第18話

 予想外の光景に僕は言葉を失くして立ち尽くす。


 どうやら事態は僕の想定よりをはるかに超えて深刻らしい。


 その事を否応なく思い知らされて僕はたじろぐ。


 こんな風に家に乗り込んだのはノンデリで迂闊な行為だったかもしれないと後悔して逃げ出したくなるけれど今更後には引けないし引きたくもない。


 だって鞍馬先輩はこれほどまでに追い詰められているのだ。


 誰かが助けてあげないと。


 その誰かになる事を選んだのは僕だし、そういう誰かを助けられる人になりたいと僕は常日頃思っている。


 だけどこの光景はあまりにも衝撃的でショックで声が出てこない。


 気まずい空気が泥のように粘っこく息をするのも一苦労だ。


 とにかくなにか喋らないと。


 そう思っている内に沈黙が積み重なり余計に気まずくなっていく。


「……なにがあったんですか」


 やっとの事で発した言葉を鞍馬先輩は聞こえなかったみたいに無視した。


 そう思うくらいの沈黙が嫌になる程続いた後、先輩の綺麗な鼻から疲れ切った吐息が一つ零れた。


「立ち話もなんだ。とりあえず座ろうか」


 力のない笑み。別人のような笑み。別人になってしまった笑み。笑みではない笑みを向けられて僕は困る。


 だって座ろうかと言われても床が散らかり過ぎて腰を下ろせるような場所はどこにもないのだ。


 そんな当たり前の事実ですら鞍馬先輩が気付くには時間が必要だった。


 暫くして「あぁ……。ごめん。足の踏み場がなかったね……」と呟くと鞍馬先輩は床に散らばった画材やら画集やらをゴミのように蹴って小さなスペースを作るとその辺に転がっている座布団を敷いた。


 幽霊とでも話してるみたいだ。


 そう思いながら僕はチョコンと正座する。


 鞍馬先輩は僕の方を見ようとはしなかった。


 着崩した制服の胸元から覗くノーブラの乳首も、ミニスカートから露出する細いけどムチっとした白い太ももも、この世界の女の子なら片手で簡単に折れてしまいそうな首筋や自分でもウットリしてしまうくらい可愛らしいこの美貌も。


 今まではちょっとでも隙があればこれでもかと僕の事を視姦していたのに、見てはいけない物、見たくない物のように僕から目を逸らしている。


 それってつまり……。


「僕のせいなんですか?」


 言葉にして自分でドキッとした。


 心当たりは全くないけど、人を傷つけるのに自覚はいらない。特に僕のような美少年は、そんな気はなくとも、なにもしていなくとも、ただいるだけなのに、無自覚に誰かを傷つけてしまうという事はあり得るのだ。


