第2話 悪魔②
◇
一限目の休みのことだった。
琉希の席は教室の前方、廊下側の端にある。教室の喧騒を聞きながら、残りの休み時間を潰していた琉希は、開かれた窓の向こうからこちらを注視する気配に気づいた。
顔を向けて、ぎょっとする。
昨日の女子がこちらを見つめていた。
野暮ったい髪。長すぎる前髪の奥から、感情の窺えない眼差しを送られて、琉希はごくりと息を呑んだ。胸元に巻かれたスカーフの色が目に入る。
「……同い年かよ。なに、なんか用?」
まさか、自殺の邪魔をしたことの礼にでも来たわけではないだろう――内心で身構えていると、女子生徒は静かな眼差しのまま、
「ツマキサヤ」
と呟いた。
なんだそれ、呪文かなにかかと疑ってから琉希は気づく。
「もしかして、名前? ツマキさん?」
女子生徒はこくりと頷いた。
「へえ。どういう字なの」
彼女は答える代わりにスカートに手を入れて、なにかを取り出した。生徒手帳だった。
最初のページを開いて、突き出すように見せてくる。やけに用意がいいな、と琉希は内心で思いながら、
「――
妻木はにこりともしなかった。生徒手帳を開けたまま微動だにしない。
まだなにか見るべきものがあるのかと、琉希は改めて相手の生徒手帳に注視した。特に気になるところはなかったが、
「……前髪切ったほうがいいよ、妻木さん」
開かれたページに載せられた顔写真は間違いなく目の前の相手だったが、きちんとセットされているせいか、随分と印象が異なっている。写真うつりかもしれないが、街中にいれば大半の男の目を引くだろうくらいには美人に写っていた。
妻木はやはりにこりともせず、
「わかったわ」
短い返答。
そして沈黙が落ちた。
しばらく待ってから、相手が口をひらく気配がないことを琉希は理解した。仕方なく、自分から訊ねる。
「それで、俺になにか用?」
「――昨日、」
なにかを言いかけた妻木に被せるように、二限目の始業ベルが鳴り始めた。
口を閉じて、妻木はくるりと背中を向けた。そのまま一言もなく、恐らくは自分の教室へと戻っていく。
その後ろ姿を見送りながら、琉希は顔をしかめた。
「……なにあれ。こっわ」
◇
三限目の休み。席を立ち、小用をすませた琉希はトイレを出た先で自分を待っている誰かに気づいた。
目を見開く。
そこにいたのは妻木だった。
しかし、琉希が驚いたのは彼女がトイレの出待ちをしていたことではなく、
「――どうしたんだよ、それ」
妻木の長すぎる前髪が、ばっさりと切られていた。はさみを横に入れただけという雑さで、当然のように毛先も整えられていない。
「切った」
意味が分からなかった。
「切った? 学校で? なんで?」
「言われたから」
琉希は首を傾げた。
端的すぎる返答の意味に気づいて、目を見開く。
「はあ? もしかして、俺? 俺がさっき言ったから、前髪を切ったっての?」
「ええ」
事もなげに頷かれて、琉希は言葉を失った。
すっきりとした――すっきりしすぎた眼差しが、琉希を見つめている。
「どう?」
「どうって――」
琉希は二の句も告げず、相手を凝視した。周囲の視線に気づいて頭を振る。
「……妻木さん」
「なに?」
「とりあえず、あとで話そう。昼休み――メシでも食いながらさ。誰かと食べる予定は?」
妻木は頭を横に振った。
「じゃあ。屋上で。購買でパン買ってから行くから。……そこで話そう」
「わかった」
相手が頷いたのを確認して、琉希は逃げるようにその場を去った。
◇
四限目の授業の内容は、まるで頭に入らなかった。
教科書に視線を落とし、シャープペンを手慰みにしながら考える。
――いったいなんなんだ、あいつ。
俺に言われたから前髪を切ったって? 美容院にもいかず、その場で。
頭がおかしい。
