第5話

 夜。

 あずねぇは今、お風呂に入っている。

 女性の入浴時間は長い。

 彼女は私よりも髪の毛が長い。ということは、その分だけ私よりも髪の毛の手入れに時間を要する。

 男の人……っても、比較対象はお父さんしかいないが。とにかく、お父さんの入浴スピードは異次元的だ。ちゃんと洗ってんの? って訊ねたくなるくらいには早い。あずねぇとは雲泥の差だ。

 その差があるのか、それとも気遣われているのか。明確な理由は知らないし、知ったこっちゃないし、そもそも知りたくもないが、一緒にお風呂に入らない。私の前でイチャイチャするのはやめよう。みたいな取り決めをしていると、考えるのが自然だ。なによりもスッとそういうことかーと納得できる。


 私はお父さんの目の前に座る。机を挟んで向かいにいるお父さんはリモコンを机上に置いてこちらへ視線を向けた。

 逃げたくなる。私はかなり臆病だなって自覚する。でもここで逃げたらダメだ。そう自分に言い聞かせて、ぎっとお父さんを睨む。

 睨まれたお父さんは深く息を吐いた。


 「お父さん」

 「おう。改まってどうした」


 果たして、改まっていただろうか。

 少なくとも私にそんなつもりはなかった。

 若干の重々しい空気があったのは否定しないが。


 覚悟はできていた。

 今更逃げないように。逃げるつもりはない。正々堂々、正面から言葉をぶつけてやる。そうやって意気込んで、ここまでやってきた。なのに。


 「……」


 乗り気なお父さんを見ると、みるみるうちにやる気そがれていく。

 馬鹿馬鹿しさが私を襲う。なにやってんだろうって。

 今からこの人に攻撃しようとしていると考えると尚更。


 逃げ腰になり、ぱしんと頬を叩く。じんわりと痛みは広がって、解けるように消えていく。


 「お父さん」

 「はいはい」

 「はっきり言うけど……良い?」

 「仮にダメって言ったら引いてくれるのかな」


 私は首を横に振る。

 ダメって言われたから、じゃあ言わない。と、なるほど軽い覚悟じゃない。


 「じゃあぶつけたら良いさ。それで美咲の気分が晴れるのなら。むしろぶつけて欲しい」


 屈託のない笑み。真っ直ぐな眼差し。

 冗談でも、皮肉でも、挑発でもない。本気で、お父さんはそう思っている。それが伝わる。この言葉と表情だけで伝わるのは親子だからなのだろうか。

 そんなのはどうでも良いか。

 今、私は癪だなと思った。もうちょっとわかりやすい言い方をするのならば、腹が立った。


 やる気を喪失させる。そういう作戦であるのなら、お父さんはかなりの策士である。

 もっともそこまで考えているとは思えない。考えるような人とは思えない。


 ただここでやる気を失ったからといって、なにも言わない。それは負けたような気分になる。

 我ながら、とても面倒な性格だなと思う。


 「お父さんさ、どういうつもりなの?」

 「なにが? 美咲はいつも主語がないよ」


 冷静かつ平然と指摘してくる。

 私との温度差にまた腹が立ってくる。私、イライラし過ぎかも。

 でも今日……というか、今だけは許して欲しい。

 イライラしないとやってられないから。


 「あずねぇと結婚ってどういうつもり?」

 「それかぁ」


 困ったように髪を触る。


 「自分の父親がロリコンとか考えらんないんだけど」

 「ろ、ロリコン……って」


 面食らっている。

 でもなにか間違ったことを言っただろうか。否。なにも間違っていない。

 三十前半の男が、二十代前半の女と結婚。定義的に考えれば、ロリコンという枠は外れるのかもしれないが。世間一般的に見たら、怪奇の目に晒されるものであるのに変わりない。ギリギリ犯罪じゃないだけ。それだけで、気持ち悪いという事実は残る。


 「言って良いことと悪いことが――」

 「事実でしょ」

 「たしかに……美咲からしたら十一歳差は大きいかもしれないがな、大人からすれば十一歳差なんていうのは誤差の範疇なんだよ」

 「誤差じゃないでしょ」

 「四十歳と五十一歳って考えてみてくれ。誤差だろ」


 そんなこと言ったら、一歳と十二歳は誤差とは言えない。基準が違えば、感じ方も変わってくる。お父さんの理論は理論として成立していない。


 「とりあえず、お父さんはキモイ。そんな年下……しかも昔から知ってる子と結婚って。頭おかしい。おかしいよ」


 貶すことが目的になっていた。

 とりあえず殴る。言葉で殴る。


 「……」


 ガラッと洗面所の扉が開く。

 やりとりをしている間に、あずねぇはお風呂からあがっていたようだ。

 若干濡れた髪の毛に、化粧水と乳液を塗って艶やかに保たれている肌、緩い感じの部屋着。そして睨みつけるような視線。


 「あずねぇ」


 怖くて、ぽつりと名前を呼ぶ。


 「美咲ちゃん。どういうつもり?」

 「その……あずねぇと結婚してるお父さんが気持ち悪くて……。年下の子を誘惑して、騙したりしてるんじゃとか……」

 「美咲ちゃん。私はね、子供じゃないの。立派な大人。自分で自分のことくらいしっかりと判断できるの。物事の善悪とか」

 「……」

 「だから、私と結婚したからってだけで責めるのはやめて欲しいかな」


 私はなにも言えなかった。

 あずねぇの指摘はもっともであって、あずねぇがそれで良いと言っているのならば、私には出る幕が一切ないからだ。

 私は一体なにをしているのか、なにがしたかったのか。

 後悔をし、混乱もする。


 どうしたら良いのか、どうすれば良いのか。

 アミューズメントパークで迷子になり八方塞がりになっている子供のように困って、そして自分の部屋へと逃げた。

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