その日、アクマに魅入られたヒト

利衣抄

第1話 悪魔① 

 暗闇に浮かび上がるように、街灯の照明が十字路に影を落としていた。

 虫でもたかっているのか、たんに耐用年数が切れかかっているだけか、ジジジ、と小さな音をたてながら頼りない明かりが明滅している。

 駅から住宅街に向かう途中、公園近くの通りには元々から交通量は少なく、今は人の通りもない。木々を揺らすほどの風もなく、周囲はしんと静まり返っていた。

 その日、予備校帰りの須々木琉希すすきりゅうきは十字路の真ん中に足を踏み入れて、そこで足を止めた。

 周囲を見回してみる。

 左右前後に通行人の姿はない。

スマホの時間を確認して、そのまましばらく待ってから……なにも起こる気配がないことに息を吐いた。


 ――夜、人気のない十字路で待っていれば、悪魔に会えるらしい。


 琉希がそんな話を耳にしたのは予備校の帰りがけ、隣で雑談をしていた二人からだった。

 もしも悪魔に出会えたなら、悪魔は恋愛の成就から受験の成功まで、なんでもあらゆる希望を叶えてくれるという。


 ――悪魔に会うためには、絶対、周りに誰もいちゃ駄目なんだって。

 ――えー。でも、悪魔にお願いって怖くない?

 ――いいじゃん。今日、帰りにやってみようよ。ヨーコ、気になってる人いるんでしょ。


 友人同士の他愛のない会話というべきで、琉希もその場ではほとんど聞き流していた。

 駅のホームで電車を待つあいだにスマホで検索をかけてみたのもなんとなく気が向いたとからとしか言いようがない。ただ、「十字路」と「悪魔」という単語の組み合わせが頭のどこかで引っかかってもいた。

 検索結果の上位にあった文章を読んで理解する。

 昔、若くして有名なミュージシャンの逸話に似たような話があったらしい。――彼は十字路で悪魔に魂を売り飛ばし、伝説的なギターの腕前と名声を手に入れた。

 恐らくは、この逸話を元にして誰かが言い始めた都市伝説の類だろう。

 それで琉希は納得したし、実際にそんなことが起こるだろうと信じたわけでもなかった。

 それでも実際にそれを試してみて思わずため息が出たのは、やはり心のどこかで期待していたのかもしれない。

 昨日、あまり睡眠時間をとれなかったせいか、今日は一日中調子がよくなかった。眠気というより、頭の回りが鈍くなっていることは自覚していて、そのせいでおかしなことを考えたのかもしれない。

 さっさと家に帰って、風呂に入って、寝よう。手をつけていない明日の課題があったはずだったが、それは明日の自分に丸投げすることにして、琉希は人気の絶えた通りを抜ける。

 公園前の大通りに出た。

 そのあたりになると今の時間でも車の通行はあって、通りには横断歩道のかわりに歩道橋が架かっている。

 階段を上下するのは億劫だが、それを避けるためには迂回するしかないので、それも面倒ではあった。無視して道路を横断してしまうには、間の悪いことに、左右どちらからもヘッドライトが近づいてきている。

 嘆息をひとつ。階段を上ろうと足を投げ出して、琉希は眉をひそめた。


 ――歩道橋のうえに、誰かがいる。



 歩道橋の中央で、手摺りに両手をのせた女子がどこかを眺めていた。

 ひとまず――音を立てないように――階段をのぼりきってから、琉希はあらためてその横顔を確認した。物憂げに思える表情。ぼんやりした眼差しが階下に向けられているのを見て取って、琉希は顔をしかめた。

 勘弁してくれよ、と胸のなかで呻く。

 見たところ、女子は今にも手摺りを乗り越えてしまいそうな様子だった。しかも、その身につけている制服には見覚えがある。琉希の通う高校のものだった。スカーフの色までは暗くてわからないが、少なくとも琉希の見知った相手ではない。

 警察に連絡――という考えがすぐに浮かんだが、実行するのにはためらいがあった。そもそもが、110番でいいのかどうかもわからない。

 それを知っている誰か。あるいはもっと良案をだしてくれる他者を求めて、琉希は歩道橋の上から周囲を見渡した。だが、行き交う車両に反して、近くを通行する人の姿は皆無だった。

 少し先に営業中のコンビニの明かりがある。そこまで駆け込むのが正解か、と決断しかけて、ひどく嫌な想像が浮かんだ。コンビニに駆け込んで、万が一、そのあいだに目の前の相手が飛び降りてしまったなら。

