第2部 久子は語る (3) 移民の生活(想い出)
第3章 移民
国策に沿って1908(明治41年)6月18日、ブラジルサントス港に日本移民が初め
て上陸した頃には既にコーヒー農場の景気は非常に悪くなっていました。
移民の最盛期(1925~1941年)には、3人以上の働き手を持つ家族であれば日本
政府が渡航費として1人につき7ポンド(70円)の補助金を出すということで約15万
人の人が海を渡りました。
私の両親も丁度この時期に移住しました。当時の移民は誰もが〈数年で儲けて帰
る〉と思っていました。〈まさか10年も20年もいるつもりで来た移民なんていない
よ〉とも言っていました。だから両親はポルトガル語を話そうともしなかったし覚
えようともさえしなかったのでしょう。
思い起こすと、とてもとても貧乏な暮らしでした。サンパウロは広大な土地です。
その山奥の石ころだらけの、作物もろくにできなかった所で父や母は働き始めま
した。私が10歳くらいになった頃、両親と一緒に畑で作ったキュウリ、トマト、
キャベツなどの野菜をリヤカーに積んで市場に売りに行ってからは、ようやく人並
みに生活ができるようになりました。そんな中祖父母や両親兄たちは久子がいる
とパッと家の中が明るくなると言ってくれました。
でも12歳の私の誕生日に、4人の兄の中の2人が池にはまって同時に亡くなってし
まいました。家から2つの棺が出たのです。母の嘆きといったらありませんでし
た。それから家は灯が消えたようになりました。いくら明るい私でもどうしようも
ありませんでした。毎晩毎晩仏壇の前に座らされ、阿弥陀経を唱える母の傍でコ
ックリコックリしようものなら一番上の兄にパシッと叩かれました。
それが丸3年も続きました。(第3章 終)
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