1-1. pale
クローゲルの集落から出て麓の街を抜けるとしばらくは開けた牧草地が広がっていた。冷えていた山もここまで下れば春が息をしている。シオンは荷台で交易物に挟まれながら、出て隠れてを繰り返す陽の光と鳥の鳴き声を浴びていた。運び屋のミレーネは手綱を握ったまま鼻歌を歌っている。轍が整っているのか、心地よい揺れに瞼が重くなってくるような気がした。
「ハイツさんから聞いたよ。お母さんのこと」
シオンは振り返ることなく身体を揺らされている。
「一人で大丈夫?」
「いつかはこうなるって、分かっていたので」
流れていく道に柔い声が落ちた。霞色のブラウスから出た細い腕の先で小さな手が握られている。
「向こうでやりたいこととかあるの?」
「特には……」
そっか、とこぼしたきりミレーネは黙った。
道は木陰に伸びていた。一つ木の隙間からばさばさと何かが荷台に落ちてきた。シオンは少し驚いて肩を弾ませ、それに目をやった。それは小鳥だった。羽が赤く染まっているのは模様ではなく怪我のせいだろうか、痛がるように羽を震わせている。シオンは小鳥を手ですくって包むように抱いた。
「あ、暴れないで」
シオンは小声で小鳥をなだめて、怪我をしている羽にそっと手を置いた。心の中で痛みを唱えて目を瞑る。すると彼女の手の中が少し明るくなって、しばらくすると元に戻った。小鳥の傷はすっかり癒えていた。
「痛かったね。もう大丈夫だよ」
シオンは空の向きに手を広げて小鳥を放した。つもりが、小鳥は飛び立つことなく彼女をしばらく見つめて、荷台にそっと降りた。
「どうかした?」
ミレーネが声だけをこちらに向けた。
「いえ」
シオンは隣にできた小さな友達を撫でながらそう返した。
二つほど高原を越えた。空は橙色に塗り変わっていた。森を抜けた遠くに街の外壁といくつか高い建物が見える。どうやら大きな街に着いたようだ。
「見える? あれがルーガって街。この荷物の中継地だよ」
ミレーネは手綱を片手でまとめて街を指差した。
「あたしは荷物受け渡したら戻っちゃうから、シオンちゃんとはお別れだね。この荷物も全部じゃないけどヘレンまで行くやつがある。それと一緒にシオンちゃんも乗り換えれば大丈夫だから。多分いろんな運び屋を中継するだろうけど、乗せてってもらえるだけ乗せてもらいな」
「あ、ありがとうございます」
森は緑を蓄え始めていた。集落と大層差分のない春の匂いの中を二人は進んだ。森を抜けた先は広い草原になっていて、ルーガまでの道がはっきりと見えた。
「ん?」
ふと上空に嫌な気配を覚えた。見上げると空高く鷲のような大きな鳥が飛んでいた。空が大きいせいかゆったりと漂っているように見える。
「ミレーネさん、あれは……」
ミレーネは空を見ると、腰元から魔笛を取り出して一息に吹いた。鋭く甲高い音が草原に走った。シオンは驚いてその場に縮こまる。
「マタレアだ。魔物だよ。街まで急ぐからしっかり捕まってな」
ミレーネの手綱に合わせて馬は
「ひっ」
「狙われてるな」
えいっ、と馬に掛け声を投げるミレーネ。蹄が道を掻く音が一つ激しくなった。マタレアは大きく空を旋回して、再び荷台に目掛けて飛び込んでくる。ミレーネは手綱を持ったまま身体をよじり、空を切るようなマタレアの翼を避けた。
「大丈夫……あれ?」
ミレーネが荷台を振り返るとそこにシオンの姿はなかった。まさか、と飛び去ったマタレアに目を向ける。彼女の身体は宙を浮いていた。肩と腹にマタレアの大きな爪が突き刺さっている。
「シオンちゃん……!」
ミレーネはもう一度魔笛を吹いた。助けを乞う音が遠く遠く街の向こうの山肌まで響いていく。そしてそれが返ってくるよりも速く、黒い何かがこちらに飛んできた。
「来た! ここだー! マタレアに一人捕まった!」
黒が風に靡いて、その隙間から黄色い髪が覗いた。それはローブを着た小さな少女だった。少女はマタレアに手のひらを向けて大きな杖を出した。瞬間、少女の周りに出現した無数の光の結晶がマタレアとシオンに向かって飛んでいく。息をする間もなくその全てがマタレアの翼を貫通した。轟音が遅れて草原に降り注いだ。
「すごい……」
ミレーネは驚く馬をなだめて荷車を止めた。少女はマタレアの爪から剥がれ落ちたシオンを空中で受け取って鮮やかに荷台に着地した。
「あ、ぁぐっ……」
シオンはもがくように少女のローブを掴んでいた。身体に大きくできた穴のような傷。口からは赤い鮮血が垂れている。ミレーネは心配そうに荷台の荷物を掻き分けて少女に近づいた。
「大丈夫?」
