第50話 救い

「お父さん……」

 恭一は呟いた。

 目の前に、あの頃と同じ姿の父が立っていた。


 そこは雪の積もったあのベンチだった。横には幼い冬次が眠っている。

 吹き荒れていた雪嵐は嘘のように止み、大きな雪の粒が、はら、はらと夜空から舞い降りてきた。


 涙で霞む目をこすり、もう一度父の顔を見た。

「何であの日、帰ってきてくれなかったの?」

 恭一は訊いた。


「こんな思いをさせてすまなかった。お父さん、お前たちを育てるお金を何とかしようと思って、あの日あるところに行ったんだ」

 父は訥々とつとつと話し始めた。


「お父さん、馬鹿だからさ。お母さんには逃げられてヤクザに借金がたくさんあったんだ。博打ですっちまった金だから、自業自得なんだ。だけど、お前たちを育てるためにはその金を何とかきれいに消す必要があってさ」


「じゃあ、ヤクザの事務所に?」

「ああ」

 父は頷いた。


 なんてことだ。

 恭一は衝撃を受けていた。あの日、あの晩――。恭一たちをこれからも育てるために、父はヤクザの事務所に行ったのだった。


「借金を無くす代わりに、タコ部屋っていうのか、強制労働所みたいなところに入れられることになってさ。お前たちがいたから、いったん帰らせてくれって言ったんだが、聞いてもらえなくてさ……」

 父の顔が一層悲しみの表情になった。


「お父さん、暴れたんだ。絶対帰るって……。そしたら袋だたきにあってな。ヤクザもきっと殺す気はなかったんだろうけど、打ち所が悪かったみたいで死んじゃったんだ」


「そうだったんだ。ぼくたち、捨てられたわけじゃなかったんだ」

 父が眉をしかめ、涙を堪えているのを目の当たりにし、鼻の奥がつんとする。父は本当に自分たちのことを考えていたのだ。だから、恐ろしいヤクザに逆らってまで帰ろうとしてくれた……。


「ああ、本当にすまなかった。あの日、あの晩、這ってでも公園に帰ろうとしたんだ。お父さんがこんなだらしないばかりに、お前たちにはつらい思いばかりさせてしまった。ごめんな」

 父の目からは涙が溢れていた。


「ううん。ぼくこそ、お父さんのことを信じてあげられなくてごめん……」

 涙がとめどなく溢れ、流れた。

「お父さんの本当の気持ちが分かっただけで嬉しいよ」

 恭一は心の底からそう言った。


 父が近づいてきて、恭一と冬次を抱いた。その体は震えていた。

 帰りたかった。お前たちに会いたかった……。


 父の想いが伝わってくる。

 恭一は泣いた。泣き続けた。


「馬鹿だな。父さん。お金なんかいらないんだよ。お父さんがいればぼく、それでよかったんだ」

「すまない。本当にすまなかった」


 恭一は、心の奥に溜まっていた呪いとでも言うべき想いが消え去り、心が愛で満たされていくのを感じていた。


 ずっと聞こえていたあの雪の晩の風の音はなくなり、心に開いていた暗黒の穴はすっかり塞がっていた。


      *


 悪魔と恭一は二人に別れていた。

 周りには、粉々になった透明な鎖の欠片が大量に散らばり、二枚に破れた羊皮紙が青い炎に包まれて燃えていた。


「な、なぜだ? なぜ、契約が解けた?」

 悪魔は床に手をつき、喘ぎながら呟いていた。


 恭一の側には父親の霊が立っていた。

 父親も恭一も、笑顔で涙を流している――


 ルイが恭一の父親の霊を降ろし、虎徹が恭一の心の奥底に眠る父親への愛を引き出したのだ。


 恭一と父親の間に何があったのか、そしてここで何が起こったのか、俺と虎徹は瞬時に悟っていた。


 恭一は父親への深い愛と裏切られたという悲しみから闇に落ちていた。そして、力への妄執が悪魔と恭一を結びつけていたのだ。


 俺が恭一と父親が話をしているのを見つめていると、

「竜一、大丈夫か?」

 と、虎徹が訊いた。


「ああ。少しうらやましいけどな」

 俺は頷きながら、恭一と父親が話をしているのを見つめていた。


 すると、

「おのれええ……これで終わると思うなよ……!!」 

 悪魔が息も絶え絶えに叫んだ。

 途端に、地獄の穴から真っ黒な腕が幾つも悪魔に向かって伸びた。


 それらは悪魔に巻き付くと、体の中に溶け込んだ。そして、黒田が変化した蜘蛛の化け物も悪魔に飛びつき同化した。


 萎み始めていた悪魔の体が、一転して大きく膨らむ。このフロアに散らばっている魔力を自分に集中しているのに違いなかった。


「使い魔ども生け贄だッ!! あいつを我に捧げよッ!!」

 悪魔が指し示した方向に目を移す。すると、そこには無数の蝙蝠の化け物に囲まれた由里子がいた。


「あれも、かなりの力を持っておる。捕まえるんだッ!」

 無数の蝙蝠の化け物たちが由里子の四肢に貼りついて拘束する。そして、悪魔の背後から四本の触手が伸びた。


 くそっ! 間に合わないっ!!

 その時――

 ギギンッ!!

 硬い物同士がぶつかり合う音が響いた。


 いつの間にかやって来た浩二が、由里子の前でバタフライ・ナイフを構え、触手を払い落としていた。


「竜一くん! こっちは任せてくれっ!」

 浩二が触手の前に立ちはだかって叫んだ。ナイフを構えたまま、触手に塩を浴びせかける。


 一哉たちも駆けつけ、由里子の手足に絡みつく使い魔たちを剥がしていく。そして一緒に触手を迎え撃った。


「浩二。やるじゃないか」

 俺は安堵の息を吐くと、悪魔を睨みつけた。

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