1-2. windy
翌日の朝早く、シオンは元の街に帰るミレーネを見送った。昨夜ゼラにくすみを取ってもらった髪飾りが朝露のように輝いていた。一緒に見送りに来たゼラは元気よく振っていた手を下ろしてシオンの方を向いた。
「じゃあ、私たちも出発しようか」
「よろしくお願いします」
ゼラは杖を出してシオンの手を取った。
「まずは飛行魔法に慣れよう。最初はふわふわしてバランス取りづらいと思うけど、私に触っていれば魔法の効果は受けられるから、手は離さないで」
シオンはゼラの手をぎゅっと握って小さく頷いた。
「じゃあ行くよ」
小川がせせらぐような水色の光の筋が二人をなぞるように下りると、次の瞬間には柔らかい風になって足元から身体を押し上げた。シオンはよろけてゼラの腕をぎゅっと掴んだ。
「ごめんなさい」
「大丈夫だよ。ゆっくりで良いからね」
シオンはゼラを掴んだまま足をふらふら動かす。少しずつ地面が遠ざかっていって、あっという間に街の外壁よりも高く浮かび上がった。突き上げるような風がシオンの長いスカートを広げた。シオンは反射的に足を閉じてスカートを押さえる。
「手、離せたね」
ゼラは弾けるように笑った。ふわっと広がるローブの下に茶色の半ズボンから伸びる白い足が見えた。シオンは時々ゼラの身体にしがみつきながら、なんとか空に立てるようになった。
「上手。すごいね、才能ある」
「ゼラさんの魔法がすごいだけです」
「自分でバランス取れるのはシオンの力だよ」
ゼラはシオンの手を引いて空を飛んだ。全身に風を浴びた。草原に小さく二人分の影が這っている。
「飛んでる……」
「飛行体勢も問題ないね。直立よりもこっちの方がスピード出るから」
「え、ここからさらに速くなるんですか?」
「うん」
ゼラは悪戯っぽく笑って一気にギアを上げた。流れる景色に勢いがつくのと同時に空高く身体が浮き上がる。シオンは強く目を瞑ってゼラの手を強く握った。
「目、開けてみて! ほら!」
風切り音の向こうでゼラの声がした。シオンは恐る恐る目を開けた。
「うわぁ……!」
空と山肌の壮大な二枚絵がゆっくり流れていた。揺れる緑のひとつひとつが瞳の奥を撫でるように映る。
「すごい」
「すごいでしょ! 私がいつもいる世界、空から見るとこんなふうに見えるんだよ。ほらあそこ、モンタナの群れが飛んでる」
ゼラの指差した先に黄色い山鳥が集まっていた。緑に映えてきらきらと輝いて見えた。
「きれい」
シオンは小さくそうこぼした。ゼラは嬉しそうに微笑んでいた。
二人はカランド地方からクラーヴァ地方へいくつかの山と街を超えた。空の気色に慣れてきた頃、聞き覚えのある鋭い音が山道の方から聞こえてきた。ゼラは素早く音のする方へ舵を切った。
「この音……」
「誰か魔物と遭遇したんだ。ちょっと寄り道するよ」
「はい」
ゼラはさらに速度を上げて飛んだ。広がる緑の隙間をくまなく探す。
「どこだ〜?」
「あ」
シオンが指を差した先、山道から少し外れた斜面に転がっている木組みの荷台とその近くに二人の少年がいた。周りに魔物の気配はない。
「降りるよ」
シオンはゼラの腕に掴まった。風に包まれた二人は滑らかに山道に足をつけた。
「二人のところへ行ってくるから、シオンはここで待ってて。すぐ戻る」
「は、はい」
ゼラは道脇の木の下に荷物を置くと杖を出し直して身軽に飛んでいった。あっという間に姿が見えなくなる。シオンも背負っていた荷物を木の下に並べて木陰に座り込んだ。久しぶりに感じる地面の感触に、身体全体が引っ張られるのを感じた。
ひとつ息を深く吐いたところに黒いローブが現れた。
「笛を鳴らしてたの、君か?」
ゼラではなかった。シオンよりもずっと背の高い男性で短く揃えられた茶色の髪と顎髭が印象的だった。胸元のルーンは赤色に輝いている。
「え、えっと」
