第5話 一刻も

千賀子の上司である良人が、ビルに入ったまま出てこない。

外で待っている所員の1人が、しびれを切らした。

「僕、行って見てきます」


それが聞こえたかのように、タイミング良く、良人がビルから出てきた。

どうやら暗がりで苦労していたらしい。

足元にも落下物があったようだ。


良人が言った。

「あちこち散乱しているけれど、無視して。入ったら、自分のカバンなどを急いで手にして、すぐ外に出てきてください。中は、危険ですから」

階段幅の狭いビルなので、2人ずつに別れて入っていった。


昼間なのに暗がりの事務所は、怖かった。

暗がりの中を手探りで進む。

怪獣でも通り過ぎたかのような事務所の散らかりように

皆、言葉を失う。

なんとか自分のコートと、バッグ、そして携帯電話を無事見つけた。

そうしている時も少し大きな余震が続き、心臓がバクバクする。


急いで事務所から出た。

千賀子の頭の中に、今月末まで申告期限であった、担当会社の決算の事が浮かぶ。


見透かしたように良人が言った。

「これだけの震災です。国は特措を出すでしょう。仕事は気にしないでください。皆さんは、私の連絡がいくまで休みとします。くれぐれも帰り道、気をつけてくださいね」


そうだ。一刻も早く、帰らねば。

千賀子は車通勤をしていた。

目の前の道路の状態を考えると、別な方法をとるべきか。

…落ち着け、落ち着け。

冷静に考えよう。


きっと他の交通手段もマヒしているだろう。

今日だけじゃない。しばらくは、大変な事になるだろう。

車は、どうしても必要だ。


この選択が、本当に正しいかは分からない。だけれど、決断しなければならない。

こんな時の決断は、身体が震える。



最終的に、千賀子は車で帰宅する事にした。

何台か、目の前をゆっくり走行する車両もいたことが、決断した大きな理由だ。


同僚の女性も乗せた。

できる限り、細心の注意でゆっくり走行した。


10分ほど運転してこの町を出ると、大通りだ。

千賀子と同僚は、目の前の光景に驚いた。


今まで見たことのない位の沢山の人達が、歩道を歩いている。

人、人、人だ。


信号機は全く機能していない。

車両はゆっくり、順々に交差点を横断していく。我先にという人は誰も居なかった。

途中では警察官が交通誘導してくれた。


同僚を送り、なんとか自宅へ帰り着いた。

一気に力が抜けた。

家に入るのが、こわい。

車の中で、ラジオをかける。


想像を超えた被害が、電波を通じて伝わってきた。

家屋倒壊、火災発生などの言葉が何度も繰り返されている。


時男の安否が知りたい。

ああ、時男に、どうか繋がって。


携帯電話を何度もかけ直し、鳴らした。


……………


支店長と時男の2人で、取りあえず自分達の作業するためのスペースを確保した。


「支店長、通信手段が」

「ああ、恐らく通信規制がかかっているんだ。電話の基地局や交換機に負荷がかかるからな」

「だとすると、何度もかけ続ければ、繋がる可能性がありますよね」

「非常時の消防や救急、警察の邪魔にならないようにしなければならない」

「インターネットはどうでしょうか」



そうだ、SNSだ。情報収集で、役に立つかも知れない。

時男は複数の病院関係者と繋がっていた。


あれを活用しよう。

外界との連絡手段も、目処がつきそうだ。

そう思った時、時男の携帯電話が鳴った。


驚いて手にすると、妻の千賀子からだ。



「もしもし、千賀子か。無事か」

「時男さん、私は大丈夫よ。家に先ほど着いたの。貴方は、怪我はしなかったの」


2人とも相手の無事を確認すると、安堵のあまり力が抜けてしまった。


時男が無事だった。それだけで嬉しかった。

かけがえのない人なのだと改めて感じた。

千賀子は車の中で、子供のように泣きじゃくった。


いつ、電話が切れるか分からない。

時男は帰れないかもしれない事と、家が危険な時は、すぐに避難するように言った。


正味3分間の会話。

大げさじゃなく、いつ今度は話ができるか分からない。


最後に千賀子は、愛してる、と時男に伝えた。だから、無事でいて。

そして、通話が終わった。



千賀子に、力が戻ってきた。

時男が無事帰ってきた時に、休ませてあげたい。

家を片付けなきゃ。



そうだ。愛ちゃん。

学校はどうなったのだろう。


アパートに様子を見に行った。

愕然とした。

愛のアパートの一階部分が浸水している。



最初は、水道管が破裂したのかと思った。

が、それは津波の海水だと後から知った。


ここから海岸線までは、遥かに遠いのに。

信じられなかった。


膝まである道路の海水を、千賀子は名前を叫びながら進んだ。



愛の部屋のある2階からは返事がなかった。


愛ちゃん。どこにいるの。


急いで携帯電話を鳴らした。

繋がらない。


……………


長い夜が明けた。

これからの事を考えると、言い知れぬ不安が、底無し沼のように心に広がる。


愛は、ほとんど眠れなかった。

