第25話 決着

「何か、勘違いがあるようだが……」

 さらに殴りかかろうとする竜一を、手で制しながら悪魔が言った。


「何のことだ?」

「…………こいつはな。自ら望んで、その手を汚したんだぞ」

 悪魔は竜一に向かって唇の端を上げて言った。


「嘘をつくな! オレたちは全て見たんだ。最後、お前はこいつをそそのかすのを諦めて、無理矢理に乗っ取ったじゃないか!」

 オレは悪魔に向かって叫んだ。


「ふっ。お前らに、こいつの心の中までは見えないだろう? あの一瞬、こいつの心の中は欲望に完全に染まっていたんだぞ。なあ、お前……お前も楽しんでいたよな?」

 悪魔が男に向かって訊いた。その声にはサディスティックな響きが含まれていた。


「ぼ、ぼくは………」

 悪魔の口から、男が苦しそうに言葉を紡ぐ。


 負けるな。

 オレは心の中で祈った。ここからはお前が自分で切り開かなくてはいけない。


「おい。お前、我が嘘をついているって言うのか? そんなこと言ったら、どんな目に遭うかなあ……」

 悪魔が、耳障りな声で嘲るように言った。


 男はしばらく逡巡した――そして、口を開いた。


「ぼ、ぼく、は……ぼく、の中には、確かに、こ、子どもへの……せ、性的指向があるかもしれない」

「だろう。やっと、認めたか……」


「う、嘘をつくのは嫌だ。だ、だけど、このことで周りに……迷惑をかけたりするのはもっと、い、嫌なんだ」

「何?」


「いいか? ぼ、ぼく……は、か、彼女に恋心を抱いていたよ。確かにな。普通の人がその気持ちを聞けば反吐を吐くだろう。だ、だけど、ぼ、ぼくは、彼女、のことが……ただ……ただ、好き、なだけだったんだ」


「はあ?」

 悪魔がまた脅すような声を上げたが、男は止まらなかった。


「あ、あの時、ぼ、ぼく……が、お、お前を……はっきりと、拒否する、ことが、できていたなら……彼、女は、殺されず、にすんだんだ。ぼくは、た、楽しんでなんか、い、いない……」


 途切れ、途切れだったが、男は言い切った。男の目からは止めどなく涙が溢れていた。


「今さら、何を言ってるっ! 欲望の爆発を、快感の高まりを、お前と我は全てを共有したじゃないかっ!? 我はお前の本当の気持ちを少し後押ししただけだ。欲望を満たすのは気持ちよかっただろっ!? あの時、確かに我はお前と一心同体だったんだ」


「ち、違う。ぼくは、あんなことを望んじゃいなかった!! ぼくは、彼女のことを遠くから見守っているだけで幸せだったんだ!! あれは、あの反吐の出そうな行為は、お前の欲望だっ!!」


「何を言う! あれはお前の欲望だ! 我はお前の欲望に従っただけだっ!!」

 悪魔が叫んだ。


「う、嘘を……嘘を、つくな! ぼくにもっと力があれば! お前を拒否するだけの精神力があれば……! お前は彼女を傷つけるのを楽しんだだけじゃない。ぼくが泣いているのを見て喜んでいたっ! お前はぼくの心を縛りつけ、無理矢理にその行為を見せつけた。


 そして、今も、お前は自分がしたことをぼくがしたことだと言い含め、ぼくの罪悪感につけ込もうとしている。いい加減にしろっ! ふざけるんじゃないっ!!」


 ガシャーンッ!

