編集者殺し
君は、加賀美作品の特徴を知っているだろうか? 加賀美聡子は知ってのとおり、若手だが著名なミステリー作家で、女性の視点で書かれた〈復讐もの〉を得意とする作家だ。性犯罪や浮気、暴力、搾取などの犠牲になった女性が、加害者に対して復讐を企てる。だから、他のジャンルにも名作はあるが、犯罪小説の書き手として有名なんだ。
こんな作風だったから、ファンの間だけでなく、読書家の間で広く囁かれている噂がある。加賀美先生の作品は、先生の実体験をもとに作られたものなのではないか、というのがそれだ。もちろん、噂は噂だったのだが。
僕はこの噂を、完全に信じても否定してもいなかった。つまり、ある程度は事実なのかもしれない、と考えていた。加賀美先生が書いた女性たちは、さっきも書いたがあらゆる〈ひどい目〉に遭う。いくらなんでも、全部が全部実体験というのは無理があるだろう (本当に全部がひとりの実体験だったら、一体どんな不幸の星のもとに生まれてきたんだと多分君も思うに違いない)。とはいえ、先生が壮絶な経験を創作に昇華しているという可能性は否定できなかったし、本人ではなくても周囲の誰かの体験が創作の源になっているというのは、いかにもありそうな話じゃないか。
しかし『標本男』には、僕はこれまでとは違った印象を抱いた。なんせ、絵本作家が編集者に復讐する話だ――今まで、これほど作家本人に近しい設定の登場人物は、出てきたことがなかった。会社勤めだとか、主婦だとか、大学生だとか、小さい頃から虐待されていたとか、そういう女性ばかりだったんだ。
これは、とうとう噂通りの作品が出てきたんじゃないか、と僕は直感した。そんなものがあるとすればだが、刑事の勘だったのかもしれない。
噂通り、加賀美先生本人がモデルになったのがこの『標本男』で、物語にあるとおりの婦女暴行事件が実際にあったんじゃないだろうか? 僕はどうしても気になり、調べてみることにした。実際に『標本男』にあるようなことがあったとしたら、主人公は一度警察に相談を持ちかけているわけだから、警察内に記録が残されているんじゃないかと思った。
そうしたら果たして、過去に似た事件が起きているじゃないか。数年前、
この〈蓮見みずえ〉こそ加賀美聡子の本名に違いないと、僕は思った。居ても立ってもいられず、記録に残されていた住所をこっそり訪ねたよ。そうしたら、たまたま若い女性が母親らしい人に付き添われて玄関を出てきて、僕の方へ歩いてくるのに出会った。すれ違った――髪の一本一本の艶まで、はっきりと目に焼きつくようだった。美しい人だった。暗く、沈んだ雰囲気で、どことなく痛々しいような――寂しい表情をしているんだが、その顔つきがまた、聡明そうな顔立ちによく似合っているんだ。
蓮見みずえは例の忌まわしい事件後、精神的に不安定になり、療養中とのことだった――男の風上にも置けないような情けないやつのためにトラウマを植えつけられたせいで、外出が怖いのだろう。実際にみずえさんの姿を目にした僕は、いよいよ藤内を許せなくなった。加賀美先生の本の読者としても、警察官としても、ひとりの男としても。
加賀美先生は自分が過去に受けた凶行をもとに作品を書き、自分の手では成し遂げられない復讐を誰かに託したかったのではないだろうか? 僕は胸が躍るのを感じた。この、現実と小説との関係に気づき、事実だと証明できたのは、恐らく僕だけだろう……そんな優越感は、何にも勝る励ましだった。
彼女が成し遂げられないのなら、僕がやってやる! 僕がこの手で、彼女の翳りを晴らしてやる! 彼女の手がけた、この小説のとおりに!