ただ、朝になると千賀子おばさんと連絡がとれた。

お寺の名前を伝えると知っているらしく

車で迎えに来てくれることになった。



住職は、優しくもてなしてくれた。

愛は自分の故郷の話をした。

この地震で、連絡のとれない家族の事を、涙を流しながら話した。


住職は静かに聴いていた。

そして、紙に何か書いて、愛に渡した。




延命十句観音経


観世音

南無仏

与仏有因

与仏有縁

仏法僧縁

常楽我浄

朝念観世音

暮念観世音

念念従心起

念念不離心



「不安な時はこれを唱えなさい」



愛は、お経の意味は知らないが、大切にしまった。


~~~~~~



「おばちゃん、ありがとう」

心細かった愛は、しゃべる度に涙ぐむ。

愛の心の状態を思うと、千賀子は胸が詰まった。

隣の座席に座っている愛の頭を、くちゃくちゃに撫で回す。

「無事で良かった。昨日眠れなかったでしょう」

「うん。でもお寺の人が良くしてくれて」

「本当に良かった」


千賀子は、家に向かう車の中で、愛のアパートも一階が浸水している事を話した。

そして、アパートに行き、衣服などを持ってきた。


「さぁ。これからはここで暮らしましょう。遠慮はなしよ」

千賀子は家に連れてきた。


昨日のうちに、できる限りの片付けを千賀子はしていた。

倒れた電子レンジ、ポット、リビングボードのお気に入りのカップも床で割れていたのを片付けた。


幸いにも寝室は無事だし、客人用の部屋も被害はない。


ただ、電気、ガス、水道などのライフラインは全滅だ。


鍋などを食べるときに使っていた卓上型ガスコンロがある。水さえあれば、なんとかなりそうだ。


2人は冷蔵庫に作り置きしておいた食べ物を食べた。


「ねぇ、おばちゃん。おじさんは大丈夫なの」

「時男は、大丈夫よ。落ち着いたら帰ってくるから安心して」

「私のお父さんお母さんやみんなは無事かな」



その質問には、答えられなかった。

簡単な事を言ってしまって、愛をもしかしたら傷つけてしまうかもしれない。



黙って頭を撫でた。


……………


時男は、地震当日の夜をビルの中で過ごした。

時男のオフィスのフロアには、休憩室として、和室があったので、そこで休んだ。


時男は、考え込んでいた。

先程、連絡の取れた神戸支店から、あまり芳しくない情報がもたらされたからだ。


愛の故郷の、K市の被害情報だった。


~~~~~

沿岸部は、壊滅的な被害の模様。

津波の他、かなりの広範囲で火災が発生しているようだ。

~~~~~

支店長と時男は、K市にある市立病院、沿岸部にある診療所や病院に、連絡をし続けけた。


……どこも、連絡は取れなかった。


時男の住んでいる市の被害もかなりあったが、複数の病院関係者と連絡が取れている。


愛ちゃんのご両親や御家族は無事なのだろうか。

嫌な予感がした。



休憩室で支店長が話し始めた。

「昔、俺は別な場所で大震災に遭ったんだよ。人生において、2度も大震災に遭遇するとはな」

「あの、神戸のですか」

「ああ。母を亡くした」

「そうだったんですか。知りませんでした」

「確かにあの時、俺は震災を憎んだり、やるせない気持ちになったよ。だけど、そこから、自分の気持ちを前に歩ませなければいけないのに気付いたんだ」


支店長は、自らの体験した震災がまだまだいかされていない事を残念そうに話した。



時男の会社は、手術室や様々な所で使用する無影灯を主に取り扱う。デリケートな機器だ。被災した病院で壊れたりしている可能性がある。

今回の地震で手術を必要とする怪我人も、多数出ていることだろう。


幸いにも、神戸支店には何台かあるので、何かあったときは、そこから調達する事にした。


「この会社で働いて良かったよ。震災の被害を受けた人々に、少しでも力になってあげられるからな」

「亡くなったお母様もきっとみています」

「ああ、そうだな。親孝行になれば良いがなぁ」



時男は、そんなに歳の離れていない、この支店長を尊敬していた。

陰で画策したり、上から目線で語る事のない、人間味のある人だからだ。


共に仕事仲間としてだけではなく、人生の中の大切な時間を共有できる人だ。

自分は本当に恵まれた環境にいるのだと、改めて思った。



「時男くん、明日の朝には自宅に戻ってくれ。御家族も心配していることだろう」

「ありがとうございます。一旦帰宅して、すぐ戻ってきます」

「…すまない。ありがとう」


朝になり、時男は歩いて自宅へと向かった。



改めて下界におりてみる風景は、惨憺たる光景だ。

自宅に戻った時、無精髭の生えた時男を見て、千賀子は泣きそうになった。

時男の背広を、心込めて脱がせた。


疲れを取ってもらうお風呂もシャワーもない。

せめてもの残り物のおかずを時男に差し出した。


時男は、それを美味しそうに食べてくれた。



先の見えない闘いだ。


時男は、目の前にいる愛を見つめた。

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