[百合]雨、傘、君

中頭

第1話

 あと五分。あと三分。あと一分。

 視界の端に人影が見えた。隣に立った彼女が時期に暗くなっていく空を見上げ、つま先をトンと地面に弾いた。肩にかけていた学校指定のスクールバッグを持ち直し、まるで軽やかな馬のように小走りで去っていく。駅のホームから消える薄い背中と揺れる黒髪。翻る膝丈のスカートをぼんやり眺め、今日も声がかけられなかった自分を、内心叱咤した。



 彼女との出会いは高校生になった頃。

 高校に上がり、私は登下校でバスを利用するようになった。妙に揺れるバスは自宅の車と大いに違い、とてもじゃないが乗り心地が良いと呼べるものではなかった。まるで地鳴りのように座席から伝わる振動は、私の体内全てを意地悪くシャッフルする。「もうやめてくれ」。私は何度、その言葉を吐きそうになったか。込み上げる胃液と、額に滲む冷や汗は、周りにいる乗客には伝わらない。私はただ、目的の場所へ早くついてくれと祈るばかりだった。自宅の最寄り駅で乗り、学校付近のバス停で降りる。学校付近のバス停から乗り、自宅の最寄り駅で降りる。その繰り返しをほぼ毎日経験しても、私の体は慣れなかった。

 到着したというアナウンスは、私にとって拷問から解放されるための呪文のようだった。力の抜けた体をなんとか引きずり、駅内へ向かう。田舎特有の寂れた駅は、もうほぼ学生たちしか利用していない。

 私は毎回、下校したら必ず駅の出入り口の柱に身を寄せ、そこで一息つく。こんな草臥れた柱、いつ崩れてもおかしくない。身を寄せたら、折れてしまうかも。ぐわんと揺れる頭の中で、そんなことを考える。目を瞑り、息を整える。大きく息を吸い、酸素で肺を満たす。徐々に体調が良くなり、込み上げる吐き気が治った。

 真横を、他学校の生徒が通り過ぎていく。私が乗るバスが此処へ到着して、数分後に電車が到着する。鉄のかごの中に乗った若鳥たちが、まるで放たれたように駅から出ていく。

 不意に後ろで笑う声が聞こえた。振り返ると、自分と同じ歳ぐらいの男子生徒が三人いた。こちらを見て、ニタニタと下品な笑みを浮かべている。私はなぜ笑われているか分からず、視線を外す。


「失礼」


 臀部を触られた。鋭い悲鳴をあげ、体を揺らす。声のした方へ顔を遣ると、そこには涼しい顔をした女の子がいた。制服を身に纏った彼女は、私よりほんの少しだけ背が高かった。スカートの裾を払われ、目を見開く。「余計なことすんなよな」。後ろで不貞腐れた声音が聞こえた。戯れていた男子生徒が、バツが悪そうに舌打ちをしながら駅内から去っていく。その後ろ姿を隣に立っていた女の子が鋭く睨んでいた。


「あの」

「スカート、捲れ上がってた」


 彼女はなんてことないようにそう言った。男子の笑い声、彼女が臀部を触った事実。全てを察し、顔が真っ赤になる。同時に全身に汗が滲んだ。パクパクと口を開閉させている私を見ず、彼女が続ける。


「明日にはみんな、忘れてる」


 もう一度、「明日にはみんな、忘れてる」と呟く。だから、恥ずかしいのは今だけだ、と暗に告げている彼女はそのままパッと走り去っていく。私はポカンとしたまま、彼女を見つめた。

 ────派手な色の、熊。

 どうでもいいことが、頭をぐるぐると回った。彼女のスクールバッグについたエメラルドグリーンの熊が目に焼き付く。キーホルダーの金属がぶつかり合い、カチャカチャと音を奏でていた。そんな色の熊なんて存在しないだろ。と、変なツッコミを入れながら、体に帯びた熱が徐々におさまっていくのを感じた。



 あと五分。あと三分。あと一分。

 彼女が隣に立った。いつものルーティーンのようにつま先を地面へ弾き、去っていく。私はいつの間にか、彼女の登場を待つようになっていた。いつも通りの時間。いつも通りの涼しい顔で。いつものように軽やかに去っていく。あの、えっと。この間はどうもありがとう。その言葉がいえず、私は彼女の背中を見送りながら、届かない手を翳す。彼女はもう、私のことなど忘れているかもしれない。声をかけた途端、きょとんとした顔でこちらを伺う彼女が安易に想像でき、唇を噛み締めた。

 「ねぇ、その熊のキーホルダー可愛いね。どこで買ったの?」。肩を叩きながらそんなことをすんなりと伝えられたら、どれだけ良いか。別に特別興味なんてない。エメラルドグリーン色の熊なんて。私はスタンダードな焦茶色の熊が好きなのだ。あんな奇抜な色の熊、欲しくない。けれど、彼女はきっと好んでつけているに違いない。だから、そこを突破口に話を進めたらいい。そうしたら、あとは簡単だ。「あの日のこと覚えてる? 私、あなたに助けてもらったの。お礼が言えてなかったよね、ありがとう」。そんなスマートなやり取りをしてみたい。けれど私には無理だろう。私は学校でもパッとしないタイプだし、車にはすぐ酔っちゃうし、スカートが捲れていることに気がつかないほど鈍臭いし。

 彼女に助けられた日を思い出す。まるで突然現れたヒーローよろしく、私を助けて素早く去っていった。感謝の言葉も求めず、彼女はただそれが当然の如く、凛とした佇まいで。

 「私には、きっと無理だろうな」。無意識にひとりごちる。彼女に話しかけるのも、彼女のように人助けをすることも。

 大きなため息を漏らし、柱に寄りかかっていた体を起こす。すっかり覚めてしまった酔いの残り香と共に、帰路へ着いた。

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