第3話

 朝食を食べ終えた私はそそくさと自室へと戻った。

 逃げ帰った、という表現の方が適切か。

 場の空気に耐えられなかった。昔良くしてもらったお姉さんが実父と幸せそうに結婚生活を送っている。その姿を見て、その空気に当てられて、平然としていられるほど、鈍くはない。

 明らかに異常な空間であって、そこに私が居座ってしまえば、私もおかしくなってしまいそうな気がした。毒される。そういう未来が見えた。だから逃げ帰った。勇気の逃げである。


 同時にわかったこともある。

 あずねぇは自分の意思でここにいるのだと確信した。

 少なくとも私のお父さんがなにかした、ということはない。無理強いは絶対にされていない。それだけは自信を持って言えた。

 もしかしたら洗脳とかされているのかもしれない、と頭の片隅にぼんやりと思ったりするけれど。そんなこと言い出したらキリがない。どうしようもなくなってしまう。

 それにあの空気を見たあとにあれこれ勘繰るのは無粋だなとも思う。


 だからもうやめだ。

 怪しいと訝しむのも、触るのも、なにもかもすべてを。

 触らぬ神に祟りなしとも言うし。





 家を出る。

 数歩歩いたところで、あずねぇは「いってらっしゃい。気をつけてね。美咲ちゃん」と声をかけてくる。

 どういう反応をすれば良いのかわからずに、立ち止まる。素直に「いってきます」と返事をするのが正解なのか、それとも苦笑しながら手を振り返すのが正解なのか、それともその両方をこなすのが正解なのか。

 小さい脳みそをフル回転させる。

 そして結論を出す。


 「ども」


 自分でもビックリするほどに野太い声でぼそっと反応をし、ぺこりと会釈をして、その場を立ち去った。

 やってから果たして正しかったのか、という疑問は芽生えるが。

 まぁ無視をするという第四の選択肢と比べれば明らかにマシである。

 だから良いんじゃないだろうか。そうやって私自身に対して無理矢理言い聞かせた。




 家を出て、緑色に塗られたアスファルトの上を歩き、角を曲がる。

 そうすると金髪がひらりと目の前で揺れた。


 「おはよう」


 と、私は躊躇無く声をかける。


 「美咲。おはよー」


 とてもこれから学校に行くとは思えないほどの爽やかな笑顔を見せてくれた。憂鬱さを一ミリ足りとも感じない。隠しているだけなのか、はたまた学校に行くのが楽しみなのか。後者であるのなら羨ましい限りだ。


 「んんー?」


 彼女はしゃがんで、下から私の顔を覗き込む。

 上目遣いをされた。

 ちょっとばかり気恥ずかしさが私を襲って、つーっと合わせていた目を逸らす。


 そんな私の動きを見て、彼女はクスクス笑う。思わず視線を戻す。


 「な、なに……」

 「いいや、恥ずかしそうだなーと思ってね」

 「恥ずかしい……いや、それは……まぁ。恥ずかしいけれど」


 否定しようと思ったが、頬を触った際に手のひらへと伝わってきた頬の熱を鑑みて、否定するのは無理だなと判断し、素直に認めることにした。

 認めると、彼女は今までよりもわかりやすくニヤニヤし始める。

 なんだよ、と思うけれど。どうせ、私が恥ずかしがっていのが面白かったとか、そんなところだろう。問い詰めて、吐かせたところで苦しみを味わうことになるのは私だ。辱めを受けるような趣味はない。

 しかも道端で。


 「というか、それって今のことでしょ? 違う?」

 「バレた?」


 舌をちろっと出す。ピンク色の柔らかそうな舌が見えた。

 小悪魔みたいな表情を繰り出す檸檬はとても可愛い。じゃなかった。なにを同性の同級生に対して思っているのだろうか。この感情を私が抱いて許されるのはアイドル相手くらいだ。

 アイドルに対して可愛いって思うのはしょうがないというか、むしろそれが当たり前というか、なんなら可愛いって言わないと失礼にあたるよねっていうか。とにかくそんな感じ。


 「ただね。なんか上の空だから。昨日も上の空だったのに今日も……昨日以上に上の空でね。悩みでも抱えているのかなーと思っているわけですよ」


 指をクルクルさせながら受け答えをする。


 「間違ってた?」

 「間違ってはないよ」


 そう。決して間違ってはいない。むしろ正解。大正解である。悩みは抱えている。果たしてこのまま抱え続け、それを見て見ぬふりできるのか。正直わからない。

 少なくとも今ここで元気良く「できる」と断言はできない。

 断言できればどれほど良かっただろうか。


 「……」


 檸檬は私のことをさらにじーっと見つめる。


 「今度はなに」

 「お悩み相談室でもしてあげよーかなと思ったんだけど、やめとこうかなって。今思った」

 「ふぅん……?」

 「なんというか。違ったら違ったで良いんだけどね」


 と、前置きをする。

 照れを隠すように金色の髪の毛をくるくる触る。


 「あまり詮索して欲しくなさそうだったから。やめとこうかなって」


 檸檬はきっと、私が思っている以上に人のことを良く見ている。しっかりと観察している。


 「そうだね。その通り。詮索しないでもらえると、私としては物凄く助かるかもしれない」


 ある種の助け舟。

 それに私は全力で乗っかった。


 「だよねー。そう思った。良かった良かった」

 「うん」

 「……」

 「……」


 空気が重たい。

 こうなったのは必然だ。

 腫れ物を放置したに等しい。こうならない方がどうかしている。

 で、黙る。そうするとさらに空気が重たくなり、喋るのに体力をいつも以上に消耗してしまう。


 「学校行こう」


 学校の方を指差す。

 原因を作ったのは間違いなく私である。だから解消するのも私でなければならない。

 そういう思考の元、体力を使い果たすくらいの気概で声を出した。

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