 想像する後味の悪さにはもう一つ、捨て置けない事実も含まれていた。この歩道橋は、琉希にとって毎日の通学路でもあるのだ。

 結局は、その最後の事実が琉希をその場に踏みとどまらせた。

目の前の相手に向かって口を開く。胸のなかにあるのは同情でもなければ義侠心でもなく、善意ですらなかった。


「あのさ」


 ゆっくりと、相手が振り向いた。

 その顔に、やはり琉希は見覚えがなかった。全体的に野暮ったく見えるのは、前髪が長すぎるからかもしれない。少なくとも、夜の距離のせいだけではない。

 声をかけられた女子は黙って琉希を眺めてきている。

 泣いてもいなければ、怒ってもいない。長く伸びた前髪の奥から向けられた眼差しは間違いなく琉希で焦点を結んでいるが、なにを考えているのかわからず不気味だった。

 まさか幽霊じゃないだろうな。琉希はそんなことを考えつつ、


「勘違いだったら、謝るんだけど。もし、今、あんまりよくないことを考えてたりしてるんなら……止めた方がいいんじゃないかな」


 女子はまじまじと琉希を見つめると、


「どうして?」


 不思議そうに囁いてくる。


「いや、足りないでしょ。めちゃくちゃ痛いだけで終わりそうだし」


 歩道橋から地面までの高さは五メートルほど。人間が確実に死ねる高さがどの程度か琉希は知らなかったが、よほど当たり所が悪く――良くなければ、即死は難しいのではないかと思えた。


「本当に死にたいならさ、こんなとこからじゃなくて――」


 高層ビルとか、と続けかけた口を閉じる。これじゃまるで、相手に自殺教唆しているようじゃないかと胸中で呻いてから、


「ともかく。ここじゃ止めてほしいんだけど」

「……どうして?」

「ここ、俺の帰り道だから」

「…………」

「その制服、藤高でしょ。何年? 俺は一年だけど」

「…………」

「1-Cの、須々木琉希すすきりゅうき。どうぞよろしく。そっちは?」


 同じ高校のはずの女子は、口を閉ざしたまま答えない。

 琉希はしばらく無言で相手と見つめあった。しばらくしてから、なんだこれ?と思う。にらめっこかよ、と考えた瞬間、途端に馬鹿馬鹿しくなった。

 琉希は頭をかきながら相手に向かって歩き出す。

 距離を詰められても、女子は動揺する様子を見せなかった。表情のない眼差しで見返してくる。

 琉希は手摺りに置かれた相手の両手をつかんで強引に自分へと振り向かせると、


「――さっき、悪魔に会ってさ。知ってる? 夜、人気のない十字路で悪魔に会ったら、なんでも願い事を叶えてくれるって噂。で、会ったわけ。俺が悪魔に願ったのは……、――ね。それで、――はいっ」


 ぱん、っと相手の目の前で両手を叩く。


「今、俺はあんたにその権利を使いました。はい、これでもう、あなたは死にたくなくなりました!」


 琉希が一気に言い切ると、女子ははじめて違った反応を見せた。眉を寄せ、視線を左右に彷徨わせてから、両手へと落とす。

相手が感情らしきものを見せたことに満足して、琉希はつかんだままの手を解放した。


「なんか嫌なことでもあったのかもしれないけどさ。とりあえず、今日のところはさっさと帰って、風呂でも入って、さっさと寝なよ。俺も寝不足でさ、そうするつもり」


 女子は琉希を見つめてから、そっと視線を外した。


「……わかったわ」


 小さく頷くと、意外としっかりとした足取りで近くの階段に向かっていく。彼女が階段を降りきり、通りの角を曲がるのまで確認してから、琉希は大きく息を吐きだした。――とりあえず、厄介なことにはならずに済んだらしい。

 今からでも相手を追いかけて警察に任せるべきじゃないかという考えも頭に過ぎったが、


「……ま、いいか。帰ろ。眠いし」


 思いやりではなく打算から生まれた末の行動では、この程度が限界だろう。欠伸を噛み殺しながら、琉希は帰路についた。



 ◇◇


 翌朝。いつもより少し早めの時間に家をでて、琉希は高校へ向かった。

 道すがら、スマホでニュースの一覧を確認する。……少なくともこの数時間、近くで自殺者の報道は流れていなかった。

 もっとも、すべての自殺者がニュースになるわけではないかもしれないし、まだ報道になっていないだけかもしれない。例えば、今まさにそれが発見された場合とか――そんなことを考えていたので、歩道橋を視界に収めた時、そこに群がるパトカーや人混みがないことに琉希はほっと胸を撫でた。

 名前も知らない女子は、少なくとも、昨日この場所で死ぬことは留まってくれたらしい。

 これで、明日からわざわざ通学路を迂回せずに済む。さすがに、身に覚えのある血の大輪が咲いたところを平然と歩けるような度胸はしていなかった。

 同時に、疑問に思った。あの女子は、いったいどうして自分の説得を聞いてくれたのだろう。

 まさか、感銘を受けてというわけではないだろう。見知らぬ相手が、いきなり悪魔がどうとか言い出したのだ。頭がおかしいと思うのが普通だろうし、琉希が昨日の言動を振り返ってみれば思わず羞恥心を覚える程度には、昨日の自分はおかしかった。夜だからか、睡眠不足のせいか、それともおかしな噂話を聞いたからか。おそらくはその全部だろう。

 まあいいか、と投げやりに考える。

 たとえ、あの女子がイカれたやつの近くで死にたくないと思ってくれただけだとしても――それはそれで重畳だった。琉希にしてみれば、彼女がこの先どういう決断をしようと知ったことではない。死ぬなら自分の視界と意識の外でやってほしいというのが偽らざる本音だった。



 この時は、そう思えたのだ。


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