第3話 悪魔③
◇
六限目の授業が終わり、生徒たちが雑談と帰宅をはじめる教室のなかで、琉希は慌ただしく帰りの用意を整えた。
カラオケでも行こうぜー、と誘ってくる友人に「悪い。今日はパス」と手を振り、急ぎ足で教室の出口に向かう。
「んだよ。まだ体調悪いんか? ま、いいや。んじゃまたなー」
友人の言葉を背中に受けながら、琉希は廊下の様子を窺った。問題の人物の姿がないことを確認して、階段へ向かう。
ぐずぐずしていたら、また妻木と顔を合わせかねない。これ以上、あの頭のおかしな同級生に関わりたくなかった。
一階まで駆け下りて急いで靴箱に向かい、校門へ。大勢の生徒たちが下校する、その隙間を縫うように正門を出て、
「――――」
校門の柱の横に立つ誰かが視界の隅を掠めた。
琉希は意識してその事実を無視すると、さらに足を進めた。駆け出すまではしないが、ほとんど競歩じみた勢いで帰宅途中の生徒たちを追い抜いていく。
途中で駅に向かう流れから離れ、海浜公園へ向かう方向に曲がる。琉希の自宅があるのは海側で、公園の近くだった。
そのあたりの一帯は住宅街になっているから、そちらへ帰る生徒の数も少なくない。何人かの知り合いから声をかけられたが、琉希はおざなりな返事をかえすだけだった。
――そのあいだ、ずっと背後に誰かの気配を感じていた。
足音はない。声もかけてこない。もしかしたら、気のせいかもしれない。だが、琉希は後ろを振り返ることをしなかった。
信号が赤になり、足を止める。
歩道の向こうに警察署が見えた。奥には消防署が続いている。それを見て、琉希は一瞬なにかを思いつきかけた。が、それがはっきりと思考となって固まるのを遮るようなタイミングで、誰かが琉希の隣に並んできた。
「…………」
琉希は横目でその人物を睨みつけた。妻木が薄く笑んでいる。
信号が変わり、琉希は歩き出した。隣に並んだまま、妻木もついてくる。
しばらくすると、歩道橋の前に着いた。違う道を選ぶこともできたが、琉希はそうしなかった。
階段を上り、真ん中あたりまで来て、足を止める。
「――それで? これは、嫌がらせかなにか?」
琉希の隣に自然と並んだ少女が首を傾げた。通行人の邪魔にならないよう端に寄りながら、くすりと微笑む。
「嫌がらせって、なにが?」
「なにがじゃないだろ」
怒気を荒げたくなるのを自制しながら、琉希は相手を睨みつけた。
「わざわざ正門前で待ち伏せまでして、嫌がらせじゃなかったらなんだってんだ。それとも暇なのかよ」
暇。と呟いてから、妻木は小さく頷いた。
「そうかも」
「はあ?」
ふざけんな。激高しかける琉希にかまわず、妻木が続けてくる。
「昨日までは、ね。そうだったかも」
彼女は手摺りに手を置いて遠くをみやる。
その横顔に、琉希はふと違和感を覚えた。
変化に気づく。妻木の前髪がぱっつんでなくなっている。短いなりに整えられた毛先が風に吹かれていた。
だが、琉希の感じた違和感の正体はそれではなかった。
「ねえ。昨日のわたし、ここから飛び降りようとしてるように見えた?」
「……違うのかよ」
琉希は彼女が、せっかくの自殺気分を止められた意趣返しに嫌がらせをしているのかと考えていた。
妻木は困ったように、
「どうだろ。死にたかったわけじゃないとは思うけど。でも、ずっと考えてた」
「考えてたって、なにを」
「死ぬことを」
さらりと妻木は言った。
「死ぬとどうなるんだろうとか。死ぬならどうしようとか。どういう方法が死にやすいかとか。痛いのかな、とか。天国ってあるのかな。地獄って怖いのかな。魂ってどうなるんだろ。生まれ変わりってあるのかな。輪廻転生ってなに? 毎日、そんなことをずっと考えてた。……そういうのって、須々木くんは経験ない?」
「……知るかよ」
須々木は吐き捨てた。ほんの僅かでも、相手に共感されたと思われる余地を与えるつもりはない。
妻木はくすりと笑って、視線を流した。遠くを見るようにしながら、
「いつぐらいからかな。ずっと死ぬことについて考えてて、考えて、考えすぎてよくわからなくて、それでも考えて。だから、もしかしたら、そのうち本当に死んじゃってたかも。事故みたいな感じで。誰かに声をかけられるとか、そういうきっかけで」
琉希は顔をしかめた。
相手が語った内容というよりその饒舌さに驚いていたが、言っている内容も共感できるようなものではなかった。
「……よっぽど暇だったんだな」
