろう。楓に見つかるかもしれないという配慮もなく、自分たちの行きつけで紗季と会うという考えの浅さにもそれが表れている。


 楓は何も気づかれていないと思って平然としているふたりに吐き気を催し、その日帰ってきた誠と顔を合わせるのを避けるために〈めいぷる〉としての仕事を夜更けまで続けた。誠は楓の様子がいつもと違うことに気づいたのかいつになく優しげな振舞いを見せたが、楓は忙しいから、と彼を先に休ませた。


 手が震え、まったく集中できなかった。ずたずたにされた自尊心の埋め合わせに、どうやって報いてやろうかという計画だけが、頭を駆け巡った。


 誠は問題ではない。彼から別れを切り出されてはいない――調子に乗っているだけで紗季とは本気ではないのだろう。楓は、自分にこんなプライドが眠っていたとは思わなかった。確かに誠を愛していると思っていたのに、不貞が分かった途端、彼がいかにも浅はかで汚らしく、取るところのない軽蔑すべき人物のように思えて仕方がなくなった。いざとなったらこちらから捨ててやっても構わない。だが、もし楓の方から別れを切り出したら、慌てるくらいの可愛げはあるだろう。そう思えば少しは気分もマシになった。


 ところが、紗季ときたらどうだ。あの女は、考えが浅いどころか理性のかけらもない。誠に本気なのか、人の恋人だからよく見えたのか、その辺りの事情はさだかでないが、浮気の様子を浮気された本人である楓にわざわざ送りつけてくる面の皮の厚さには、一体どんな理由があるのだろう? 〈めいぷる〉の恋人を自分が奪っていることへの優越感だろうか? あるいは、真実を知らない楓を陰で笑っていたのだろうか? どちらでも構わない。恐らくどちらも正解だ。


 紗季は一向に進まない仕事をする格好のまま、頭の中だけでひそかに報復を企てはじめた。彼らは、楓がまだ自分たちの裏切りには気づいていないと思っている……楓は真相を悟ったときに感情に任せなかった自分を称えた。敵には、こちらが何も知らないと思わせておく方がいい。


 一度だ。一度の実行で、裏切り者の双方を破滅させたい――楓はある計画を練り上げ、それを確実に成功させるのに必要な情報を得るために、家では誠を、会社では紗季を、入念に観察した。特に、紗季には恋人との付き合いの様子をこちらから積極的に聞き出した――恐らくこのときの楓は、紗季が覚えている限りもっとも彼女に優しかったことだろう。


 思うところがあるのか、紗季はニヤニヤしながら自分たちの様子を何でもしゃべった。へえ、そうなんだ、それはいいわね。楓はともするとひきつりそうになる唇を無理やり吊り上げながら、にこやかに相槌を打つことに専念した。そして、紗季たちはいいわね、とため息をついてみせた。


 「誠ったら、最近休みの日にも仕事があるみたいで、忙しそうなの。無理してないといいんだけど……」


 これを聞いた紗季は、自分の秘密を打ち明けられないのがいかにも残念そうな、優越感に歪み切った目でぎらぎらと楓を見つめた。もっとも、楓以外の人の目には、いつも通りの紗季が笑って友人の相談に耳を傾けている、というふうに見えただろうが。


 「ええ、そうなのお? だったら楓、もっと優しくしてあげなくちゃ……出勤とか言って、他の女の子と浮気してるのかもしれないよお? 」


 楓は机の下で拳を握りしめたが、にっこり笑って言った。


 「まさか……誠に限ってそんなこと絶対にないわよ。でも、紗季は彼氏さんと仲いいみたいだし、参考にさせてもらうわね」



 誠と紗季が会うのは決まって土曜日だった。楓には出張だと言って、そのまま日曜日まで一緒にいることもあるようだった――誠が帰ってこないのだから、ほとんど確定だ。


 楓はある金曜日の仕事終わり、近くの公園のトイレに向かった。そして、洗濯カゴからこっそり持ち出してきた誠のパーカーとジーンズを取り出し、自分のブラウスの上から着て、スカートをブラウスの中に隠した。こうすれば、服装を変えられるだけでなく女性らしい胴のくびれもごまかせる。靴は、もとから男物にもありそうなスニーカー。入念に化粧を落とし、マスクをして鏡で確認した――問題ない。それから通勤用のカバンを公園の植え込みに隠し、フードを深くかぶって、あまり口を利かないようにしながらバラの花束を買った。


 誠はここのところ土曜日は毎週出かけているから、紗季は明日もきっと誠と約束しているに違いない。金曜日に前倒しで予期せぬ訪問があっても、紗季は迷惑がるような女ではない――むしろ、恋人からのちょっとしたサプライズを喜び、自分の方から演出として要求しかねない性格だ。