 金属が砕けるような音が響いた。男と悪魔を縛りつけていた太い鎖が粉々に砕け散った音だった。

 目の前で男と悪魔の身体が、弾けるように二つに分かれた。


「よくやった!!」

 オレは歓声を上げた。


 男はついに、自分の力で悪魔を追い出したのだった。男の汚れたジーパンやトレーナーがみるみるうちに元の状態へと戻っていく。


 すぐさま、竜一が波状的な連続攻撃を見舞った。

 突きや蹴りが当たるたびに、悪魔の体から真っ黒な瘴気が弾け飛んでいく。


 悪魔の周りに蠢いていた邪霊たちも地面にひれ伏し、植物が枯れるようにしなびていった。

 男はオレたちの傍らに来ると深々と頭を下げ、女の子にも頭を下げた。


「ごめん。本当にごめんね」

 涙を流し、頭を下げる男に、女の子が首を振った。女の子も自分に何が起こり、そして今ここで何が起こったのか、分かっているようだった。


「よし。よくやった」

 死神はそう言うと、二人に手をかざした。


 目の前が真っ白に光り、二人の姿が金色に輝く細かい粒子になっていく。その粒子は、ほどけるように少しずつ消えていき、やがて完全になくなった。


「おのれえっ! 許さぬ。許さぬぞっ!」

 悪魔が怨嗟の声を絞り出した。地獄の底から響くような声だった。


 先ほどまで、強大な悪魔の姿だったのがすっかり縮み、真っ黒なオオトカゲのような姿へと変貌している。黒く光る粘膜に包まれたその姿は、さらに醜悪になっていた。


「許さないだと? こっちの台詞セリフだぜ」

 竜一が吐き捨てるように言って、踵を悪魔に踏み下ろす。


 と――

 ダンッ! と床を激しく踏む音だけが空しく響いた。

 悪魔はその場からかき消え、いつの間にか黒いもやが目の前に広がっていた。


 それは、あっという間に巨大な恐竜の頭のような形へと変化していった。

「グがが、アアアアアおおおッ!!」

 恐竜の頭が吠え、鋭い牙が生えたあぎとが、竜一を噛み砕こうと襲いかかってきた。


 竜一は、両手を上げて上顎の牙を握りながら、下顎の牙が少ない部分で踏ん張った。両手両足で上下の顎が閉まらないよう支えているような感じだ。


「力が完全ならお前らなどに後れは取らぬのだ。こんな奥の手まで出させおって……」

 恐竜の顎の奥から、悪魔が言った。


「むう……」

 竜一の体が震え、体の色が薄くなっていく。


「死神! 竜一が危ないぞ。時間切れなんじゃないのか?」

「ああ。ちょっと待ってくれ」

 死神は竜一に駆け寄ると、一緒に顎の中に入り込み、四つん這いで何やら探し始めた。


「あった……」

 死神はそう言うと、

「悪魔め。苦し紛れにこんな術を使いやがって……」と呟いた。


 パアン

 音を立て、死神が手のひらを叩く。


 一瞬で、恐竜の顎がかき消え、札のようなものが死神の手に残った。札には、三角形と円を組み合わせた図形や、見たことのない文字が、規則的に描かれていた。


 竜一が尻餅をつく。

「この借りは必ず返す。お前たちの大切なものも全て台無しにしてやる。覚えていろ……」

 悪魔の負け惜しみのような言葉が、風に乗って消えていく。


 同時に、地獄のような原色の景色が消え、古びたアパートの部屋へと戻っていった。


 その途端、竜一の体が光の粒子へと変化し始める。色もかなり薄くなっていた。

「ギリギリ、間に合ったか? もう少しで霊体そのものが消えてしまうところだったな」

 死神が呟く。


 竜一が死神の顔を見た。

 死神が頷くと、竜一も頷き、体の全てが光の粒子となってオレの体へ入っていった。


「虎徹よ。言いにくいことがあるのだが……」

「何だ? とりあえず、邪霊の巣は潰せたんだよな?」


「ああ。それはそうなんだが……実は約束していた竜一を元の体に戻す件だが、すぐには無理になった」


「どういうことだ?」

「竜一の魂の力がゼロに近くなってしまってな。今の状態で、竜一の体に魂を戻すと、竜一はたちまち死んでしまうんだ」


「何だって!?」

 確かに、悪魔との戦いで竜一の霊体の色は薄くなって今にも消えそうになっていたが……。


(まあ、そういうことなんだそうだ。もう少し、お前の中にいてやるよ……)

 すぐに竜一の声が頭の中で響いた。


「解決策は考える。だから、もうしばらく待ってくれ」

「それは……しょうがないな」

 オレはニヤリと笑うと、死神を見上げた。


「私はここを封印し、悪魔が戻って来られないようにする。お前はどうする?」

「そうか。オレは家に帰るよ。もう疲れた」


「それは、そうだろうな……」

 死神が目を細め、オレを眺めた。


「何だ?」

 何かを言いたげな死神に訊ねる。


「いや、また、近いうちに会いそうな気がすると思ってな」

「そうか? もう勘弁して欲しいが、竜一の魂を元に戻せるようになったら来てもらわないとな」

 オレは笑って、言葉を続けた。


「ところで、あんた、名前はないのか?」

「名前?」


「ああ。ただの死神じゃ味気ないじゃないか……名前くらいあるんだろ?」

「我々の習慣でな、基本的には他人に名前は教えぬのだ」


「なんでだ?」

「魔の者が真の名を知ると、呪いに使うためだ。そのため全ては教えられぬのだが、一部だけ……教えよう……。私の名はルイだ」


(るい? 何だか、女みたいな名前だな)

 竜一が小さな声で呟いた。


「どうした?」

 オレが変な顔をしたのに気づいた死神が訊いた。


「竜一がさ、女みたいな名前だってさ」

「日本だと、そうなるか……」

 死神が苦笑いをした。


「それじゃ、ルイさん。またな」

 オレはそう言うと、アパートの部屋から外に出た。いつの間にか日は落ち、辺りは薄暗くなっていた。


 階段を降りて敷地から出ると、家へ向かって歩き出す。


(虎徹。よくやったな)

「竜一も凄かったぜ……」

 竜一と言葉を交わしながら歩く。


 あんなに、竜一と離れたかったはずなのに、今はどうでもよくなっていた。

 空にはいつしか、細い上弦の月がかかっていて、オレの影を道路に長く伸ばしていた。



 それから、どうやって自分の家まで帰ったのか、全く覚えていない。とにかく気がつくと、オレはねぐらの祠に戻っていた。


 体にはこれっぽっちも力は残っていなかった。

 オレは冷たい石の床に横たわった。

 その途端、深い闇の底に沈んでいくかのように、オレは眠りについたのだった。

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