第39話 戦いの前夜――天使と死神

 街の北の外れにある小高い山の頂上。

 そこに、ひときわ高い杉の木が生えていた。


 空には真っ黒な雲がひしめき合い、星は一つも出ていなかった。

 強い北風が吹きさらす中、そこに、通常ならあり得ない光景があった。


 一人の人影が、その細く尖る頂点に立っていたのだ。


 ルイだった。

 強い北風が吹き、黒いコートの裾が翻る。


 普通の人間であれば、バランスを取ることさえかなわないであろう強風の中、ルイは何事もないかのように、飄々とそこに立っている。


「神よ……聞こえますか? 私の話を聞いてください!」

 静かに、しかし、しっかりとした口調で夜の闇空に向かってルイが呼びかけた。

 一際強い風が真っ黒なコートと長髪を巻き上げ、体をあおる。


「神よ、ぜひとも、聞いてほしいのです。このままでは、この街が悪魔の魂の狩り場になってしまいますっ!!」


 びゅう、びゅう……

 風がますます激しく吹いた。


「いったん、そうなってしまえば、元に戻すことは困難です……お願いします。神よっ!!」

 ルイが必死の形相で叫んだ。


 ――次の瞬間

 あんなに強かった風が止んだ。


「むう」

 ルイは呟いて、辺りを見回した。周りにはびっしりと生えた木々の頂点と、星の無い夜空だけが広がっている。


 ルイはある方向を見てその動きを止めた。

 暗闇であるはずの空の一角が、徐々に明るくなってくることに気づいたのだ。


 突然、目の前に白い楕円形の光の球が現れた。

「ここの地域の状況を神はご存じだ……」

 光の玉は、そう言った。明るさを徐々に弱め、人の形を取っていく。


「天使か……」

 ルイは言った。

 天使と呼ばれたそれは、既に完全に人の形を取っていた。


 空中に浮かぶ天使と呼ばれたその人には、背中に真っ白な羽があった。体に白い布を巻き付けたその姿は、宗教画に描かれているような天使そのものだったが、あごに真っ白なひげを蓄えているところだけが異なっていた。


「前にも言っただろう。その呼ばれ方は好きではない」

「そうだったかな?」


「ああ。神の近くで働いているからと言って、偉いわけでも何でも無いのに、何かおだてられているように感じてしまうのだ。私は私なのだ。天使などという呼び名はおこがましいよ」

「じゃあ、名前で呼ぼうか?」


「いや、それも止めてくれ。悪魔の呪いに利用されても困る」

「それは、そうだな」

 ルイは笑い、天使も笑った。


「それにしても、久しいな。お主から助けを求めてくるとは、よほど切羽詰まっておるな」

 天使は言った。


「ああ、正直、困っている。不思議な縁で出会った猫と人。そして、彼らの仲間だけが頼りでな。神々の眷属の末席にいる私としては非常に心苦しいのだ」

 ルイはため息をついた。


「なるほど。何らかの助けが必要だということだな」

「ああ。神はこの世界全体を見ており、ここだけにさける力が無いことは重々分かっている。しかしだ。だからといって悪魔の企みを潰すのに人の力だけで……というのはおかしいだろう」


「確かに……」

「それに、これが全世界で起きている善と悪の終末的な戦いの一つである可能性もある」


「ふむ。ファティマ第三の予言か……今回のことが、そこへ繋がっていく可能性はほんの少しだ。用心するに越したことはないだろうが……心配はいらぬだろう」


「そうか……なあ、もう一つ質問だが、あの悪魔が何者か分かるか? かなりの力を持っているので、気になるんだが……」

 ルイが真剣な声で訊ねた。


「奴か……。訊かれるかと思って調べてきたよ。あれはな、最も古き三柱の大悪魔、ルシファー、ベルゼブブ、アスタロトのうち、ベルゼブブに近き者。地獄の三十の軍団を束ねるドラゴンの悪魔、ブネリの息子であるビゼムだ。死体を操る能力を持つと言われているよ……」


「それでか……道理でかなりの力を持っているわけだ。だが、まだ自分の強力な部下を引き連れるほどではないということか……他に情報はないのか?」


「それでは、一つ情報だ。ビゼムの狙いだが……」

 天使の声の音程がみるみるうちに、ありえないくらいの高さに変化し、さらに恐ろしく早口になった。普通の人間なら、仮に聞いていたとしても、絶対に分からない。それくらいの音の高さと早さだ。


「なるほど」

 話し終わった天使を見て、ルイが頷いた。おそらく悪魔が聞いていたとしても分からないように、悪魔の狙いを伝えたのだった。


「それと、あの銀杏の霊樹に、より一帯の力が集まるように、地中を走る地脈を活性化しておく。それで何とかしのげるか?」


「ああ、助かる。私も力を発揮しやすくなるしな」

 ルイが答えた途端、風が強くなり、嵐のように天候が荒れ始めた。


 雨が横殴りに降り始め、雷が鳴った。

「悪魔め。気づいたか……」

 天使がそう言い、空を払う仕草をした。だが、一向に嵐は止まなかった。


「もう帰っても大丈夫だぞ。ここは何とかする」

 ルイが言った、


「そうか。これくらいのことしかできず、本当に申し訳ない。だが、よろしく頼む。神には私から報告をしておく」

 天使はそう言うと、そこからかき消えるようにいなくなった。


 その途端、

 ガーンッという轟音がして、杉の頂上が燃え始めた。

 雷が落ちたのだったが、ルイも既にそこにはいなかった。


「はははははは……」

 雨の降りしきる暗黒の夜空に、ルイの乾いた笑い声が響いて消えていった。

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