「うん。そうかもね」
「それで? 今は暇じゃないって?」
妻木の視線が戻り、琉希を捉えた。
「だって、昨日、言われちゃったから。『――はい。これでもう、あなたは死ねなくなりました』って」
眼差しがひたりと見据えたまま、
「死ねないなら、考えてたってしょうがないでしょ? 死ぬときに、死ぬだけなんだから。だから、それについて考えるのはもう止めたの」
「……ああ、そうかよ」
「だから、死ぬこと以外のことを考えるようにしたわ」
妻木は琉希を見つめている。
琉希は目の前の相手が持つ違和感の正体に気づいた。
昨日の彼女とは決定的に違う根本にあるもの。今、琉希を見る瞳にはなにかの意思が秘められていて、その色はひどく不吉な輝きを伴っていた。
「……須々木くんは好きな人いる?」
急に話題が変わり、須々木は顔をしかめた。
「いきなり、なんだよ」
「須々木くんのことが知りたいだけ。――将来の夢は? 進路ってもう考えてる? 昨日、あんな時間までどこに行ってたの? アルバイトとかしてる? 部活は入ってないの? 学校で一番仲がいいのは戸次くん? 他には誰と仲がいいの? カラオケではいつもなにを歌うの?」
琉希が止める間もなかった。
息を継ぐ間もないような勢いで、質問が続く。
「身長は? 体重は? 誕生日は? 血液型は、星座は? 占いって信じる? 血液型占いとか、星座占いのことどう思う? SNSは良くする方? 携帯電話はどこのキャリア? よく使うアプリは? ゲームとか好き? 好きな食べ物は? 野菜は好き? もしもこの世からひとつだけ消せるとしたら、なにを選ぶ? アレルギーはある? 犬と猫とならどっちが好き? ペットは飼ってる? 休日はなにしてるの? 運動は好き? 趣味はなに? 好きな映画ってある? 買い物は好きな方? 好きなお店はどこ? 旅行は好き? 一人暮らししたいと思う? 家族は何人? どうしてこの高校を選んだの? 得意な科目はなに? 苦手な科目は?」
壊れた蛇口のように溢れだす質問の洪水に、琉希は言葉もなかった。
「父親のことは好き? 母親をどう思ってる? 兄と姉、弟と妹のどっちが欲しかった? 親戚付き合いはある方? お年玉ってどうしてる? いままでで一番高い買い物は? 貯金ってしてる? 中学では部活していたの? 修学旅行はどこだった? 今も連絡とってる友達はいる? 初恋はいつ? 相手は男の子、それとも女の子? 告白はした? 初体験は済ませた? 自慰はどのくらいの頻度でするの? オカズはなにを使う派? お気に入りの女優とかいる? 自分のことは好き? 好きな色は? 季節はどれが好き? 好きなタイプは? 嫌いな人間はどんな人? パーソナルスペースは広い方? お風呂は朝派、それとも夜派? お風呂に入ったらどこから洗う? 朝起きて最初にすることはなに? 今までで一番ひどかった喧嘩は誰とした? 誰かを殺したいと思ったことはある? 神様って信じてる? どこからが浮気だと思う? 男女の友情って存在すると思う? 将来、結婚したい? 子どもは欲しいと思う? もしもなんでも願いが叶うなら、なにを願うと思う? ――どうして、悪魔に『なんでもいうことを聞かせられる権利』を願ったりしたの?」
最後にそんな言葉を投げかけて、質問は止まった。
彼女は琉希の返答を待っている。
――こいつは頭がおかしい。
心の底から戦慄して、琉希は改めて目の前の同級生をそう断定した。間違いなく、狂ってる。
「ねえ、どうして?」
「……知るか。ただの思いつきだろ。理由なんかあるか」
「そうなの? ……でも、そうじゃないかもしれない。わたしは、須々木くんが知らない須々木くんのことも、知りたいの」
こちらを覗き込んで来るような視線に、思わず琉希は目をそらした。
「頭おかしいんじゃねえの? ストーカーかよ、気持ち悪い」
「ストーカー。ううん、違うと思う。わたしは、須々木くんの迷惑になるようなことはしないから」
「ストーカーなんて、誰だってそう言うだろうよ」
「確かにね」
でも、と妻木は笑った。
「須々木くんの場合は違う。なんでも言うことを聞かせられるんだから、危害を加えないようにするのなんて簡単でしょう?」
それを聞いた瞬間、頭がかっと灼熱した。
無意識に動いた琉希の右手が目の前の相手の細首を摑む。力が込められ、指先が爪ごと柔らかい肌に食い込んだ。そのまま体ごと押し込み、歩道橋の上から突き落としそうな格好になる。かひゅ、と息が漏れた。
