第2話 虎徹
焼き魚の残りを食べ尽くすと、オレは上機嫌で歩き出した。
腹いっぱいで幸せだった。
しばらく歩いて居酒屋のポリバケツに飛び乗る。そして、喉を鳴らしながらくつろいでいると、オレはふとあることに気がついた。
居酒屋だいすけ、Barすみれ、コインランドリーWash King、ラーメン一龍……。
飲み屋街の看板の文字が読めるのだ。
ネオンで光る看板やペンキで描かれた看板。それらの文字の読み方や意味が分かる。
竜一の知識か――。直感でオレは悟った。
「今日、会社でクソ係長が、偉そうに言いやがってさ……」
「あんま、気にすんなって……」
呆然としているオレの前を二人の若い男が愚痴を言いながら、通り過ぎていく。二人とも酒を飲んでいるようで、強いアルコールの匂いを漂わしていた。
オレはポリバケツの上から飛び降りると、道を歩いた。
「隣の課のかわい子ちゃんがさ……」
「あー、あいつ。可愛いよなあ」
今度は違う男たちがそんな話をしながら通り過ぎていく。
「人のしゃべっている内容が分かる……」
オレは呟いた。
文字が読めて、人の言葉が分かるってことは、それは、つまり、普段人間が読んでいる本や新聞なんかも読めるし、時折窓から流れてくるテレビの内容も分かるってことか。それって、生きていく上でとても役に立つんじゃないのか。
ふと、自分の頭の中が妙にクリアになっていることに気がつく。
明らかに今までと違う。一度に多くのことを考えられるっていうのか、順序立てて考えられるって言えばいいのか――
要するに、竜一の魂がオレに入ったことで、頭がよくなったってことなのか。
現金だが、さっきまでの悩ましい気持ちがすっかり晴れていくのをオレは感じていた。
スッキリした気分でスキップしながら、いつもの裏道へと入っていくと、オレは微かに牝猫の匂いがすることに気がついた。湿ったかびの匂いに混じって、甘美な体臭が漂ってくる。
匂いのする方を見ると、建物の影からこっちを見ている牝猫が見えた。
その子は体をくねらせ、
「なああおお……」と、甘ったるい声を出して近づいてきた。
真っ白でほっそりとしたかわいい牝の猫で、エメラルドグリーンの瞳が印象的だった。しっぽを真っ直ぐにピンと立てて、喉をゴロゴロと鳴らしている。
「にいいいい」
オレは興味なさそうに鳴き、ふんっと首を振る。本当に興味がないわけじゃない。大体こんな態度を取った方が上手くいくからしているだけなのだ。
すると、案の定、牝猫はオレの傍らに来て体を擦り付けてきた。上目遣いにオレを見上げる。
オレは牝猫と目を合わせると、頬をすりあわせ首筋をペロリと舐めた。
腹も一杯だし、かわい子ちゃんとよろしくやるのもいいかと思っていると、体の芯が震え、勝手に右手が動いた。
風を切って、オレのパンチが牝猫の顔ギリギリをかすめる。
牝猫はびっくりして跳びすさった。
なんでだ……!?
オレが驚いていると、
(おい、虎徹! 軟派なことするな!)と頭の中で声が響いた。
「お前、竜一か? オレの中で寝ちまったんじゃないのか? なんで邪魔するんだ?」
(知るか……とにかく誰彼、構わず女を引っかけるのは趣味じゃないんだ)
竜一がそう言った途端、勝手に前足の爪がむき出しになった。
牝猫はそれを見ると、さらに後ずさった。
「ち、違うんだ!」
オレは必死に言いつくろったが、牝猫は少しずつ後ずさり、そしてきびすを返すと、向こうへと歩き去って行った。
「おい、竜一!」
ついさっき、自分の中に人間がいることをこれはこれで悪くないと思ったばかりだったが、オレのやりたいことを邪魔されるのは我慢ならない。
「お前! 勝手に何てことをしてくれてんだ!?」
オレは叫んだ。
だが、竜一はしん、として反応しない。
また、寝やがった。ふざけんな。馬鹿! オレは心の中で毒づいたが、全く反応は無かった。
この状態を悪くないと思っていたが、そう簡単なことでもないらしい。できれば、早く外に出て行って欲しいが、どうすればそうなるのか見当もつかない。
オレは深くため息をつくと、また歩き出した。
オレは酔っ払ってくだを巻いたり、大声を上げたり、歌を歌ったりしている人たちを横目に歩いた。
飲み屋街のシンボル的存在である大銀杏の下にある石の祠を目指す。この祠がオレの住処だが、どんな酔っ払いでもここに悪さをする人たちはいなかった。それだけ、みんな大銀杏に愛着があるのだろう。
しばらくして大銀杏にたどり着くと、夜空と一緒に拡がるような枝振りを眺めた。
オレは周りを見回し、誰にも見られていないことを確認すると、銀杏の根元にある石の祠に素早く滑り込んだ。
石のひんやりとした足触りを感じつつ、奥に進む。そして、床の上にたまった銀杏の葉の上で体を丸めた。
「今日は大変な一日だったぜ。まったく……」
ブツブツと文句を言いながら、目をいったん瞑る。
人の歩く気配もなくなり、辺りはいつの間にか静かになっていた。
「うにゃおうっ!」
一瞬の間を開けて、大声で叫ぶ。
近くを通り過ぎている人がいたら、びっくりするほどの大声だった。
だが、竜一からは何の反応も無い。
オレはまた大きくため息をついた。
何だか、気持ちが逆立っていてすぐに眠れそうになかった。竜一が牝猫とのことを邪魔したからに違いない。
妙に冴えた頭を振りながら、またため息をついた。
はあーあ。早く出て行ってくれないかな。
オレはあくびをすると、一度目を開いて、また瞑った。
すると――
ドドン、ウォン、ウオオン!
ブオゥ、ボウ!
突然けたたましいバイクの排気音が鳴り、夜のしじまを破った。
クウオーーンと犬の遠吠えのような甲高い音を立て、バイクが遠ざかっていく。
(こいつは、
竜一が寝ぼけたような感じで、オレの頭の中で呟くのを感じる。
「おい。竜一……」
念のため、呼びかけたが反応は無い。たぶん、すっかり寝ているんだろう。
仲間の名前かな……。まあ、こいつだって元に戻りたいよな――
オレはため息をつくと、もう一度目を瞑った。
遠くから、風に乗って酔っ払いが歌う声が微かに響いてくる。
銀杏の枝葉が揺れる音にゆったりと身を任せていると、覚えのある甘い匂いがすることにオレは気づいた。
体を起こして、祠から顔を出す。すると、すぐそこに、あの可愛い真っ白な牝猫が優雅な曲線を描いて座っていた。
「にゃおん」
「みゃう」
思わず声をかけると、笑顔で返事をする彼女と目が合った。
視線を通して、彼女の熱い思いがオレに届く。
やった!
小躍りすると、そっと外に出る。オレは竜一には気づかれないよう静かに、静かに、牝猫の元へと駆け寄った。
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