第14話 胡散臭い男
父の死から半月経ち八月に入った頃から、母は頻繁に外に飲みに行くようになり、飲み屋で意気投合したらしい
岩淵は五十代半ばで、経営コンサルタントをしているらしい。
家庭を持っているかは聞いた事がないが、春佳と同じぐらいの子供がいてもおかしくない歳なのに、そんな大人がだらしなく他人の家に入り浸っているのがとても嫌だった。
岩淵は洒落た服装をしているが、それを見ると余計に『胡散臭い』と感じてしまう。
春佳が家庭教師のアルバイトを終えて、家に帰るのは二十二時過ぎだ。
相変わらず彼女は母に束縛された生活を送っているが、大学生になってからアルバイトをする許可を得て、門限を二十二時半まで延ばしてもらった。
一分でも帰宅が遅れれば雷が落ちるので、門限は徹底して守るようにしている。
春佳はどう母に接したら、なるべく機嫌を損ねずに済むかを熟知していた。
回避できない癇癪はあるものの、ルールを守り丁寧に接したら大体うまく過ごす事ができる。
だが岩淵が瀧沢家に入り浸るようになり、春佳のささやかな平和が破られた。
母は岩淵とリビングで飲み交わし、さほど面白くないテレビを見て馬鹿笑いをしている。
ノーブラでしどけなく岩淵にしなだれかかる母の姿を見ると、何とも複雑な気持ちになって正視していられない。
(ちょっと前まで、この家にはお父さんがいたのに)
春佳は自分が抱いている反感、嫌悪感は正当な理由があっての事だと思っている。
だが母にはちょっとやそっとの事では誤魔化せない悲しみがあり、彼女はそれを岩淵を利用して癒している。
気持ちは理解できるが、嫌で堪らなかった。
岩淵は他人の家に上がっている遠慮がなく、冷蔵庫を平気で開けるし、我が家のように風呂場を使う。
そんななか、何回か風呂場で岩淵とニアミスし、ヒヤッとした事もあった。
誰かが風呂に入っている時は、洗面所のカーテンが引かれているので一目見れば分かるはずだ。
普通なら誰かが風呂に入っていれば遠慮し、洗面所に用事があっても待つものだ。
なのに岩淵は平気で洗面所に入って歯磨きをし、春佳が風呂場のドアを開けて悲鳴を上げたのを聞いて愉快そうに笑う。
春佳も重々気をつけてはいるのだが、直前までシャワーを出している上、ボイラーが動いているので、岩淵が立てる物音を分からずにいる。
浴槽に浸かっている間、外の音に耳を澄まして十分に時間をとっているはずなのに、いつのまにか岩淵は洗面所に忍び込み、音を立てないように潜んでいるのだ。
「岩淵さん、お願いですから、私がお風呂に入っている間は洗面所に入らないでください」
パジャマ姿の春佳は、強張った表情で、母の肩を抱いて我が物顔でふんぞり返っている岩淵に言う。
「いやー、ごめんね。春佳ちゃん。お酒飲んでるから口臭が気になっちゃってさ。仮にも女性が二人いる家だし、気を遣わないといけないでしょ?」
岩淵はわざとらしく髭を弄り、陽気なおじさんを装って言い訳する。
母の客人に文句を言えば、彼女が激怒するのは分かっていた。
けれどきちんと釘を刺しておかなければ、いつか取り返しのつかない事が起こってしまいそうな気がする。
だから勇気を出して言ったのに――。
「春佳っ! あんた岩淵さんに色目使ってんのんかい!」
母が声を荒げ、立ちあがる。
「まぁまぁ、涼子さん。僕が悪かったんだから、そう怒らないで」
岩淵は陽気な声で言い、涼子の腕を引く。
「春佳ちゃんも年頃だから、同じ家に男がいたら意識しちゃうよね。ごめんね」
図々しくも自分を〝男〟と言って、春佳が意識しているように言うのが堪らなく嫌だ。
「~~~~っ、……おやすみなさい」
なんでこの男は二十三時を迎えても他人の家にいるのか。
平気で泊まっていく日もあるし、瀧沢家を乗っ取ろうとしているように思えて仕方がない。
「あんた、何なの! その態度は!」
母が怒る声が聞こえたが、春佳は何も考えないようにして自室に向かい、ドアを閉めてベッドに突っ伏した。
「…………もうやだ…………」
弱々しく呟くものの、誰に助けを求めればいいのか。
家庭教師のアルバイトをしているとはいえ、入ってくる金は微々たる額だ。
高校生までの小遣いの一部を机の奥にしまっているが、一人暮らしをするには全然足りない。
今までもらったお年玉は全額母が定額貯金にしたと言っていたが、無断でおろして使えば怒られるだろう。
何をするにも自由がなく、ただ静かに押し潰され、ひそやかに殺されているように感じた。
――大人になったら、何か変わるんだろうか。
大学を卒業したら、兄のように家を出て一人暮らししたい。
自分で稼いだ金で生活し、自分のしたい仕事をする。
門限を気にせず、友達と遊んで飲み、職場の愚痴を言い合いたい。
春佳が思い描く〝大人〟は、色んなところで見たものの寄せ集めだが、それでも〝大人〟はとても自由で魅力的な存在に思えた。
「あとちょっとの我慢……」
春佳は自分に言い聞かせ、読みかけのミステリー小説を開く。
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