妻木沙耶は、明らかにヤバいやつだった。
あんな人間が同じ学校にいることを琉希は知らなかった。入学して数か月たったが、そんな噂は聞いたこともない。鳴りを潜めていた? それとも、たんに知られていなかっただけか。誰もまだ妻木沙耶という地雷の存在を知らず、琉希がそれを踏み抜いてしまった。
――マジで勘弁してほしい。琉希は吐き捨てる。
こんなことなら、昨日あんな奴に話しかけるんじゃなかった。面倒くさがって歩道橋を迂回しなかったら。もっと早い時間に帰っていれば――仮定のたらればを弄びながら、琉希が延々と己の迂闊さを呪っているうちに、授業終わりのベルが鳴った。
「リュー、メシいこうぜー」
友人の問いかけに、琉希は渋面で頭を横に振る。
「……今日は俺、メシいいわ」
「どうしたよ。金ないんか? 貸そか?」
「いや。……ちょっと頭痛いから、保健室で寝てくる」
「マジか。おっけ、気をつけろよな」
午後サボんなよー。友人の捨て台詞を聞き流しながら、琉希は目を閉じる。
頭のなかで六十秒を数えてから、
「――行くか」
琉希は席を立った。内心はともかく、表情は普段のそれに戻せていたはずだった。
◇
一階の購買部で普段より多くパンを買い、重い足取りで屋上へ向かう。
琉希の高校では昼休み、屋上は生徒たちに開放されていた。事故防止に頑丈な柵がつけらえていて眺望は良くないし、球技の類をすることは禁止されている。集団で昼食をとる生徒たちもおらず、もっぱら恋人同士の憩いの場と化していた。
そういう連中は自分たちの世界に入り込んでいるから、周りのことなんて気にも留めないだろう。琉希が考えたとおり、彼が屋上に足を踏み入れても視線を向けてくる相手はいなかった。
妻木の姿を探すが、見つからない。
物陰のあたりにでもいるのかと琉希が歩き出そうとして、
「須々木くん」
背後からの声に肩越しに後ろを見ると、おかしな髪型になった同級生が立っている。
「……驚かさないでくれよ」
「……? ごめんなさい」
ため息をついて、琉希は歩き出した。後ろから妻木もついてくる。
なるべく人の目に入らないところがよかったが、そういう場所はそういうことをしたがる連中にとられてしまっていて、残っている場所は余りものしかなかった。
「んじゃ、このあたりで」
適当に腰を下ろすと、妻木も黙ってそれに倣う。ハンカチを広げて、スカートが皺にならないよう綺麗に腰を下ろす所作が、琉希には意外に思えた。彼女はシンプルなデザインのエコバッグを持参していて、そこから梱包されたサンドウィッチを取り出した。
「……妻木さん、昼はコンビニなんだ」
「うん」
「なんで購買じゃないんだ? あっちのほうが安くないか」
「人が多いの、あんまり好きじゃないから」
「あー」
確かに、昼休み直後の購買部は昼食を求めた生徒が殺到してごった返す。数分で落ち着くのだが、その頃に目当てのパンや弁当が残っていることは稀だった。
「食堂も? まあ、あっちはずっと混むもんな」
「須々木くんは? いつも購買?」
「いや、食堂とかコンビニとか。適当。いつもはツレとかと食べてるから……」
「ツレって、戸次くん?」
適当に会話をやりとりしながら、自分も買ってきた総菜パンを食べようとしていた琉希は、不意に出てきた人名に顔をしかめた。じろりと相手を見て、
「……妻木さん、あいつと知り合いなの?」
「ちょっと話したことがあるくらい」
「じゃあ、なんで俺と友達だってこと知ってるんだ?」
「一緒に帰ってるのを見たことがあるから」
淡々と答えてくる。
琉希は手に持った総菜パンを見下ろして、それを脇においた。購買部から買ってきたもう一つのパンを摑み、
「はい。これ」
目の前の相手に差し出すと、妻木は不思議そうに首を傾げた。
「これは、なに?」
