殺意に満ちたその場所で

大神祐一

プロローグ

『あの蒼い空の向こうに天国というところがあって、自由に空を飛べたら会いに行けるよ』

 その言葉が今も胸の中に消えずに残っている。


 狂ったような時間に、手招きする風が吹く。

 羽の無い私を誘うが。

 飛びたい。不可能な事と知りながらも、それでも――。 


 痛みを癒すのは、麻痺か? 疲れ? 時間?

 それともそれ以上の強い痛み?


 長い時間泣いていた。強烈な頭部の痛みに耐えきれず、うずくまって泣いていた。許容範囲を超えた消えない激痛に、ただただ泣くことしか出来なかったから。

 

 声を出すことも涙を流すことも疲れ果てて、窓から見える外を眺めていたのはいつ頃だったのだろう?

 窓にうっすらと映った私の顔を見た時に、衝撃よりも「やっぱりな」という気持ちが強くて、冷静に外を眺めている自分がちょっと不思議だった。

 すでに空は朱く染まっていた。カーテンの隙間から橙色の光が差し込んでくる。

 外は、グランド整備をしている野球部の人たちが、家に帰るために一生懸命に動いている。

 当然のように誰もが帰ろうとしている。

 この教室には私しかいない。


 落ちたい。

 重力に全てを任せて。この窓から、知らない世界へ。

 それなら簡単に終わる。腐った林檎が落ちた衝撃で砕け散るように。


 刻まれ続ける。我慢によって上書きされる苦痛の痕跡。


 この空き教室の中だけが悪夢の中みたいに現実離れしている感じがして、だから、外の様子を確かめたくて、眺めていたのかもしれない。

 寂しいからなのか、ただ飛んでみたかったのか。


 夢とは違う現実、でも悪夢みたいな今、そしてこれからの未来は、中途半端に壊れてしまった。

だから残したいとは思えずにいた。


 いつもの日常生活は、蜃気楼のように掴めなくなってしまった。

 下校中して家に帰るだけだったのに……。

 いつも通り夕食を作って、食べて寝て、夢を見て、それを残して――、なのに、先輩に呼び止められ、この場所に連れてこられてから何もかもが変わってしまった。

 笑ってしまうぐらいに。


 カーテンを血に染め、床に血をこぼして、涙をこぼして。右半分を薬品に潰され、希望も願望も潰されて。その時からの痛みが長い時間私に居続けている。

 残された自由は、自分で、自分自身の意思で、私を終わらせることだけ。

 もうそれしかないから……。


 何よりこの世界には、もう居たくない。


 見えた鳥は自由に見えた。

――何故自由に見えるのだろう? 勝手な思い込みなのかもしれないのに。飛べるからといって、重力の束縛から解放されるわけでもないのに――。

 ただあの言葉が、自由に泳ぐ私を、連れていってくれると信じたいだけ。


 痛みをこの身から切り離す。

 この世界から私を切り離す。

 過去も未来も私は、もういらない。


 教室の窓側を線とした内側と外側の境界線。

 向こう側は願望を込めた自由の世界。

 お腹が空いた。喉も渇いた。

 だけどその欲求すらこの話所に置いていこう。

 この傷を癒すそれ以上の強い痛み。一瞬の激痛が永久に続くであろうこの痛みをかき消してくれるから。


 怖くはないよ。向こうにはお母さんがいるから。

 

「さようなら」


 ……お父さん、……おにいちゃん、

 

「ごめんね」


 生きる証を書き綴った『夢メモ』を大事に抱え、私は境界線を超えた。

 思ったより簡単に、躊躇することもない。

 怖くもなければ嬉しくもない。


 からっぽだった。体重も心も消してしまったように。

 私に羽はない。

 空気を集める力は無くても、それでも風を纏い、逆さまの校舎を急スピードで追い越していく。真上に飛ぶように、頭から下へ落下する。

 だけど、速度が増していはずなのに、反比例するように地面が近づく感じは緩やかにゆっくりと、徐々にコンクリートの地面が大きくなる。


 その時一人と目が合った。


 一階の窓付近にいたその人と。もう地面に接触する直前のこと。

 私は笑顔でその人を見た。

 犯人の一人を、私を呼び出したヒト。


 何秒か時間が停止した。誰かがストップウォッチを押してくれたのかもしれない。

 空中で停止した私を、恐ろしさで歪んだ顔に微笑みかける。

 単純に嬉しいと思った。これで少しは返せたかな。

 私は笑った。

 許される限り、大声で笑った。久々だったと思う。それはもう心の底から、ワラッタ。

――最後の瞬間まで。

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