第2話
◇
その日は雨が降っていた。元々、降ると予報されていたそれは、夕方過ぎから夜にかけてだったはず。しかし、どうやら早めに降ったらしい。
私はいつも通り、駅の柱に身を寄せながら酔いが退くのを待つ。同時にスクールバッグへ手を伸ばし、漁った。常に持ち歩いている折り畳み傘。狭いカバンの中を我が物顔で占領するそれが、ようやく日の目を見る時が来たらしい。高校生に上がると同時に新調した傘は、まだ穢れを一つも知らないウブな姿をしていた。
あと五分。あと三分。あと一分。
視界の端に彼女が映った。いつものルーティーンを済ませて、その場を去る。あぁ、今日も声をかけられずに終わるのか。ため息を漏らす。そんな日々の繰り返し────だと思った。けれど、その日は違った。つま先を地面に一度、トンと弾ませると恨めしそうに雨を溢す曇天を眺める。困ったような、しかし不機嫌な顔を横目で見た。口をへの字に曲げ、眉間に皺を寄せた彼女。
あぁ、傘を持ってきてないのだな。だから、予想外の雨にどうして良いものかと悩んでいるのだ。と、そこまで考え、私はハッと自分の手の中にある救世主に目が釘付けになった。購入してからまだ一度も開かれていないそれを握りしめ、息を吸い込む。
次は、私が彼女を助ける番だ。
「あの」
「……なに?」
彼女は私の声に、目をまんまるとさせ、やがて抑揚のない声で返事をした。古い駅内には、激しい雨音が響いている。
「か、傘がないなら、あの。一緒に入って、いく?」
私は絡まる舌をなんとか動かし、彼女へ告げる。屋根に当たる雨が私の心臓の音を表現しているようだ。
「どうも」。彼女が短くそう答え、私の隣にピッタリとくっついた。そんな行動にいちいちびっくりしながら、私は傘を広げた。折り畳みの傘が、ゆっくりと骨を広げていく。その姿はまるで空に飛び立つ前の鳥が、大きく羽を広げる様子に似ていた。
一歩踏み出す。雨が傘へ落ち、パラパラと音を奏でた。
「あのっ」。私は前のめりになりながら声を漏らす。隣を歩いている彼女は、不思議そうに私を見ていた。今しかない。あの日のお礼を言うのは、今しかない。私は額に汗を滲ませながら口を開く。
「あの日は、ありがとうございました」
私の言葉を察したのか、彼女がスクールバッグを持ち直しながら「あぁ……」とひとりごちた。エメラルドグリーン色の熊が揺らめく。「もう、記憶から消えてた」。パンツを丸出しにしていた女に気を利かせたのか、小さく呟く。彼女の優しさが身に沁みた。
「どういたしまして」
口角を上げ、静かに笑った彼女に見惚れた。パラパラ。おろしたての傘を雨が弾く。緩やかに流れる水は、地面へ落ちていった。
「あの、えっと……」
私は彼女のカバンについた熊を指差す。
「そのキーホルダー可愛いね」
カラカラの喉から絞り出した言葉が、いまだに口の中に違和感を残す。何度も頭の中で繰り返したセリフなのに、声に出すと妙に演技かかっていて歪だった。彼女はというと、自身のバッグについている熊を見つめ、一言「これって可愛い?」と聞いた。「え?」。素っ頓狂な声をあげる。好きな色とデザインだから買ったのではないか? 私は首を傾げた。
「私、五月生まれなんだ」
「へ、へぇ」
「よくあるじゃない? 誕生石をモチーフにしたぬいぐるみ。五月の誕生石はエメラルド。だから、この熊はエメラルドグリーンなんだ」
確かによくそういうのあるよな。私は自分の誕生月のことを頭に浮かべた。私の誕生月は九月。だからサファイアだ。どんな色と形をした石なのだろうか。宝石に詳しくない私はぼんやりその色と形を想像した。
「でも、私の好きな色は紫。だから、あんまり可愛いって思えなくて」
彼女は熊を指先で弾きながら、唇を尖らせた。そんな姿が可愛くて肩を揺らし笑った。笑い声と雨音が、まるで愉快げな楽器のように共鳴する。ふと、彼女が息を吐き出した。
「あー良かった。君と話せて」
彼女は抑揚のない声音と冷たい表情をしていたが、しかし。その雰囲気はどこか浮ついていた。
「実は、ずっと話したかったんだ。ほら、君っていつもあの駅の柱に寄りかかってるでしょう」
飲み込もうとした唾液が喉を通らず、詰まる。彼女が私を気にしていてくれたなんて。自分ばかりが彼女を想っていたのではないと知り、唇を舐める。
「ほら、あの日。すごく恥ずかしい思いをしただろうから。もう忘れたのか、聞きたくて」
彼女が、目を伏せ照れくさそうに呟く。雨音が、耳をとめどなく弾いた。
「ところでさ、君はいつもあの柱に寄りかかっているよね? なんで?」
私は、どうして柱に寄りかかっているのかを話した。車酔いのこと。バスから降りて五分、彼女の到着を待っていたこと。スクールバッグについているエメラルドグリーン色の熊があまり可愛くないなと思っていたこと。
そして、こう続けた。彼女とずっと話したかったということを。
[百合]雨、傘、君 中頭 @nkatm_nkgm
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