第15話 昔のことと彼は言った①
待ち人が来たことを知る理由なんて多くはない。声を掛けられるか、肩でも叩かれるか。直接に目にしてなんてこともままあるだろう。
他人の声から察することも、ないではないのかもしれない。それにしたって婦女子の黄色い声に知ることはそうそうないはずだ。
「うっそ、見てあれ。やばくない?」
「ちょっとそんな、盗み見みたいなことよくないよ」
「そう言いつつあんただってガン見じゃん」
近くの推定女子大生のお姉さんたちがひそひそと交わす会話は俺にはばっちり届いていた。
あーいやだ。すっげーいやだ。いますぐダッシュで帰って昼からシャワーでも浴びて部屋に差し込む日の光に包まれて惰眠を貪りたい。畳がいい。畳の上でごろんと大の字になってうつらうつらと微睡んでいくんだ。
現実はそうはならないけれども。
「や、待ったかい」
俺の空想をぶち砕いて、その人は白い歯を見せて爽やかな笑顔を浮かべた。小さな悲鳴はお姉さんたちのもの。
高身長に不釣り合いな小さな顔を乗せ、細身ながら筋肉の躍動を感じさせる体躯。金色の髪を軽く払った男はシンプルなシャツとデニムパンツだけでそこらのモデルよりも様になっている。
「待ちすぎて尻がくっついちゃいました。動けそうにないので今日はもう解散とかどうですかね」
「そんなに煙たがらなくたっていいじゃないか。と、そんなことより久しぶりだね航、元気にしてた?」
「まー普通に。見てのとおり特に変わりありませんよ」
「とんでもない!」
優里さんはオーバーリアクション気味に腕を広げる。すっかり向こうに染まったものだ。元々こんなものだった気もするが。
「大きくなってる。背丈だけじゃない、顔つきも凛々しくなったね。それに以前よりずっと、落ち着いている。男として、航はちゃんと大きく成長しているよ」
「それはどうも、ありがとうございます」
半分は反感、もう半分は本心。俺が言葉に乗せる感情はひどく歪だ。
「うん。こうしてまた会えて嬉しいよ。さ、行こう航。いつまでもここにいたって仕方ない」
純粋なことだけは疑いようのない優里さんの言葉に太刀打ち出来るはずもないのだ。
集合場所は駅前広場で、ここから十分ほどを歩く事になる。並んで目線が大きく違うわけではないが、歩くスピードは明らかに俺の方が早い。速度ではなく足を取られる頻度の差だ。
「あれ? 航、あそこは中華屋じゃなかったか。そう、老夫婦の営む町中華だったはずだ。覚えてるかい、何度もそこで反省会をしたものだよね。ああ懐かしいな。航はよく泣いていたっけ」
「さらっと捏造しないでください。泣いてはいなかったです。……町中華はちょうど一年前に閉店しましたよ」
「そうか。……残念だ」
どうしようもないこと。仕方のないこと。そういったものは街のどこにだって転がっているというだけだ。
「このあたりは、航よりももっと変わってしまったね。いや、悪いというんじゃない。ただ……僕の知っている街ではなくなったことが少し寂しいだけなんだ」
「そりゃ三年もすれば変わるところは変わりますよ」
「そう、三年。三年か。長かったね。ところで三年ということは航、君はもしかしていま高校三年生かい?」
「そりゃ、三年経ちましたからね。受験に向けて日々、勉強頑張ってますよ」
「違うそうじゃない! そうじゃないよ航!」
優里さんは急に立ち止まると少々大きめの声をだした。おかげでちらちら程度の視線がはっきりと注目に変わってしまった。目立つことしないでいただきたい。
「航……君は……セックスは経験したかい?」
「……してないっすけど」
突拍子なさすぎてうっかり答えてしまった。
優里さんは額に手を当てて嘆いている。いくつかの視線の温度が変わった。こう、生温かい感じに。帰りたいなぁ。
「そんなことだろうと思ったよ」
うるせぇわ。誰が童貞顔じゃ。
手を突き出して何を制止しようとしてるんだかわからない優里さんは放っておいて今すぐ帰りたい。せめて場所変えたい。
「いい。世の中にはどうにも出来ないことはある。月に絵筆を走らせられないように、実現できないことというのはあるんだ航」
とんでもない罵倒を浴びた気がする。
「あの、優里さん、やめませんこの話」
「その気持ちも分かる」
たぶん絶対わかってねぇわこいつ。
「僕に任せてくれ」
「まか……は、どういうことですか優里さん」
「何も言うな言わなくていい。君は安心していればいい。何も気にすることはないんだ」
「いやいやいや気になるっての。どういうことですか。なにを安心すればいいのかマジでさっぱりなんですけど!」
「はっはっはっ。気負わずいこうじゃないか。ところで航は年上と年下ならどちらが好みだい? ああもちろん、純粋に見た目の話だ。抱くならどちらがいい」
「……ああもう。そんなのどっちでも……別にいいっすよ」
後輩も先輩もアリだ。浮かぶ二つの顔は思いっきり頭を振って霧散させておいた。
ああすごいものすごい罪悪感が……。
「急に青い顔をしてどうしたんだ」
「なんでもないっすよ。道、そっちじゃないですから。なんで道わからないのに先行くんですか。俺の後についてきてくださいよ、ちゃんと。よそ見しないで」
「むっ。まるで僕が小さな子供みたいに言うね」
ある意味そうでしょうがと心の中には呟いておいた。
こっちです、と先導して歩道を進む。しばらくは使っていなかった道だが、迷うようなことはありえない。
「やっぱり大きくなったよ、航。……どうかな? このまえの話は。あの時はすげない答えだったが……改めて、考えてみてもいいと思うけどね。君が語ったことの一つだろう?」
「……昔のことですから」
大きくなったのだと、他ならぬ優里さんが言ったことだ。四年前にすら小さなものだった未来図は、俺が大きくなるにつれもっともっと小さくなってしまった。小学校の鉄棒を低く感じるように。横断歩道の白線を容易く跨いでしまえるように。
優里さんと同じ目線で、歩いているように。
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