噴き出しそうな激情を抑えつけながら、琉希は相手を睨みつけた。
「……馬鹿にしてんのか?」
「馬鹿に、なんか……してないわ……」
首を絞められた妻木は顔を歪めながら、
「わたしを――ここから、落としても、いい。それで、あなたがどういう人か……わかるもの」
はっ、と琉希は吐き捨てた。
「結局、ただの死にたがりじゃねえか。手前の自殺に他人を巻き込むなってんだ」
「死にたがり? ……違う」
妻木は壮絶な笑顔を浮かべた。
「わたしは、あなたを……知りたい、だけ――」
その表情が、苦痛と、なぜかそれとまったく正反対のものが入り混じっているように見えて、琉希は生理的な嫌悪感を覚えた。
――吐き気がする。
手を離すと、咳き込みながら妻木がその場に倒れ込む。
「おい、君……」
恐る恐るといった表情で通行人の一人が声をかけてきたが、琉希が胡乱な眼差しを返すとそれ以上はなにも言ってこなかった。眉をひそめながらて去っていく。
足元では妻木がまだ咳き込んでいて、琉希は冷ややかな眼差しでその様子を見下ろしていた。
妻木が顔をあげる。
まだ笑顔を浮かべていた。目尻に涙を溜めながら、
「……けっこう、暴力的なのね」
青ざめた表情には朱が混じっている。
挑発にしか聞こえない言葉を無視して、琉希は妻木が自分の首を擦る手に注視した。目に見える範囲に自傷癖の類は確認できなかったが、
「――俺に言われたから、死ねなくなったって言ったよな」
「……ええ」
「なら、俺がそれを取り消したら、俺に関わらないでくれるのか?」
妻木はしばらく沈黙してから、頭を振った。
「……無理だと思う」
「なんでだよ」
「だって。もう、それについて考えるのがくだらないって思っちゃったから」
死ぬことについてだけ考えていた頃には戻れない。
相手が言外に告げてくる言葉を汲み取って、琉希は唸るように、
「だからって、別に俺以外にも、暇つぶしなんていくらでもあるだろ」
「例えば……?」
琉希は顔をしかめた。
「オトコつくるとか。スポーツやるとか、勉強とか色々だよ。趣味とかないのかよ」
妻木は答えない。
自分の言葉が相手にまったく響いていないことに、琉希は息を吐いた。
「じゃあ、ファッションとか。その前髪、整えたのは自分でやったんだろ?」
妻木は頭を振った。
「……クラスの子がやってくれたの。応急処置みたいなものだから、美容院にいったほうがいいって言われて」
まさか、そんな風に関わってくれる相手がいるとは思わなかったから、琉希は意外だった。これだ、と思う。
「明日は休みなんだし、美容院いけば? 髪切って、ちょっとオシャレでもしたら、顔はいいんだからさ。すぐに男が寄ってくるって」
彼氏ができたら、自分への執着もそちらにうつるだろう。琉希の思考は予想というより願望に近かったが、妻木はしばらく考えるようにしてから、こくりと頷いた。
琉希は息を吐く。
目の前の相手は理解不能で、気味が悪かったが、最低限の合意はとれた。あとは少しでも早く話を打ち切りたい。一時も同じ場所にいたくなかった。
「妻木さんの家って、どっち?」
「妻木でいいわ」
「……妻木の家は、どっちだよ」
妻木が指差したのは、琉希の自宅とはまったく違う方向だった。内心で安堵しながら、
「あ、そう。俺は反対」
「知ってる」
なんで知ってるんだよ――噛みつきかかった言葉を苦労して飲み込んで、琉希は頭を振った。
「じゃあな」
自宅へ向かって歩き出してから、ああ、と後ろを振り返る。その場から動かずにこちらを見ている妻木に向かって、
「週明け、学校で話しかけたりしないでくれよ。俺、あんたと仲良くなんかなりたくないから」
「……わかった」
ん、と頷いて歩き出してまた止まり、琉希は頭をかいた。振り返る。
「……あのさ」
「なに?」
「首、絞めたりして悪かった。ごめん」
「大丈夫、気にしないで」
妻木はにっこりと微笑んだ。
「嬉しかった」
――やっぱり、こいつとは関わっちゃいけない。
少しでも相手に申し訳なく思った自分に腹が立った。
琉希は帰路についた。そのあいだ、後ろは二度と振り返らないと決めていたが、自分の背中に向けられる粘ついた気配はずっとなくなることはなかった。
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