第13話 人に期待するだけ無駄

 春佳はただただ、母の機嫌を損ねないように、繊細な母が自分の事で悲しまなくて済むように気を遣って生きている。


 友達の話を聞いて〝普通〟の母親は子供にそう接しないと知り、どうやらうちの母親は〝毒親〟と呼ばれるものかもしれない……と思い始めたのが高校生頃だ。


 でも春佳にとって母は〝繊細だけどいい人〟で、自分さえルールを守れば怒られる事はないと思っている。


 怒っていない時の母は穏やかで、優しいからだ。


 父は相談事をしてもあまり答えをくれない人だったが、母は機嫌のいい時なら、友達と喧嘩してしまった時に慰めてくれたし、助言もくれた。


 だからいま母が荒れているのは、最愛の夫を喪い、外泊した娘を心配しているからだ。


『お前が死ねば良かった』の発言だって、父は母にとって何よりも大切な人だったのだから、そう思う気持ちは理解できる。


 自分の子供より夫を大切にする妻がいたとしても、何らおかしくない。


 ――私が我慢すればいいだけ。


 春佳は自分に言い聞かせ、柔らかな心にグサグサと言葉の刃が刺さり、血が滴っても気づかぬふりをし続けた。


 しまえば、きっと自分は傷付いて立ち直れなくなる。


 十九歳になった春佳は、ようやく自分の母が〝普通〟とは少し違っていると理解した。


 毎日のように怒鳴られ、友達とろくに遊べずに過ごしている自分が〝可哀想〟なのも分かっている。


 けど、それを自覚したとしてどうなる?


 虐待されていると分かっても、母の状態が良くなる訳ではない。


 大学の講師も『人は三十五歳を超えたら大きく変わる事はできない』と言っていた。


 母がいつから病んでしまったのか分からないが、ある日突然すべてが改善する訳がない。


 精神科に通って病名がつき、自立支援医療を受け、障碍手帳も持っている彼女が、いきなり薬が要らなくなり、元気に働き始めるなどあり得ない。


 長期的に見て『二十年後くらいにはもっと穏やかな人になっているのでは……』と思っているが、どうなるかは分からない。


 未来の事なんて、思い描くだけ無駄だ。


 自分の将来に夢を見て『こうなりたい』と思うだけならいいが、親であっても他人に『こうなってほしい』と期待してはいけない。


 兄も常々言っていた。


『他人と過去だけは変えられない。だから人に期待するだけ無駄だ。他人に〝こうやってほしい〟と期待するから、思い通りにならなくて〝裏切られた〟とガッカリする。そんな事を続けて疲弊するぐらいなら、最初から他人に幻想を持たなければいい。家族であってもだ』


 兄の考えを聞いた当時は、『随分冷たい考え方をするんだな』と思った。


 聞いた時は『ふーん』と受け流したが、心の底には留め置いていた。


 そのあと人と衝突した時にフッと兄の言葉を思い出し、少しずつ納得していった。


(お母さんに劇的に良くなってほしいとか、怒らないでほしい、打たないでほしいと望むだけ無駄なのかもしれない。……でも、家族に対して〝期待しない〟なんて言いたくない)


 冬夜のように不要な感情を切り捨てられたら、もっと楽に生きられるだろう。


 だが涼子は毒親であろうが、たった一人の母親だ。


 父が亡くなった今、できるだけ母に親孝行したい。


 ――と、〝表面〟のいい子の自分は思っている。


 けれどコインの裏側の自分は、感情の起伏が激しい母から逃れ、素直に「疲れた」「悲しい」「誰かにもっと褒められたい」と弱音を吐く事を望んでいた。


 しかし出会いのない春佳には、優しく受け入れて褒めてくれる彼氏はいない。


 それに千絵以外の友達には、あまり家庭の事情を話さないようにしている。


 高校生の時に友人に母の愚痴を言ったら、『それって毒親じゃん』と言われ、何となく嫌な気持ちになってしまった。


 事実であっても、母を悪く言われたくなかったからだ。


 友人に『毒親から離れたほうがいいよ』と言われても、春佳には生活能力がない。


 次第に、母の愚痴を言う割には何も行動しない春佳に、友人たちもなんと声を掛ければいいか分からなくなったらしい。


 そのうち悩みを話そうとしたら、話題を避けられるようになってしまった。


 そんな友人の態度を見て、兄の言葉が脳裏で蘇る。


『人に期待するだけ無駄だ』


 ――そうだね。この件に関してはそうなのかもしれない。


 納得したあとは、双方のために本音を話さない事を選択した。


 大人は、思った事をすべて言わないものだ。


 感じた事をすぐに口にして許されるのは子供だけ。


 誰にだって〝事情〟があり、人に言えない秘密がある。


 大人は相談しても解決しない出来事があると分かっているから、口を閉ざし、耳障りのいい言葉を発して上辺だけのつき合いをするのだ。


〝理解〟した春佳には、兄と千絵以外、まともな相談相手がいなかった。


 こうして母親に怒鳴られ、暴力をふるわれても、岩陰で嵐が過ぎ去るのをジッと待つ小動物のように耐えるしかない。


「お母さんの好きなプリン買ってきたから、食べようか」


 心の痛みを押し殺した春佳は、努めて微笑んで冷蔵庫を開けた。




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