『標本男』

 わたしはこの手で、ある男を殺した。でも、それを後悔したりはしない。


 いつか、明るみに出るかもしれない。あまり気を遣った殺し方はしなかったから、見つかりさえすればきっとすぐにわたしがやったことだと分かってしまうだろう。


 でも、それでいい。見つからなければ、意味がないのだから。


 わたしは、世に出たばかりの絵本作家だ。大学を出てからというもの、他の仕事をしながらようやく果たしたデビューだった。好きでもない仕事に嫌気が差して転職を繰り返すかたわら、作品を作っては賞や持ち込みにがむしゃらに応募し続け、大手の出版社からプロとして本を出すことが決まった日のことは、今でも忘れない。あれほど強い喜びの感情がこの世にあるだなんて、わたしは思ってもみなかった。世界のすべてが美しく見え、自分の未来に暗雲などひとかけらもないような気がしていた。


 気がしていただけだったのだ。


 「あまり、大げさなことにしない方が身のためですよ。僕のじゃない。あなたのですよ」


 と藤島は言った。わたしの、担当編集者。たまたま、他に誰も家にいない日だった。藤島は、わざわざわたしの家に原稿を取りに来て、


 「ここを、もう少し……」


 なんて言われてうっかり顔を近づけたわたしを、居間の床に押さえつけた。口を塞がれていたが、大声で悲鳴を上げても誰も来なかっただろう。わたしを語るもおぞましい目に遭わせた藤島は、理性はないくせに知恵だけは人間並みに持ち合わせていた。


 かつては世にいう美形で、中年に片足を踏み入れた今でも女に不自由したことはなく、社内でも紳士的な男だと女性陣からは人気があると聞いていた。本当だとしたら、よほどうまく本性を隠しているに違いなかった。息を乱した藤島は、ニヤニヤ笑いながらわたしを見下ろし、携帯電話を向けて、写真を何枚か撮った。


 「あなたは、デビューしたばかりの新人さん。出版社の機嫌を損ねたら、せっかくのデビューも水の泡だ。かたや、自分で言うのもなんですが僕は編集部の期待の星ですからね。……僕が言っている意味は、分かりますよね? まあ、この写真がある限り、馬鹿なことはしない方がいいでしょうね。それに、僕は男としてはかなり優秀な部類だと自負していますよ。悪くなかったでしょ? 」


 あの忌まわしい日のことを、わたしは今でも忘れない。生涯、忘れられはしない。


 わたしは混乱し、自力で病院には行ったが、事件そのものについては誰にも相談できなかった。絵本作家なんてものになるからだ。他に誰もいないのに、家に男を上げたりするからだ。そんなふうに失望され、なじられ、傷つけられるのが怖かった。


 だが、じきに家族はわたしの異変に気がついた。ちょっとのことにビクビク反応したり、突然泣き出したり、ものを食べられなくなったり、逆に一度に食べ過ぎたり、食べたものを全部吐いたり、そんなことを繰り返していたせいで。


 両親も弟も、芸術家にありがちな〈生みの苦しみ〉が我がやの作家にも現われはじめたのかと最初は思ってくれていたが、そのうち母がどうやらそうではないと見抜いた。わたしが小さな子どもに戻ったかのように、父や弟がいないときを見計らって、優しく何があったのかを聞き出そうとした。何度も吐きそうになりながら、わたしはようやくすべてを打ち明けた。


 わたしが恐れたような迫害は一切なかった。母も、母から話を聞いた父と弟も藤島のしたことに激怒し、わたしを慰め、おまえは何も悪くないのだと言ってくれた。わたしの話を聞く前は穏やかだった母は一転、かつて見たことがないほど怒っていたが、父と弟の怒りはさらにすさまじかった。彼らは対決の意思を固く抱き、ためらうわたしを宥めすかして、藤島の悪事を世に知らしめることを決めた。


 証拠はすでにあった。事件後わたしが受診した病院には、藤島の体液が採取され、保存されていたのだ。


 混乱し、朦朧としたような状態でよくまともに診察を受けられたものだとわたしは思っていたが、ほとんど白昼夢のような現実味のない意識下での行動にはやはり穴が多く、わたしは医師や看護師の話を右から左に受け流していたらしい。これはまず日を置いた方がいいという病院側の判断と配慮によってきちんと保管されていた薄汚い体液が、藤島を窮地に立たせることになった。