「怪我してないか?」
魔法使いはシオンに一歩近付く。
「わ、私じゃないんです。吹いたの」
「え」
シオンは緑の向こうから飛んでくるゼラを指差した。魔法使いはその先を振り返る。
「もう来てたのか」
ゼラは少年たちを抱えて道脇に着地した。赤いルーンの魔法使いはゼラの方に近寄った。
「魔笛の音を聞いた。この子たちが吹いたのか?」
「そう。あなたは、魔法術師?」
「ああ。ヒューラだ」
「パートナーは?」
「もう少し西側を探してる。すぐに合流するよ。君は?」
「私はゼラ。回復術があるからこの子たちは私に任せてほしい」
「ゼラ? ゼラ・ガーデンか」
「え、知ってるの?」
ゼラは嬉しそうに顔を上げる。
「もちろん。こんなところでお目にかかれるとは。魔物の方はどうなってる?」
「たぶん、グァンターレに襲われたっぽい。斜面を落ちてった大きな跡があったから、谷の底の方を見にいってほしい」
「わかった」
ヒューラと名乗った魔法使いは杖を出して木々の向こうへ飛んでいった。シオンは立ち上がってゼラと少年たちの方へ向かう。ぼろぼろになった白いシャツを着た少年が腕を押さえて座り込んでいた。ゼラはもう一人の少年を看ている。相当傷が酷いのか意識もないようだった。
「その子さ、腕の骨が折れちゃってるんだ。少しだけ支えててあげて。私、先にこっちの子なんとかするから」
「わ、わかりました」
シオンは白いシャツの少年の隣に膝をついて押さえている腕を覗き込んだ。右の前腕が大きく折れてしまっていて、手の先には全く力が入っていなかった。シオンは思わず顔を歪める。
「大丈夫。少し、我慢ね」
シオンは折れた腕に恐る恐る触れた。少年の痛む声にきゅっと目を閉じる。
瞬間、琥珀色の光の流れがシオンと少年を包んだ。左胸の奥、鼓動が速くなって身体の芯に熱を持つ。苦しそうな少年の顔は少しずつ穏やかになって、しばらくすると呼吸も落ち着いた。気づけば折れた腕はいつの間にか治っていた。
シオンは唖然としていた。
「な、治った」
少年がそうこぼす。
「治った!?」
ゼラが驚いてこちらを振り向いた。倒れているもう一人の少年はすでに琥珀色の中にいた。
「お姉ちゃんが治してくれた」
「シオンちゃん!?」
「え、え……?」
ゼラは急いで白いシャツの少年に駆け寄ってその額に手を当てる。
「具合悪いとかは、ない?」
「うん。大丈夫」
シオンは自分の震える手のひらに目を落としていた。依然として胸の奥で心臓が大きく動いているのを感じる。少しずつ視界が揺らいで、ここがここでないような、自分が自分でないような気がした。
「シオンちゃん?」
ゼラの声にはっと顔を上げる。
「鼻血が」
ゼラはシオンの顔を流れる赤色を拭き取ると鼻に手を当てて軽く止血をした。それからシオンの手首に両手を添えて、泳ぐ瞳を捕まえた。
「どうやったの?」
シオンはぱくぱく口を動かしたが言葉らしきものは見つからなかった。
「……わかんない?」
シオンはゼラの優しい声に小さく頷いた。そっか、とゼラは息を解いて口元に手を当てて何やら考え込む。ちょうどそこへ谷底からヒューラが戻ってきた。
「グァンターレの死体があった。落ちてそのまま死んだんだな。一応魔法で燃やしておいた」
「わかった。ありがとう」
「子どもたちの具合は?」
ゼラは立ち上がって意識を失ったままの少年の隣にしゃがみ込む。
「そっちの子は全快。この子も傷は全部治した。意識は失ってるけど、数時間も経てば戻るはず」
「さすがだな。その子は?」
ヒューラは紫の髪の少女に目を向けた。
「私の連れだよ。このままヘレンまで行くんだ。だからこの子たちヒューラに任せてもいい?」
「もちろん。とりあえず近くの街に避難させるよ。そちらも旅路に気をつけて」
「どうもありがとう」
