ずっと大事にしていられると思っていた

liol

第1話

 入り口付近のメニュー表を見る。別にいつも頼むのは決まって一番安いコーヒーなのだけれど。ただ何となく、先に並んで注文をしている人を急かしている風にならないようにするための言い訳のような行動だ。それからいつも通り注文して、カウンターで受け取ったコーヒーをもって外へ面した席に座った。カフェでコーヒーを飲みながら読書。たまにはこんなかっこつけた休日も悪くない。いつのまにか雪が溶けて桜が散って、線香花火が落ちる時期になっていた。外ではセミが鳴いている。店の中まで聞こえるそれにうんざりして、イヤホンを取り出して耳に刺した。ストリーミングサービスを開いて、適当なプレイリストを再生する。あの人が好きだった歌を避けていたのももう数か月前の話だ。もう克服して、好きな音楽を好きなように聞ける。まああの人が好きな歌なんて1つしか知らないのだけれど。

 それから本を開いて読み始めた。恋愛小説を読むのなんて何か月ぶりだろう。最初の一文を読むと、主人公は初っ端から大切な人と別れている。もう少し正統派な恋愛小説を選ぶべきだったかなと少し後悔しながら次の文字を追う。私は息をのんだ。「」まるで自分のことを言われているようだった。あの人が悪いなんて思っていない。悪いのは私だ。だけど、「わかった」なんて言わないで、どうすればいいのか、どうすれば仲良くしていられたのか答えを教えてほしかった。小説の主人公は小説の主人公で、私じゃない。主人公の好きな人は主人公の好きな人で、あの人じゃない。それでも重ねてしまう。重なってしまう。コーヒーが冷めるのも忘れて、一気に読み進める。回想シーンでの恋愛を恐れる主人公の姿と、昔の自分の姿が重なって、まるで自分を描写されているみたいだ。

 すこし文字を追うのに疲れて、窓の外を眺める。あの人に雰囲気が似ている全くの他人を視認し、目で追いかけてしまう。克服したと思ってもいまだにそんな行動をとってしまうことが憂鬱になる。帰省シーズンの駅前ということもあって右から左へ、左から右へ、横断歩道の向こうへこちらへ、たくさんの人が往来しているというのに、私が会いたい人はどこにもいないみたいだった。

 気が付くと蝉は泣き止んで、代わりに雨が降り始めていた。小説の中みたいに、横断歩道のあたりにできた水たまりに赤信号が反射している。外にいる人はカバンを抱えるようにして走っている。わたしはどうやって帰ろうかと思案する。考えている間に雨が強くなりそうだったので、意を決して濡れて帰ることにした。

 あの人を思い出すのが1つの季節で、1つの時間で、1つの満月で、本当に良かった。もっとあの人を知っていたら私はいまでも小説を読むことさえままならなくなっていただろう。そんなことを考えながら読み終えた小説を鞄にしまって、「」という言葉も胸にしまって店を出た。

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