 だから、インターホンに映った見知ったパーカーに花束を持った人物を、紗季は喜んで迎え入れようとした。フードでかぶってうつむき、花束を差し出せば、楓の顔など分からない。


 「あれ? ……誠君? 」


 部屋の扉を開けてやって来た人物と対面したとき、フードの中の顔が本当は誰のものなのかが分かったからか、その目に憎悪の色を見て取ったからなのか、紗季は後ずさりしかけた。


 楓はバラの花を彼女に押し付けた……花に紛れさせたナイフが、紗季の胸を刺した。


 紗季はこの襲撃に声もなくよろめき、後ろ向きに倒れたが、まだ息があった。楓はもう二度同じことを繰り返し、紗季の息が完全に途絶えるのを見届けたあとで、花束の包装を取り、手を触れないように気をつけながら中の花だけを紗季の体の上にばらまいた。そして、あらかじめこの計画のために用意しておいた〈小道具〉を開封し、中身を紗季の手にべったりと握らせてから彼女の部屋の机に置いた。


 妊娠検査薬。紗季の死体と同時に見つかるであろうこの薬が、楓の計画で一番の肝だった。


 楓はすべてを済ませると紗季の部屋を出て、フードを深くかぶってその場から走り去った。途中、同じアパートの住人の前をわざと通りもした。人目のないアパートの裏手まで全力で走り、大急ぎでパーカーとジーンズを脱ぎ捨ててスカートを履いた。そして、包装にくるんだ刃物を持って、公園に戻り、カバンを持ってそのまま立ち去った。……


 自分の計画には何か破綻があったのではないかと楓は内心怯えながら日々を過ごしたが、ことはすべて、楓の計画通りに進んだ。


 紗季が発見されたのは、土曜日。見つけたのは、誠だった。誠は部屋の中の惨状に動転し、それでも警察に通報したが、それが彼の首を絞めることになるとは思ってもみなかっただろう。


 すぐにアパートの裏で誠の服が発見され、誠は重要参考人として警察に引っ張っていかれることになった。目撃証言は、誠に不利だった――派手なパーカーを来た〈男性〉が走り去るのを見たとアパートの住人たちは口を揃え、確かにそのパーカーを着た不愛想な人物が花束を買ったと、花屋の店員は言った。顔はマスクでよく分からなかったが、確かに〈男性〉の服装だった、と。


 紗季の指紋が残った妊娠検査薬が動機なのではないかと、警察は疑った。妊娠をほのめかして恋人を陥れようとした女と、それに激昂して彼女を殺害した男。大方そういう筋立てなのではないか、と。


 楓のところにも当然捜査の手が及んだが、彼女はといえば〈浮気されていただなんて夢にも思わなかった〉という顔をしていさえすればよかった。最近仕事が立て込んでいる恋人が心配で、家事もすべて引き受けていた。自分の目を盗んで仲のいい同僚と彼とが浮気をし、自分を裏切っていたなんて! それで、誠のパーカーやジーンズから彼女の指紋が出たことは説明がついた。誠は自身の過ちを初めて知られたと思いこんで狼狽し、楓は浮気の事実を知らなかった、ということを警察に印象づけた。警察はこれでますます〈妊娠脅迫〉の線が濃いと考えた。紗季は浮気相手を本来の恋人から奪い取るべく、検査薬まで用意して、自身が妊娠したことを告げた。誠はもともと紗季には本気ではなく、要求を呑まなければ楓にすべてを話すと脅されて、紗季を殺害した――誠は恋人をぞんざいに扱い、浮気相手を手にかけた男として、容疑をかけられるのみならず軽蔑の対象となり、楓は献身的に尽くした恋人と友人のふたりから裏切りを受けた被害者として同情を集めた。


 誠は当然自身の潔白を主張したが、どうにも分の悪い戦いだった。彼には犯行が行われていた間に自分がどこで何をしていたのか、明確に証明することはできなかった。いつもどおり、楓が帰ってくるまで寝そべってゲームでもしていたのだろう。だが、それを推測できたのは楓ただひとりだった。一方、誠は楓が〈普段通りに〉帰ってきたことを証言した。普段通りに、彼より遅く帰ってきた、と。もし彼が厳密に普段の楓の帰宅時間を覚えており、当日の楓の行動が不自然であったことを証明していれば楓もまた容疑者に浮上していたかもしれないが、そうはならなかった。


 決着がつくまでには長引きそうだった。楓は誠と同棲していた家を出てひとりで暮らしはじめた。誰にもそれを止める権利はなかった。

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