 だが、ここで藤島を救ったのは、他ならぬわたし自身だった。家族の気迫ほど、わたしの心は回復してはいなかったのだ。むしろ、父や弟が燃えるほど、わたしはその後ろで自分がどんどん小さく縮んでいくような気がしていた。


 藤島を完全に罪に問うまでには、まだまだやらなければならないことがある。何があったのかを見ず知らずの人々に明らかにしなければならないし、被害者がわたしで、加害者が藤島であることを明確にしなければならない。警官に事情を説明している最中に言われた一言がわたしに影を落とし、勇気を出さなければと思えば思うほど、わたしは動けなくなった。


 「あなたから誘ったっていうわけじゃないんだよね? 」


 写真って言ってもねえ、そういう写真を撮らせちゃう人、いるんだよねえ。あとからばら撒かれて困るのは自分だっていうのにさ。警官は、わたしもそうだと言わんばかりの口調で咎めるように言った。


 感情を証明する手立てなど、ない。嫌だった、やめてほしかった、逃げたかった。でも、できなかった。被害者はそう訴える。


 そんなつもりはなかった、向こうから誘われた、合意の上だった。一方で加害者がこう訴えるとき、仮定の被害者と加害者の証言は、天秤の支配する司法の場において同じ重みしか持たないのだ。証拠はあっても、それは特別なものではない。合意があろうとなかろうと残るものだった。


 わたしは辛かった。早く、この話を終わらせることばかりを考えるようになっていた。もう、同じことを聞かれたくない。思い出したくない。話したくない。


 わたしは、示談を受け入れた。



 藤島が期待の星というのは、嘘ではなかったらしい。出版社は藤島が脅してきたようにわたしへの依頼を打ち切ったりすることはなかったが、藤島を辞めさせることもなく、担当が別の編集者に代わっただけで、藤島には大した処分は下らなかったようだ。


 藤島は編集部からはいなくなったが、わたしが原稿を持って出かけていくとわざわざ自分の新しい部署から出てきて、あのニヤニヤ笑いでわざとわたしの視界を横切っていくのが楽しいらしかった。


 今度、またどうですか? 


 すれ違いざま、囁かれたことも一度や二度ではなかった。怒り狂う家族をよそにわたしが示談を受け入れたことが、彼の中では自分のことも受け入れたというのと同義だったらしい。


 何度目かにそう声をかけられたとき、わたしはそれを了承し、何日後かに約束を取りつけた。わたし自身がどんな顔をしていたかは、さだかではない。もしかしたら、少しほほえんでいたのかもしれない。少なくとも、藤島はそのときわたしが考えていたことを、その〈優秀な〉頭では微塵も理解していなかったに違いなかった。


 父には、話を通してあった。約束の日、わたしはバーのカウンターに並んで座った藤島に猫なで声ですり寄り、彼が席を立ったのを見計らって彼の酒に睡眠薬を入れた。酔いが回りはじめるのを狙って入れたから気づかれることもなく、疑いもせずに彼は薬入りの酒を飲み、それにどんな意味があるのかを考えもしないうちに意識を失った。


 わたしは父に連絡を入れた。父がわたしを迎えに店に入ってきて、娘の連れが情けなく寝入っているのを発見する――何も知らない人の目から見たら、間違いなくそう見えたはずだった。


「まったく、なんてやつだ。おまえも、付き合う男は選びなさい。いつかうちに連れてくることになるかもしれないんだから」


 父が口だけでわたしを叱りながら藤島を抱え上げる。


 「ごめんなさい。でも彼、普段はそんなにだらしない人じゃないのよ」


 わたしは会計を済ませ、後をついていく。父が彼を車に押し込み、手足と口を縛り上げる。


 実に簡単だった。


 しばらく車を走らせ、目的地に到着し、準備が完了しても、藤島は目を覚まさなかった。わたしたちは、裸に剥かれて両手足を四本の木に結び留められてもまだ眠りこけている藤島が目覚めるのを、彼を見下ろしながら待った。手間を考えれば眠っているうちに先に進めてもよかったが、これからのことを考えれば、何時間でも待つ価値があった。


