ラムダの心臓

オパールパレット

prologue

 月のかけらのような白い蝶が舞っていた。夕方の匂いを伝えようとモノクルの縁に抱きついたそれは、少女の瞬きを合図に淡くなった空の色に溶けていった。少女は薄い酸素を少しだけ吸って心を吐いた。少女の全てだったものは傾けた白い陶器からさらさらとこぼれ落ちて、雪解け水で出来上がった小さな川を流れた。そうして少女の心をしがむ孤独を明かす言葉を探してくれた。

「お別れはできたかい?」

 後ろで祈りを捧げていた長老が瞳と息を解いて少女に聞いた。少女は一つ頷いた。

「辛い弔い方をさせてしまったね」

「いえ……。お母さんも喜んでくれてると思います」

 少女は長老の手を取ってゆっくりと丘を歩いた。名前も知らないような鳥が遠くで鳴いた。

「もう出発か。なんだか、寂しくなるね」

 長老は声を震わせた。少女は唇を結んだまま長老の手を少しだけ強く握った。

 春風をくぐって集落の中心部まで戻ってくると、家々は肉や魚の焼けた匂いを携えていた。また明日、という長老の声を背に少女は自分の家屋に戻った。

 朝に調ととのえていった旅の支度がそのままテーブルの上に置いてあった。そばには家を出るまで読み返していた母の手紙と資金が揃っている。少女は薄い毛布を敷いたベッドに腰を下ろして左につけた髪飾りを外した。蝶を象った銀金具に紫のガラスを入れて作られたものだ。それをぼんやりと眺めて、いくらか時間を過ごした。まだ少しだけ肌寒さがあった。瞼の裏からじわじわと湿ったものが押し寄せた。それが心から来たものか、春の気から来たものか、少女にはわからなかった。

 最後の朝は肌を逆撫でるような冷えた空気を纏っていた。いつものように髪飾りは左につけて、モノクルは小川の水ですすいだ。少女は荷物を背負って見慣れた家々の郵便受けに最後の挨拶を綴った手紙を入れていった。朝早く誰にも会うことはなかったが、集落の出口に長老が独り座っていた。

 少女は長老に少し目を合わせてすぐに俯いた。

「お世話になりました」

 少女の声は震えていた。長老は皺の寄った手で彼女の頭を撫でた。モノクルのチェーンがかちゃかちゃ鳴った。

「立派になった。お母さんに似てな。ここでは苦しい思いをさせてしまったが、これからは自由だからね。大人になったらまたたくさん話をしよう」

 少女は頷いた。それから乾いた涙を飲み込んで長老の目をまっすぐ捉えた。

「いってきます」

「うん。いってらっしゃい。孫に会ったらよろしく言っておいてくれ」

 一つ柔く身体を弾ませてガラスの蝶は羽ばたいた。少女は名をシオンといった。

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