僕は藤内のことを調べ上げた。
別に敏腕というわけではないが、僕も刑事の端くれだ。藤内の顔は分かっていたから、尾行は簡単だった。何年も前に示談になった事件が原因で自分が目をつけられているなんて、まさか藤内本人は思いもしなかっただろう。まったく後ろを警戒しないまま日常を過ごしてくれたおかげで、何時の電車を利用して何時に出勤し、仕事が終わるのがいつで退社がいつなのか、行きつけがどこで何曜日にそこへ寄るのか、彼の家から出版社までの間に何があって、今周囲にどんな女性がいるのかまで、情報は次々と集まっていった。どんなに隠そうとしても、人は生きているだけで勝手に自分の情報をばら撒いているものだ。
藤内は水曜日と金曜日に決まって〈サンセット〉というバーへ寄った。恐らく、この〈サンセット〉が『標本男』の藤島が行きつけていたバーのモデルだろう。水曜日は、必ず誰か女性を連れていた。毎週違う女性だったのには辟易したが、まあそんなことはどうでもいい。問題は金曜日だ。金曜日の仕事終わりに、藤内はひとりで〈サンセット〉へ立ち寄る。この男は変なところで几帳面で、深酒して寝てしまうとか、翌日記憶がなくなるほどの酩酊状態に陥るだとかいうこともなく、決まって二時間あまりで帰宅する。
僕はある金曜日に藤内が〈サンセット〉へ入るのを見届けて、間を置いて自分も店に入った。店は、うまい具合に混雑していた。藤内はカウンターに座っていたが、すぐそばに席を取っても訝られることはなかった。
藤内が一杯目を干し、二杯目を注文するのを待って、僕も同じ酒を注文した。
『標本男』の主人公は女性で、強姦の加害者の編集者とは仕事上でつき合いがあった。だが、僕は男で、藤内とは知り合いでも何でもない(普通の知り合いより彼のことを知ってはいたが)。だから、回りくどい上に神経と忍耐力を使う小細工を自分で考え出さなければならなかった。
僕は自分のグラスに睡眠薬を入れ、タイミングを窺った。藤内が二杯目を飲み終えるまでが勝負だ。藤内が二杯目を飲み干し、三杯目に違う酒を頼んだとしたら、もうこの手は使えない。もしここで計画が頓挫していたら、僕もやはり無理だと諦めていたかもな。
だが、運は僕に味方した。藤内が大して酒に口をつけないうちに、彼に電話がかかってきたんだ。藤内は舌打ちし、席に背広を置いて、店の隅の方へ電話をかけに行ってしまった(そうか、電話番号なら記録に残っているから、それを使えばよかったのかと、僕は内心思った)。
僕は胸をドキドキさせながら、グラスをすり替えた。女性であれば飲みかけのグラスを置いたまま席を離れるなどという不用心なことはしないだろうが、藤内は自分が薬を盛られるとはつゆほども思っていなかったに違いない。電話を終えて戻ってきた藤内は、『標本男』の藤島と同じように何の疑いもなく、薬入りの酒を干した。あまり愉快な電話ではなかったのだろう。イラついた様子で一気に干したんだ。本当だったら大して度数もない軽い酒だからそんな飲み方をしたってどうってことなかったろうが、当然藤内は無事では済まなかった。しばらく自分の体の反応がいつもと違うことに戸惑い、目頭を押さえたりしていたが、三杯目を注文するときにはすでに呂律が回っておらず、新しいグラスの到着を待たずして、藤内はカウンターに突っ伏して眠ってしまった。
マスターが、困惑して藤内を見た。藤内は店の常連だから、マスターは当然本来の彼のペースを知っている。僕はなるべくマスターに顔を見られないようにしながら、連れのような顔をして藤内を揺すった。
「おい、藤内! ……すいません、こいついつもこんなに早く潰れないんですけど……」
「お疲れだったのでしょう。そんなときもあります」
マスターはほっとしたように笑顔を作った。金曜日は決まってひとりで飲みに来る藤内が潰れてしまったとなったら面倒なことになったと思ったろうが、連れがいるなら話は別だ。マスターは僕の顔は知らないが、僕が藤内の名前を呼んだから、すっかり同僚か何かだと思ってくれたようだった。
「おい、まさか最初からこのつもりで呼んだんじゃないんだろうな……」
