音無

うに流

音無

 気づくと、長く無機質な廊下で、私たちは横一列に並んでいた。私の右には白いスーツを着た華奢な男、左には小太りで煤けたジャンパーを羽織った男がいる。列はどこまでも伸びているが、左右の男二人以外、私には見えなかった。ただ、ざわざわとした話し声はどちらからも聞こえてくる。白スーツの男もその一人で、彼の右横にいる男と話しているようだった。

「いや、楽しみですね。聞いたところによると目も眩むほど美しいとか何とか」

「ええ、そうですそうなんです。ネットに流出した画像を見たんですがね、あれはもはや芸術ですよ」

「おや、もう見てしまったんですか」

「はは。いや、好奇心を抑えられなくてね」

 それから、彼らとは反対側にいる、ジャンパーの男も左横の男と話し込んでいた。そちらは幾分かトーンが低かった。

「ボッタクリだろ、こんなの。客突っ立たせたままとか正気か?」

「間違いねぇ、俺はだいぶ後悔してる」

「どうせ大したことないのによ、ああ俺なんで『実物撮ってくる』なんて馬鹿なことぶっこいちまったんだ」

 男は頭を抱え、地団駄を踏む。それが騒々しかったのか、白スーツの男が「お静かに願えますか」と穏やかに言った。ジャンパーの男は不機嫌そうな顔をしながらも、大人しくそれを止めた。ただ、悪態だけは静かについているようだった。


 少しして、白衣を着た端正な顔立ちの男が私の前に立った。この深海探査艇「音無」の乗組員だという。

「準備ができました。皆さんお近くの窓から外をご覧ください」

 そう言うや否や、今まで真っ暗で何も見えなかった深海(そと)が、眩い光によって黒から白へ変色した。左右の人間たちが、自分たちの目の前に位置する丸窓にぞろぞろ寄っていくのに倣って、私も白衣の男の真横にある窓から外を覗いた。両脇の男二人も、同じ窓を使っていた。

 本来黒で包まれているはずの深海は、人工的な白に塗り替えられている。しかし、それよりももっと白い影が複数、私の目の前に並んでいた。

「あれが『オトナシ』?」

 私の左、ジャンパーの男が言った。だがその姿は紛れもなく、

「美しい女性ですね」


 深海生物「オトナシ」。発する音がほぼなく、静かすぎることからこう呼ばれている。というのがこの界隈の通説であるが、本当の由来は、最初に発見した研究者の名字が「音無」だったことから、などというオチがついている。実際のところ、オトナシは音波を出して相互にコミュニケーションをとっている。ただそれが、個体ごとではごくごく微弱であり、通常の計測機器では測れない。その点で、たしかに前者の意味合いでも語弊はないとして、本来の由来ではない方が出回っているという。

 白スーツの男が、ここぞとばかりに我々に向けて解説を始めた。ジャンパーの男が鬱陶しそうに右を見やる。

「うるせぇよ。こっちは集中して鑑賞してんだよ」

 とうとう文句を言ったが、白スーツの男も負けじと言い返す。

「何の知識もなしにあれの美しさを理解できるのですか?」

「はぁ?何言ってんだお前、誰がどう見たって美人な女じゃねぇか」

 白スーツの男は、ため息をついた。あれはただの美しい女ではない、我々の欲望の反映なのだ。欲望を汲み取り、異種同種に関わらず番を引き寄せ、自らの生に繋げる。その生へのプロセスそれ自体が美しいのだ。見目に騙されてはいけない、その奥にある必然的な理由を見なさい。

 そう熱弁を振るうも、ジャンパーの男には一向に届く気配がない。欲望なんか向こうにわかるわけがない、たまたまああいう形をしているんだと。

 白スーツの男が整然とした口調で言い返し、ジャンパーの男が汚い言葉で噛み付く。この押し問答が終わったのは、ジャンパーの男が握りこぶしを作ったときであった。


 次第にあちこちの窓の周囲で、二人と同じような、あるいはまったく別の言い争いが起き始めた。それはどんどんエスカレートして、やがて取っ組み合いになった。

 私の両脇の二人も、すでに殴り合い蹴り合いを繰り返し、壁にゴンゴンと身体を打ち付けている。

 白衣の男はそこから離れるでもなく、黙ってその様子を見ているだけだった。私も同じようにしていた。

 男たちの争いの向こうで、白い影たちがゆらゆらと揺れている。


 それからしばらく経った。

 白衣の男が呟いた。

「そろそろかな」

 その言葉を皮切りに、丸窓がカッと眩く光った。まるでこちらから出している光が反射されたかのように。あまりに強い光に、私は数秒目を閉じてしまった。

再び目を開けると、そこには女がいた。

壁の向こう側にいたはずの女、いや、オトナシだった。壁には何の穴もない、ただ、向こうから通り抜けてきたのだ。男たちはみな、先程までの激情を忘れ、呆然とオトナシを見ている。ポタポタと、オトナシから水が滴る音だけが聞こえている。

 白衣の男が笑った。それが合図となった。


 端のほうから男たちが食われていった。一撃で全身を引き裂かれ、頭から吸収されるので、彼らは叫ぶ隙も与えられなかった。

右から左へ、左から右へ。オトナシは潜水艇の中を自由に動き回る。それはそれは静かな虐殺だった。数分ほど経って、再び丸窓が光った。もう一人、また一人とオトナシが増えていき、視界だけが華やかになっていく。だが華やかになったかと思えば、真白に戻ったりする。赤と白が交互に点滅していた。そしてとうとう、白スーツの男と、ジャンパーの男、私、それから白衣の男だけになった。