「なにって、お詫びだよ」
「なんのお詫び?」
短くなった前髪の奥から言ってくる相手に、琉希は苛立ちを覚えた。
「前髪の。俺のせいで切ったんだろ」
なんで自分が謝らなきゃいけないんだと内心で愚痴りながら、手に持ったパンを押しつける。
妻木は差し出された包みを見下ろして、なぜか困惑している様子だった。
琉希は言葉を続ける。
「パン一個で駄目なら、美容院代もだせばいいか? ……いくらかかるのか知らないけどさ。それで勘弁してくれよ、謝るから」
不思議そうに妻木が睫毛を瞬かせた。
けっこう睫毛が長い。ふと、目の前の相手のそんなところに琉希は気づいた。
「どうして、須々木くんが謝るの?」
「だから――」
嫌味にしか聞こえない。かっとなって、琉希は吐き捨てた。
「俺のせいで前髪、切ったんだろ。さっきそう言ったじゃんか」
「言ってないわ」
静かに否定した妻木は、おなじように凪いだ表情を浮かべていて、
「は?」
「そんなこと、言ってない」
「なに言ってんだよ。さっき言っただろ、俺に言われたからだって――」
「須々木くんに言われたから、切ったの。言われたせいで、なんて言ってない」
相手の言っていることがわからず、琉希は黙り込んだ。
混乱する琉希に、妻木は淡々と続けてくる。
「須々木くんに言われて、自分の意思で切ったんだから、須々木くんが謝る必要なんてないでしょ。だから、このパンも受け取れない」
当然の道理を説くような態度だった。
そりゃそうだけどさ、と琉希は呻く。彼女の言っていることは正しい。実際、琉希も自分が悪いとは思っていなかった。相手の言い分を認めてしまいそうになる自分に気づいて、琉希は頭を振った。
「……じゃあ、なんで前髪切ったりなんかしたんだよ」
「須々木くんに言われたから」
琉希は頭を抱えた。
話が通じない。それとも話が通じていないのは、自分の頭が悪いせいなのか? そんな考えが浮かんでくる。
「意味わかんないって。どうして、俺に言われたから前髪を切ろうなんて流れになるんだよ」
妻木は首をかしげて、
「……須々木くん、会ったんでしょう?」
「誰にだよ」
「悪魔に」
「……はあ?」
「昨日、須々木くんが言ったんじゃない。悪魔に会って、なんでも言うことを聞かせられる権利をもらったって」
相手から投げかけられた言葉が、ゆっくりと頭のなかに浸透していく。その意味が細部まで染みわたって、琉希は愕然とした。
悪魔?
なんでも言うことを聞かせられる権利だって?
その場しのぎのくだらない与太話になにを言ってるんだ、こいつは。
感情とともに湧き上がった言葉を相手に叩きつけようとして、
「――――」
あまりにもまっすぐな眼差しに、琉希は言葉を失った。
目の前の相手は冗談を口にしているわけではない。ありありと、それがわかる表情だった。
「……悪魔なんているわけないだろ」
かろうじて呻くように言うが、相手は平然と、
「そう? わたしはそう思わないけど」
悪魔崇拝でもしてるのかよ――憎々しく睨みつける琉希に向かって妻木が微笑んだ。
その表情があまりに自然すぎたから、それが、相手がはじめて見せた笑みであることに琉希はしばらく気づけなかった。
「どうかした?」
「……普通に笑えるんだな」
「おかしい?」
「いや、むしろ――」
もっと笑ったほうがいいんじゃないか、と口にしかけた台詞を喉の奥に押し込む。
物が詰まったような渋面になった琉希に、妻木はくすりと微笑んだ。手にしたサンドウィッチを手元に運ぶ。上品に一口した。
前髪がばっさり横に切られた同級生はそれで全部の話が終わったとばかりに、昼休みのあいだ、喋りだす気配をみせなかった。
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