ヒューラは少年二人を抱えて西側の空に飛び立っていった。白いシャツの少年は見えなくなる最後までこちらに手を振っていた。それを見送ってゼラはもう一度シオンに向き直る。
「あ、あの、わたし……」
シオンは手を組んで小さくなっていた。ゼラは彼女の肩に手をやった。
「ちょっと疲れちゃったね。私たちも次の街で少し休もう」
「……はい」
ペオン地方の北部にシンパという街があった。畜産と養蜂で栄えた街だ。大都市ながら建物と農場がまばらに並んでいる。その都市部の中心を流れる川のほとりで紫の蝶が羽を休めていた。
「お待たせ」
ゼラは軽やかな足取りでシオンの元へやってきて隣に座った。
「お土産買っちゃった。蜂蜜、ここの有名なんだよね。シオンちゃんの分もあるよ」
「あ、ありがとうございます」
二人の隙間に春風が蜜の匂いを運んできた。シオンの伸びた髪が揺れた。
「少し落ち着いた?」
「なんとか」
ゼラは足を組んだ上に肘をついて顎を乗せた。
「身体が光って勝手に治った、か。間違えなく魔法なんだけど、杖も出さずにあそこまで完璧に治すって見たことないよ。本当に魔法使ったことないの? こっそり練習したりとか、家族に魔法使いがいるとか」
「な、ないです」
「うーん」
「あ、でも」
ゼラはシオンにすっと顔を向けた。
「昔から、怪我してる小鳥とか小さい生き物が触ると治ったりするんです。仕組みは全くわからないんですけど」
「それ魔法じゃん!」
ゼラはシオンの肩を勢いよく掴んだ。
「え」
「めちゃくちゃ魔法だよ。誰にも言ってないの? そのこと」
「気味悪がられるかなと思って」
「えぇ……それで人が治ったりとかは?」
「お母さんが治らなかったので、人には効かないんだって思ってました」
ゼラはゆっくり肩から手を離して、もう一度肘をついた。少しの沈黙の後その口が開く。
「シオンちゃんって、今何歳?」
「十五、です」
「十五! 私と同じだ! そっかそっか」
彼女の口元が少しずつ笑みを持ち始める。
「ヘレンに行った後、何をするかって決めてないんだっけ」
「えっと、一人ではまだ何も……」
ゼラはすっと立ち上がってその場でひらひら踊るように歩くと、シオンの前で止まって彼女の手を取った。
「私についてこない?」
「ゼラさんに?」
「私と一緒にさ、魔法使いになろうよ!」
ゼラはシオンの目を真っ直ぐ見つめていた。心なしかいつもよりも陽の色が強く輝いて見える。弾む髪と匂い、胸の宝石、その全てが青空に映えた。ゼラの手から来る体温が自分の心臓と繋がっているような感覚がシオンの身体を走った。
「まほうつかい……」
「シオンちゃんなら、きっといい魔法使いになると思うんだ」
黒いローブがふわりと浮いたかと思うと、次の瞬間にはシオンの体も宙に浮いていた。ゼラは空の中でシオンの腰に手を回して抱き上げた。
「わっ」
「えへへ」
シオンはゼラの肩に手を置いた。悪戯が好きな子どものような笑顔。その内側に今はもう懐かしくなってしまった母親の温度に近い陽の光が灯っていた。
「私なんかがなって大丈夫なんですか」
「大丈夫に決まってるじゃん! さっきだって、怪我してる子に寄り添って痛みに向き合ってあげようとした。その優しさがあるだけで、魔法使いになる資格はあるよ。それに」
ゼラはシオンの腰に回していた腕を解いて、彼女の手を握った。まっすぐ同じ高さにお互いの瞳が向かい合う。
「私はシオンちゃんが魔法使いになってくれたら嬉しい。魔法のこと好きになってくれたらもっと嬉しい!」
「う、うれしい?」
ゼラは元気よく弾んだ。
胸の底でひとつ、鐘が鳴る。
「で、でも、どうやって魔法使いになるんですか……?」
少し目を逸らすシオンに魔法使いは得意げに微笑んだ。
「私に任せて。いい考えがあるんだ」
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