しかしなぜか、オトナシは我々を見て行動を躊躇った。それに乗じて、白スーツの男がすかさずペラペラと喋りだした。

「い、いや、あのですね、我々は別にあなた方を鑑賞しに来たわけではなく、ええそう、友好関係を結びにきたわけでして」

 だが数秒の説得虚しく白スーツの男の首が消えた。ジャンパーの男が、耐えきれず悲鳴を上げ、白衣の男にしがみついた。

「話が違うぞ!こんな、こんなのは書いてなかった!」

「いえ、ちゃんと同意書に書いておきましたよ、『いかなる事態になっても責任は一切負いません』」

「そ、それは!船の事故とかで!」

「ええ、だからこれも『事故』です」

 ジャンパーの男の頭も消えた。服も、肉も、骨も、床に散った鮮血すら。その様子を見ながら、白衣の男が言った。

「あとは僕だけですね。ですがもう少しお話したいことがあります。僕についてきていただけますか、音無先生」

 目線は私に向けられていない。というより、位置がわからなくてそうせざるを得ないように見えた。私は彼のあとに続いて操縦室に入った。あのどこまでも長く続く廊下を、どう抜けたのかはわからない。


 彼は、オトナシの苦手な音波を出す装置を持っていて、それゆえ襲われないらしい。しかし、それは好んで襲ってはこないというだけで、彼女らが本気になれば、こんなものガラクタに過ぎない。彼はモニターを見つめたまま言った。操縦席には誰も座っておらず、およそ乗組員と呼べるのは彼だけだそうだ。

「オトナシを発見したのも、この装置を作ったのも、この奇妙な潜水艇を設計したのも、実はあなたなんですよ」

 彼は、隣に座った私のことに気づかないまま、話を始めた。


 二年ほど前、音無という研究者であったあなたは、オトナシと我々の間にある、決して破壊できない壁を見つけました。

 オトナシは、音を好みます。中でも、未来や過去を想起する音、議論する音、争う音が好物です。今日潜水艇に餌としてやって来た彼らが、まさしくその例にあたるでしょうか。つまり、オトナシは我々にとっての天敵であり、さらに人間である以上克服できない点を特に好んでいるのです。

 あなたはこれを克服し、よりオトナシの観察に特化した個体になるため、ご自身の存在そのものを変えられました。

 それすなわち、完全な傍観者となることです。

 ある程度の基本的知識や言語能力を保持したまま、「事実のみを受容する存在」となることに成功したあなたは、しかし自身の定義すら忘れ、また突如として我々の目には見えなくなりました。

 僕が推察するに、あなたはそうなった瞬間から別の世界にいます。我々の世界と重なってはいるものの、混ざり合ったりはしないのです。ゆえに、双方向的なコミュニケーションが不可能となり、僕らにはあなたがここにいることすらわからなくなりました。

 僕が今あなたを認識できているのは、この装置のおかげです。だって、これはあなたのいる世界の音波を拾って、増強させているだけですからね。ほら、目盛りがブレているでしょう。あなたがここにいる証拠です。


 彼は私の肩のあたりに触れた。しかしそれは、掠めただけに過ぎなかった。彼は私に触れられない。


 双方向的、と言いましたが、もしかするとあなたの方が少しばかり優位かもしれません。あなたの行動は基本受動的ではあるものの、我々の指示通り動かれますから。きっと聞こえているのでしょう、僕の声は。

 あなたは一体なぜここにやってきたのでしょう。僕の仮説が正しいのであれば、あなたに目的というものはない。しかし、事実、あなたは何かに「動かされている」。奇跡があるというなら、今日はそれに縋ってでも聞きたい。あなたはなぜこの潜水艇にやってきたのか。


 答えは出ない。私には出せない。

 それがなぜかすらも、私にはわからない。ただ事実だけが通り過ぎていき、私はもはや彼が最初に話していたことをまったく覚えていない。

 彼が装置の電源を切って、席を立った。彼の視線の先に、オトナシがいた。彼女たちはまるで音を立てない。彼はオトナシをただ見つめ、優しく微笑んでいる。

「僕は食われます。一生好かれることのないあなたと違い、彼女たちに好かれた結果食われるのです。ああ、心配は無用です。明日からは別の僕が来てくれますよ」

 男は頭から食らいつかれた。あとには死体すらも残らなかった。


 気がつくと、潜水艇が動き出していた。潜水艇の内部を歩き回ってみたが、ここには私一人しかいない。永遠に続いているかのごとく長い長いこの船に、私一人。

 私はふと、丸窓から外を覗いた。それがいつからか私の習慣であった。

 深海は暗い。何も見えていない。しかし、何だか小さな小さな音が聞こえるのだ。

「オン、オン、オン」

「オン、オン、オン」

 聞こえるはずのないそれは、私の脳の中で響いている。


オン、オン、オン。


 もしかするとこれが、かつての私の目的だったのかもしれない。こうまでして聞きたかった、オトナシの鳴き声。彼女たちは呼んでいるのだ、私を。

「オン」

思わず呟いた。

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音無 うに流 @onegin

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