 しかし、さすがに朝が来てしまってはこちらの分が悪い。この男は、一体どこまでわたしたちに迷惑をかければ気が済むのだろう? わたしは彼が目を覚ますまで、彼の太ももを蹴り続けた。


 藤島は、最初のうちこそ痛みに顔をしかめ、寝ぼけ眼だった。しかし、そのぼんやりした目を擦ろうとした手が自由にならず、自分の置かれている状況が分かって、酔いも一気に醒めたらしかった。


 「なんだ、これは! 」


 藤島は怒りと狼狽で青ざめながら喚いた。


 「何なんだ? 何をしてるんだ? こんなことをして、どういうつもりだ? 」

 「あなたがそれを言うの? 」


 わたしの声は、少し震えていた。しかし、もう彼は目覚めてしまった。引き返すことはできない。


 藤島は何かを察したらしく、わたしをなじりはじめた。


 「この淫乱女! 自分で誘ってきたくせに、こんな目に遭わせやがって! あんなこと、いつまで気にしてやがるんだ! これ以上面倒なことをしたら――」


 父が唸った。わたしを罵るのに夢中だった藤島は、左足に振り下ろされるまで、父の手に鉈が握られていることに気がつかなかったらしい。


 二、三回で十分だった。藤島は悲鳴を上げたが、もうどうしようもない。切り離された左足は、左脚が縛られている木の幹に釘で固定された。


 右足と両手が同じ運命を辿る間に、藤島はついに論調を変えた。悲鳴まじりにわたしたちに向かって許しを請うていたようだが、残念ながら土壇場の懇願はわたしたちの耳には入っていなかった。人間の体とは、これほど頑丈にできていたのか。弾力のある筋肉に、脂肪、そして固い骨。父も汗だくだったが、わたしは父との力の差から手間取り、余計に時間がかかった。その分藤島の苦しみが長引いているという一点だけが、わたしを励ましていた。


 藤島は壊れた警報機のように悲鳴を上げ続けたが、そのうち喉が潰れ、声は枯れて、涙と鼻水とよだれでぐちゃぐちゃになった顔を力なく動かしながら、聞き取れない声で何かを言うしかなくなった。


 もうまともに口を利けもしないだろうが、どんなに大声で助けを求めても無駄だ。藤島がわたしを襲ったとき、わたしに助けがやってこなかったように。


 血が流れ、藤島は次第に弱っていったが、まだ生きていた。わたしは目を背けながら藤島の性器を地面に釘打ちした。父は、このときだけは後ろを向いて耳を塞いでいた。女のわたしですら、直視はできなかったのだ――さすがに、憎しみが一瞬凌駕された。


 藤島は体を引きつらせたが、ショック死するなり気を失うなりしてこの仕打ちから逃げることはできなかった。女を襲うようなやつだ。生命力は人一倍あったのだろう。


 わたしはぜいぜいと荒い呼吸を繰り返す藤島の顔に、ハチミツを塗りつけた。労わるように、丁寧に。余すところなく。血と汚物、そしてこの蜜の臭いに惹かれて集まってきた虫たちに、藤島はもしかしたら、生きながらにして食い荒らされるのだ。一方で、父は藤島の携帯電話を奪い、画面が粉々になるまで叩いた。


 すべてが済んだあとで、わたしはこのために作ってきたパネルを取り出し、藤島の頭のそばにある木に留めた。美術館や博物館にある展示品の説明書き――あんなイメージだ。


〈強姦魔………ヒト科に属するが、ヒトを人たらしめる理性と良心の欠落による他者への加害行為は獣にも劣る。「男性」(時に「女性」)に擬態し、人間の女性、または男性に被害を与える。また、〈痴漢〉などとともに一般の男性に対する社会的印象の悪化に貢献している。〉


 わたしは父とともに来た道を戻りながら、いつか罪が暴かれる日が来るのに恐怖した。老年に差し掛かりつつある父に人殺しの片棒を担がせ、誠実であり続けたその人生の終わり近くに恐ろしい汚点を残させたことを謝りたかった。


 だが、わたしはやらなければならなかったのだ。これでもう、あの男から同じ目に遭わされる女性はいなくなる――復讐心が萎えかけ、手が何度も震えた。それでも、やめるわけにはいかなかった。


 あいつは、反省しなかった。呟いた父の声が、わずかな達成感を守っていた。

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