第19話 邪霊の巣(1)

 死神と訓練をした日から三日間、オレはほとんどを寝て過ごした。修行のダメージが中々抜けきらなくて、動く気にならなかったのだ。


 飯も近くのゴミ箱で漁って済ませていたのだが、

(クレージュに行ってみないか?)と言う竜一に、

「そろそろ美味いものも食いたい気分だったしな」と返し、オレは出かけることにした。


 結果的にそういうことになってしまったが、本当はそこまで気乗りしていたわけではなかった。何となく勢いで返事してしまい、引っ込みが付かなくなったというのが本当のところだ。


 この日は、何かが変だった。

 空気が違うというのか、何かふわふわとした感じがするというのか。


 見かけない犬が突然吠えてきたり、小鳥の糞を踏んづけてしまったり――そんなことが幾つも起こったのだ。祠の周辺で、こんな目に遭ったことは今まで一回も無い。


 オレがぼうっとしていて本調子でないだけなのかもしれないのだが、何だかしっくりとこない、そんな感覚がとげのように引っかかっていた。


 クレージュに行く道も気がつけば、いつもと違う道を歩いていた。確かに、こっちからでも行き着けるのだが、なんでわざわざ遠回りの道を選んでしまったのか。


 港の海鳥の鳴き声を遠くに聞きながら歩くと、アパートやマンションが建ち並ぶエリアにさしかかった。


 潮の香りを嗅ぎながらアスファルトの道を歩いていく。暖かい日の光が気持ちよかった。


 すると、途中で視線が吸い寄せられるかのように、右横に持っていかれた。それは、まるで何か目に見えない磁力に引きよせられたかのようだった。


 そこにあったのは、古い木造の二階建ての白いアパートだった。白いペンキは所々剥げていて、何の変哲もない見た目だが、何かが違った。


 なんで、これが気になったのか――?

 オレは違和感の正体を確かめようと、首を傾げてアパートを見つめた。


 すると、どこから現れたのか、オレの飼い主だったさっちゃんと同じくらいの背格好の女の子が、アパートの方へと走っていくのが見えた。


 トン、トン、トン、トン……

 女の子が外階段を上って二階へ上がっていく。


 さっきまで誰もいなかったような気がしたが、いつの間に現れたのか?

 オレは更に強くなる違和感を感じながら、階段を上る女の子を見つめた。


 雰囲気や姿がさっちゃんに似ていたせいもあるのかもしれないが、オレの目は、女の子に引きつけられるようにその背中から離れなかった。


 ヒゲが勝手に微かに動いた。

 やはり、何かがあるような気がする。

 オレは顔を前足で撫でると、足を踏み出した。


 外階段の下まで来ると、アパートを見上げる。そこで、また奇妙なことに気がついた。アパートの上空に、黒い渦巻き状の雲が浮かんでいたのだ。


 オレはその何とも不気味な雲に違和感を感じながらも、階段に足をかけた。

(虎徹。何とも嫌な感じがするな)


「ああ」

(あの子が気になるのか?)


「そうだな。あの子もだが、このアパートがおかしいような気がしてな」

 竜一と言葉を交わす。竜一も気になっているのか、それ以上、オレに何かを言うことはなかった。


 ここで引き返し、大人しくクレージュを目指すべきだったのかもしれない。だが、オレは女の子を追いかけずにはいられなかったのだった。


 オレは忍び足で足音を立てないように外階段を上りきった。

 通路の端から奥まで見渡すが、どこかの部屋に入ったのか、女の子はすでにいなかった。


 すると、一番奥の部屋のドアが開いているのが見えた。

 キリキリと、視界が軋むような感覚がした。

 空気が淀み、気温が下がる。


 ドアが微かに動き、

 ぎっ、ぎっ、ぎっ……と、鳴った。


 オレは息を殺し、そっとドアに近づくと、入り口からのぞき込んだ。

 むせるような生臭い匂いに、背中の毛が一斉に逆立つ。そこで見たのは、信じられないような光景だった。


 女の子が床に倒れ、背中に包丁が突き立てられていたのだ。生き物のように真っ赤な血が、体の下からゆるゆると這い出してくる。


 オレは慌てて女の子のそばまで駆け寄ると、刺さった包丁を口で引き抜き、顔をそっと舐めた。


(むごいことをするな……)

 竜一が呟き、オレは無言で頷いた。


 さっちゃんではなかった――オレは不謹慎にもほっとしていた。冷静に考えれば、あれからかなりの年月が経っているのだ。


 さっちゃんも、あの頃と同じ背格好であるはずはないのだ。しかし、女の子に対するいたたまれない気持ちは、オレの中で溢れそうに一杯になっていた。


 女の子の顔をさらに舐めた。純粋に、少しでも痛みが減ってほしいと思っての行動だった。


 女の子の目が薄く開いた――と思った途端、大きく開いた。目の端が切れ、血がにじむほど大きく開く。


 同時に首筋の毛が逆立ち、顔のヒゲが大きく動いた。

 俺は前に跳ぶと、転がるように後ろを振り向いた。


 そこには髪がぼさぼさで、汚い灰色のトレーナーを着た太った男が包丁を振り上げていた。下は汚いジーパンをはいていて、足は裸足だった。


 犯人は、こいつか!?

 指紋とフケでべとべとに汚れた眼鏡越しに、目が合う。


「しゃああッ!!」

 爪を伸ばし、威嚇する。だが、同時に、男の持つ包丁が飛んできた。


 素早くその攻撃をかわすと、オレは男の脂ぎった皮膚を引き裂こうとした。

 すると、あり得ないことが起こった。


 太った愚鈍な男の動きが突然、もの凄いスピードになったのだ。

 今までいたはずのところに男がいなくなり、二mは離れたところにいた。男はニヤリと笑う。


(おい。こいつ……おかしいぞ。これまでの邪霊憑きとは感じが違う)

「ああ」

 オレは奥歯を噛みしめ、背中を丸めると飛びかかる体勢を取った。


 すると、突然、誰かがオレの背中を押さえた。

 隣に死神がしゃがんでいた。


「なぜ、ここにいる?」

「お前こそ、何でいるんだ?」

 死神の不思議そうな声に、オレはそう返した。

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