第31話 舜雨は、物語に自分を見た
「陛下から言伝を預かっています。『同情で残って、大切なものを見失うようなことはするな』と」
そうか、と俺は返した。
最初から直は、俺たちを宮廷に留める気はなかったのだ。
『私は、彼女に押し付けるためにここへ呼んだんだ』とは、とんだ嘘つきもいたものだ。晨星の秘密を知っても、直は理高郎の娘として扱うことはなく、『昕文昇の娘』である晨星として利用していたのだった。
「面と向かったら、何も言えなくなるからと、陛下から頼まれました」
「友人と一緒にいたいと思うことは、同情か?」
俺が尋ねると、皓は赤い目を丸くした。
その後、頬を緩めて笑った。
「いいえ。僕も、一緒にいたい人がいたからここを選びました。同情じゃないと思います」
その一緒にいたい人というのは、玲と呼ばれた女官のことだろうか。尋ねてみたかったが、やめた。興味本位で諜報員の過去に踏み入るわけにはいかない。
「でも、同情って何なのでしょうね」
皓が言う。
「皆別の人間なのに、同じ情というのは存在するのでしょうか。人の心なんて見えないから、不確かなものなのに」
その通りだと、以前の俺なら頷くだろう。特に、殺手であった頃の俺ならば、刃物と流血の量と死体の数だけを信じていた。
――そうではない、と思い始めたのは、昕家に来て一年が過ぎた頃だった。
晨星が殺し屋の物語を話してくれた。
家族も友人も趣味も感情も何も持たない殺し屋が、とある作家の小説によって感情を手に入れる。やがてその作家と出会い、次第に変化していく自分に戸惑い、その感情の揺れによって大切なものを失う不安に駆られながらも、他者にもそのような不安があると気づき、『人を殺したくない』と殺しを辞めていく。
その主人公の感情の動きは、まるで自分のようだった。
『その物語を書いたのは、殺し屋なのか?』と聞くと、『多分違うと思う』と返された。
『私の国では、実際はそうじゃないけど、殺し屋も傭兵も、小説の世界だけのような感覚だった』
その事を聞いて、頭を殴られた気がした。
別世界だからか、別の国だからか、あるいは架空の出来事だからか。起きる事件や仕事内容は荒唐無稽だった。
けれど感情には現実味があった。
人は体験していないことも、ここまで現実味を持って描けるのかと、驚いた。
まだわずかにあった境が、とっぱらわれていくようだった。
晨星に頼んで、文章にしてもらった。彼女も全てを覚えているわけではないので、覚えていないところは頭を悩ませて埋めていた。
その物語を、何度も何度も読み返した。四書五経は音読して読んでいたが、その話だけは口にせずに読んでいた。声にしなくても、頭の中で、彼らの声や、彼らが聞いている風や海の音が聴こえてくるようだった。
いつの間にか俺は、その主人公と同じ事をしていた。
誰かを助けたり、誰かの話を聞いたり、自分のことより他者を優先するようになった。
真似をしたかったのだろうか。真似をして、殺しを辞めようとしたかったのだろうか。滑稽だと、我に返って思う時もあった。
あれは架空の物語だ。
幸福であれと望まれて作られた物語だ。俺は、主人公のような結末にはなれない。
だが、主人公を導いた作家のような存在は、いないとは言いきれなかった。
晨星を殺しかけた時、俺は心から後悔した。
その後悔は、主人公が抱いた、遺された人間への想像に繋がった。かつて俺が殺した人間には、こんな想いを抱えて遺された人間がいる。筋書きをなぞるだけの理解は、強い痛みとともに思い知らされた。
物語は、自分の中にある感情を伴って、ようやく本当の形を理解した。
それは元からあったものなのか、晨星やその物語によって植えられた感情なのかはわからない。俺にとっては、どちらでも構わない。ただ。
『私さあ、舜雨くんが「面白い」って言ってくれるなんて、思わなかったんだよ』
告白したあの日、俺は思い切って、あの時なぜ身体を張って止めたのか尋ねた。
その時、晨星はそう言った。
『「面白い」とか「楽しい」って感覚、人それぞれだし、教えるのなんて無理だし。一度理解してしまえば、読みたい方向性とかジャンルとか分かるけどさ。
だから……なんだろう。大切なものとか、楽しいって感覚とか、君と一緒で嬉しかったな』
『あの話、とても好きなんだ』そう言って、晨星は俺の手をとった。
『なんか、言って欲しい言葉とか、信じたいこととか、肯定されたみたいで。綺麗事だけど、その綺麗事がちゃんとこの世界にあるんじゃないかって、そう変えて行けるんじゃないかって、思わせてくれるというか。
だから、あの話を面白いって言ってくれる舜雨くんなら、……架空のお話が、現実になるんじゃないか、なんて思った』
物語が現実になれると信じているのは、俺だけではなかったのだと知った。
心は見えないが、不確かでは無い。見えないからこそ、どれだけ何かを知って諦めて、自棄になったとしても、何かが譲れないとどこかで叫んでいる。
それが夢物語だとしても。
「出来るはずがない」から、「本当にしたい」と、心から思った。――
「全てを答え合わせのようにして見ることは出来ないかもしれないが、限りなく近いものを見ることは可能だと思う」
俺がそう言うと、「そうですかね」と皓は言った。あまり本気に取られていないのがわかった。
歯がゆいと思った。伝えるというのはこんなにも難しい。これだけ確かなものだと自分は確信しているのに、言葉にしようとすれば何かが壊れそうだった。
晨星が生まれた日に小説を贈答して欲しいと頼まれた時、俺は戸惑った。
全く文章が浮かばなかったからだ。
悩んだ俺に、晨星は『エッセイ……日記も可!』と付け足した。
そうやって悩んで、俺は思いつくまま書き出していった。
それは文章とも言い難い、情報を羅列したものだった。
晨星が語るような、あるいは彼女が子どもたちに即興で作った物語のように、起伏や余韻があるわけでも、感情豊かでも、語彙力があるわけでもない。蛇足と道草が交互に現れるような、自分の思考をそのまま書き下ろしてしまったような。今読み返せば恥ずかしくて燃やしてしまう代物だ。
そんな短編を、晨星は宝物のように受け取って、丁寧に装丁し、本棚に置いていた。
俺はまだ、晨星が語ってくれたような物語を書くことは出来ない。
けれど俺が突き動かされたあの物語のように、誰かに確かなものを伝える物語を書いてみたい。
願わくばそれが、目の前にいる少年のような存在に、夢を現実に変えられると思わせられるような衝動を。いつか。
「それで、どうなされるつもりですか?」
皓は尋ねてきた。
「宮廷を去りますか? ――それとも」
「……それは、晨星によるな」
最も彼女の答えは決まっているだろう。
なぜなら彼女は、仲間はずれにされることを嫌がっている。
俺としては、歳的に自分が一番仲間はずれにされている気がするが。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます