第1部 (5章) 久子、工場長に挨拶に行く (6) 一夫ブラジルに(最期となる)電話をする
第5章 久子、富士田工場長に挨拶に行く
久子は、以前一夫が「でもやっぱり妻子と一緒に日本にまた来て働きたい
と言っていた。それは今回はブラジルに帰る。けれどもブラジルよりは
やっぱり日本の方が安心して暮らせるから。その時はアパートの保証人にな
ってくれると富士田工場長が言っていた」というので、11月5日の仕事帰り
に久子は工場長の所に出向き
「再来日した時には一夫一家をよろしくお願いします」と挨拶をした。
ところが久子はその時の工場長の浮かない顔が気になりその対応を不審に
思った。
「また戻って来い」と言ったのは工場長ではなかったのか。
白樺砕石工場に勤務する他の日系人(ペルー・イランの人たち)の中に
は、工場敷地内の宿舎とは別にアパートを借りている人もいた。その保証
人は工場長であった。これは単身者のみであり、家族でアパートを借りる
という例はまだなかった。そのやり取りを例の’ こわい人’ が事務所の外
でずっと聞いていたのに久子は気が付いた。
一夫は久子に「何を話したのか?」とあまり元気のない声でたずねた。
久子が「一夫がまた日本に戻ってくることに乗り気ではなかったよ」と伝え
ると、一夫は工場長のすげない態度にがっかりしていた。(第5章 終)
第6章 ブラジルに電話をする
11月4日の久子と一夫の会話である。
「一体何があったの?」と訊ねると、一夫は「何もない」と返事した。
「私に対して怒っているの?」
「ウウン」
「あの人の態度はどうなの?」
「相変わらず無視しているから僕は自分の仕事をしているだけだ」
「我慢できる?」
「大丈夫、我慢できる」
11月4日の夜、一夫はブラジルの妻、弟、妹に電話をしたという。
久子が持病のせいで手の痛みがひどく、おふくろの味をふるまってやれなかったこの1か月は、大体夜7時から10時頃に必ず電話をかけてくれていた。
久子に最後の電話をしてくれたのも11月4日、死ぬ2日前だったことを思い出した。
「今ブラジルに電話をした。妻と子、二郎と真由美にも。みんな元気か?
お土産は何がいいか?」と聞いたという。その時
「真由美には車で聞けるカセットにしよう。カセットデッキは二郎に、釣り竿はお舅さんに、妻と子供にはまだ思案中だ」と言っていた。
これが一夫の家族との最後の別れの電話になった。
11月5日の夜、一夫はカッちゃんと二人で知っている限りの歌を片っ端から一夫のギターに合わせて歌ったのだ。
それはとても賑やかで楽しい夜だった。
こうして一夫は11月6日、ブラジルに妻子を残して二十四年の生涯を閉じた。
(第6章 終)
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