「うん。任せて」
少女はシオンの傷口に手をかざしてゆっくり目を閉じた。二人の身体が淡く琥珀色に光る。シオンの息は少しずつ落ち着いていって、そのまま眠りに落ちるように意識を失った。傷はあっという間に癒えてブラウスに付いた血の赤だけが残った。
「シオンちゃん……」
「気を失ってるだけだよ。大丈夫。とりあえず街まで行こう」
「うん、ありがとう。助かったよ」
どういたしまして、と少女は得意げに笑った。
うっすら開けた瞳に月白の光がまっすぐ差し込んだ。湿気の控えた涼しい夜風が肌を撫でる。
「おはよう。外はこんばんはだけどね」
シオンが声をした方に顔を向けると、ベッドのそばに黄色い髪の少女が座っていた。華奢な身体を覆い隠す丈の長い黒いローブ。胸元には輝かしい金色のルーンが赤いタイで結んであった。左の袖口からは腕から手にかけて巻かれた包帯が顔を出している。
「身体の調子はどう? 一応、傷は全部治したし、服の汚れも取ったんだけど」
「え、あ」
シオンは自分の身なりに目を落とした。探るように肩や腹に触れる。
「痛みは?」
小さな口が結ばれたまま紫が横に揺れた。
「よかった」
シオンをじっと捉えていた陽の色の瞳がふっと解けた。シオンは恐る恐る声を絞った。
「た、助けてくれたんですか」
「そりゃあ、魔法使いだからね」
少女はとん、と拳で胸元のルーンを小突いた。それからシオンの方に身を乗り出して手を握る。握られて初めて、シオンは自分の手が震えていたことに気が付いた。
「怖い思いさせちゃったね。もっと早く行ってあげられたらよかった」
少女は手を
「私、ゼラ・ガーデン。ヘレンで回復屋さんの魔法使いやってるんだ。君は、えっと」
「シオン・テラスです」
「シオンちゃん! 運び屋の人から聞いたよ。これからヘレンに行くんでしょ?」
シオンは小さく頷いた。
「私と一緒に行こう!」
「え?」
ゼラは右手にぱっと杖を出した。
「ヘレンなんて私の魔法で一っ飛びだよ」
「と、飛び……?」
いくつか瞬くシオンの視線をゼラはにこやかに笑ったまま受け止めた。
「い、いくら払えばいいですか?」
「お金? いらないいらない! 魔法使いは商売じゃないんだよ」
「でも……」
「いいの! そういうものだから。あ、あとね、荷物を確認して欲しいんだ。一応落とし物ないか探したから大丈夫だとは思うんだけど」
シオンは掛けてある布団をめくってベッドの際に座り直した。燭台の乗った机の上にシオンの荷物がまとめられていた。蝶の髪飾りとモノクルも丁寧に置かれている。
「これは、半分食べられちゃったとかじゃないよね?」
モノクルをシオンの顔に重ねるゼラ。その向こう側が縦に動く。
「右目だけ、よく見えなくて」
「そうなんだ」
ゼラはモノクルをシオンの右目に掛けると、その手をシオンの右頬に当てた。包帯の無機質な肌触りにシオンの目が少しだけ細くなった。
「……掛けてた方が、可愛いね」
「えっ」
あ、とゼラは手を離した。
「いやその、ファッションとかで掛ける人だっているし、シオンちゃんはそのままの方がいいなって思って」
恥ずかしそうに俯いた顔に紫の髪が垂れる。
「自信持って、素敵だから」
ゼラに頭を撫でられてシオンは少しだけ口角を持ち上げた。小さくて大きな手は彼女の頭を離れてもう一度机に向かった。蝶の髪飾りを取り上げてシオンの前に差し出す。
「壊れたりしてない?」
シオンは小さく頷いて髪飾りを胸に押し当てた。
「綺麗な髪飾りだね」
ゼラはシオンの隣に腰を下ろした。
「お母さんがくれたんです。ちっちゃい頃に」
「大事にしてるんだ」
「これしか残ってないので」
陽の色の瞳の奥が深くなる。
「……そっか。守れてよかった」
「はい、割れなくてよかったです」
「そうじゃなくて」
魔法使いは少女をゆっくり抱きしめた。口元をローブが覆う。金色の花が香った。
「シオンちゃんのこと、守れてよかった」
優しくて柔らかい声だった。シオンは驚いたように目を開いた後、不器用にゼラの身体に腕を回した。とくりとくりと心臓が動いている。
「ゼラさん」
「ん?」
「あったかい」
「えへへ、あったかいね」
「……なんて魔法ですか?」
「魔法じゃないよ」
窓からひとつ速い風が入って燭台の火を吹き消してしまった。ゼラは立ち上がって火をつけに行く。シオンはなんだか手持ち無沙汰な気がして掛け布団を小さく握った。月明かりがその髪の紫を染めていた。その夜は満月だった。
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