仕方ないな、まったく。僕は苦笑いしながら藤内の分も会計を済ませ、もっと飲もうと思っていたのに残念だ、という顔をしながら藤内を肩に担ぎ上げた。僕の前には、僕が自分のグラスとすり替えた藤内のグラスがそのまま残っていた。このあと運転しなければならないから酒に手をつけるわけにはいかないが、残していくのは不自然な気がした。僕は藤内を担ぎ上げるときに、思わずという感じを装って、すり替えたグラスを肘で机から落とした。
「おや、大丈夫ですか」
別の客に出す酒を作っていたマスターが気づいて、すぐにこっちへやってきた。僕は神妙に言った。
「すみません、うっかりして」
「いえいえ、お気になさらず。またのお越しをお待ちしております」
酔っ払い相手の商売をしているだけあって、マスターは動揺する素振りもなくあっという間に床を片づけ、僕らに頭を下げた。
彼にとっては、よくあることなのだろう。きっと記憶にも残るまい。筋肉質な藤内は思ったよりも重かったが、職務柄日頃鍛えている僕にはどうということはない。店から運び出し、停めておいた車に乗せ、手足を拘束し、郊外の雑木林へ向かった。N市の、H病院のそばにかかっている石造りの橋を渡った先に広がっている雑木林だ。
そして僕は、藤内を『標本男』の藤島と同じ目に遭わせてやった。小説の中と実際とで完全に同じ状況を再現はできなかったが、まあそこは誤差の範囲内だ。あれは男にはなかなか辛い仕事だったから改めて詳しくは書かないが、藤内は藤島ほど根性があったわけではなかった。まあ、仕方ないだろう。藤島は自分が主人公の女性より優位な立場にいると思っていたから最初のうちこそ元気に彼女をなじることができたが、藤内はまったく面識のない男にわけも分からず拉致されて、目が覚めたら裸で木に縛りつけられていたんだから、驚いて声も立てられなかったようだった。動揺して口をぱくぱくさせている様は実に滑稽で、男前が台無しだったよ。
「な、なんだ、これは? あんたは? 」
「蓮見みずえという女性を知っているな? 」
この一言で、相手にはこちらの目的が分かったらしい。青ざめて、慌てて体を動かそうとしていたが、無駄な努力だった。
「なんで……あれは、もう済んだ話だろう! 」
「あんたの中ではな」
僕の手の鉈を見て、藤内はますますうるさく喚いた。
「やめてくれ! やめてくれ! 何でもする! 何でもするから! 」
「みずえさんもやめてと言ったんじゃないのか? おまえはそれで彼女の言うとおりにしたか? 」
僕は左足を切り落とした。最初は、左足。これは絶対だ。あとの順番は書かれていなかったが、どうせ結果は変わらない。顔に蜜を塗って仕上げ、頭のそばにプレートを打ちつける。僕は芸術的な才能にはあまり恵まれなかったから、美術館に飾ってあるような綺麗な仕上がりには到底及ばなかったが、ここは妥協するしかない。それにしても、読むのと実際にやるのとは大違いだね。本人はあんなに儚げな美しい人なのに、よくもこんなに惨たらしい殺し方を思いついたもんだと、そのときはしみじみ思った。けれども、ああいう大人しそうな女性の方が情が深くて、あの華奢な体の中には、滾るような憎悪がふつふつと煮えているのかもしれない――そう考えれば、やはり僕のしたことは正しかったんだと思った。
僕は血まみれの服を着替えてその場に穴を掘って埋め、引き上げた。実行したのは、三か月前の九日だ。現場の雑木林は広いし、普段はあまり人が入らないようだから、多分まだ見つかっていないだろう。騒ぎにもなっていないしな。でも見つけさえすれば一目瞭然だし、さっきも書いた通り僕が着ていた服がそばに埋めてあるから、証拠としてはこれ以上ないだろう。
僕は、案外冷静だった。帰ってからいつも通り〈鏡の部屋〉へ入り、『標本男』のページにコメントを打ち込んだ。
〈貴女を苦しめていた男は、もうこの世にいません。〉
さすがに冗談だと思われたんだろう。返信はなかったが、加賀美先生は藤内が行方をくらましていることを確かめられるだろうから、じきにこのコメントが事実だと気づいたに違いなかった。
やがて、次の『検査薬』が投稿された。
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