 嫌味でも自慢でもなく、それくらい美しさとは罪作りなのだ。


 ある程度は慣れたつもりだったけど、もしそうだったらと思うだけで僕は胸が苦しくなる。


 僕のせいで鞍馬先輩がこんなになってしまったのだとしたらとても悲しい。申し訳ないし、心苦しいし、哀しくて辛い。


「違うよ……」


 ベッドの端に腰かけると、鞍馬先輩は足元に向かって言った。


 そこになにかがあるわけじゃない。


 ただ、僕がいない場所を求めた結果視線がそこに向かったといった感じだ。


 だから僕は、鞍馬先輩の言葉を真に受ける気にはなれなかった。


「だったらどうして! 僕の事、避けるような態度とるんですか……」

「避けてるわけじゃない……とは言えないか」


 哀しそうな目で見つめられ、僕はグサッと来た。


 やっぱりこれは僕のせいなのだろうか。


「勘違いしないで欲しい。飴村君がどうこうという話じゃないんだ……。色々あってね。それで……」


 その先は続かなかった。


 その色々とやらを語るのが嫌で嫌で仕方がないのだろう。


 鞍馬先輩の口がそれでの「で」で固まったまま動かない。


 喉に詰まった気まずさをどうにかして吐き出そうとするように何度も浅く息をして、赤く色づいた薄い唇を舌で潤し、大きな溜息を何度か吐く。


 焦れに焦れ、さっさと先を促したくなる気持ちを拳を握ってグッと堪えて、僕はひたすら鞍馬先輩がその先を言えるようになるのを待った。


 時間にしたら数分程度の事だけど、僕には数十分にも感じられたし、きっと鞍馬先輩はその十倍長く感じられただろう。


 やがて鞍馬先輩はなにかに嫌気がさすような哀しい吐息を長く吐いて先を綴った。


「自分で自分が嫌になったんだ……」


 その先を言ってくれないので、痺れを切らした僕は促す。


「どうしてですか?」


 今度の答えは早かった。


「絵を描く事が嫌になった」


 精一杯取り繕ったのだろうけど、僕には泣き出しそうな顔にしか見えなかった。


 なぜですかと僕は問う。


 何度も何度も僕は問う。


 結局の所僕が知りたいのはそこに至った核心で、鞍馬先輩はこの期に及んで肝心な所はなに一つ語ってくれていないのだ。


 この期に及んで鞍馬先輩はその事を隠したがっていてはぐらかしたがっている。


 僕に分かるのは、どうやらそれが鞍馬先輩にとっての恥であるという事だけだ。


 それでも僕は諦めず、しつこいくらいに食らいついた。


 というか普通にしつこかった。


 貞操逆転世界の超絶美少年でなかったら、とっくに逆ギレされて追い返されていると思う。


 でも僕はこの通りの美少年だから、鞍馬先輩も邪険には出来なかった。


 鍔迫り合いのような言葉のやり取りが長く続き、僕の言の刃が少しずつ鞍馬先輩の本音に肉薄する。


「どうして教えてくれないんですか!?」

「……恥ずかしいんだ。くだらない話だよ。聞いたらきっと呆れるだろう。こう見えてボクは見栄っ張りな女だからね……。こんな話をして飴村君にガッカリされたくない……」

「そうなるくらいならいっそ黙って消えようと? そっちの方がよっぽどガッカリですよ!」

「……すまない」


 心苦しそうに俯く鞍馬先輩を見ていると僕まで胸が苦しくなる。


「……ごめんなさい。今の言葉は撤回します。僕は別に、鞍馬先輩を責めに来たわけじゃないし、責めたいわけでもないんです。ただ、理由が知りたいんです。それで、出来る事なら美術部に戻ってきて欲しいだけなんです。だって折角上手くいってたのに、理由も言わずにサヨナラなんて哀しすぎるじゃないですか! 寂しすぎるじゃないですか……うぅ……」


 鼻の奥がツンとして、熱くなった目の奥から涙が込み上げた。


 前世では欠伸くらいでしか涙が滲まなかった僕だけど、今世の身体は涙もろい。すぐ感情的になって感化されてしまう。そういう身体の仕様に僕も否応なく引っ張られる。どうあがいても僕という魂の在り方は入れ物の影響を受けざるを得ない。


 前世の価値観を多少なりとも引きずる僕だ。


 こんな事で泣いてしまうなんて恥ずかしくはあるけれど、その甲斐はあった。


 前世の男が女性の涙に勝てないように、今世の女性は男の涙に勝てないのだ。


「あ、飴村君!? そんな、泣く事はないだろう!?」


 ただでさえ普段の僕はミステリアスでクールなダウナーキャラで売っているのだ。


 感情的になって泣くなんて思いもしなかったのだろう。


 鞍馬先輩は面白いくらいに慌ててくれた。


 それはただこの身体が涙脆いだけで僕が傷ついてるとかそういうわけでは全くないんだけど、折角出てきた涙なので利用させて貰う事にする。


「えぐ、うぐ……っ。鞍馬先輩のせいですよ! 鞍馬先輩がなんにも話してくれないから!」

「飴村君……」


 鞍馬先輩は、そんな、泣く程ボクの事を思ってくれてたのかい!? みたいな満更でもなさそうな顔をした。


 チョロすぎだ。


 でも、前世の僕だって超絶美少女が自分の為に泣いてくれたら簡単に心を許すと思う。


「わ、わかったよ……。君には全部話すから、泣かないでおくれ……」


 おどおどしながら鞍馬先輩が僕の肩に触れるか触れないかの距離で掌を浮かす。


 既に平静を取り戻していた僕はここで僕の事をギュッと抱きしめられないから処女なんだぞ? とか思いながら惰性で泣き真似を続けつつこくりと頷く。


 泣き止みつつある僕を見て鞍馬先輩はホッとすると、ようやく絵を描く事を嫌になった理由を話しだした。

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