第2話 夢を追いかけて
1月。
世間の多くの人達は、正月休みも終わり、緩やかな時間を過ごしているだろう。
会計事務所に勤める千賀子は、少し苛立っていた。
確定申告の季節だ。
税務署への提出は2月からだが、会計事務所では、年明けから、その準備に向けて大忙しになる。
千賀子の上司である税理士の田中良人は、名前そのままの、温厚な良い人である。
さて?
温厚な良い人という表現は、誉め言葉になるか?
いやいや、場合によってはそうとも言えない時がある。
手こずりそうな個人事業主やらを、面倒見よく沢山引き受ける。
その上、相場より安い顧問料にするので、口コミで広まっていくのだ。
大概において、手のかかる小口の関与先は、千賀子の出番となる。
関与先は、領収書の金額をよく誤記入する。
他の関与先でも、帳簿が合わなかったりするのはしょっちゅうだ。
それを根気よく正解を導き出すのは、かなり疲れる作業である。
トイレに行き鏡をみると、眉間に縦しわのくっきり入った、口角の下がった自分がいた。
……ふぅ。
……だって、あそこのMさんったら、スーパーの領収書まで、たくさん経費にいれてくるんだもの。いくら説明しても直らない。お菓子や煙草代、なんでもありだ。
それだけではない。
この鏡の私の顔は、色々な不満の溜まった顔だ。
今朝も、夫の時男は、何も家事を手伝ってくれない。
何もせず、テーブルの席に座っている時男に悪意がない事を、千賀子は本当は分かっているのだ。
でも、私が時間に追われてあたふたしているのを見たら、こちらから声をかけずとも
手伝ってくれるものではないだろうか。
イライラしていた千賀子は、よそったご飯茶碗を少し乱暴にバン!と、時男の前に置いた。
時男も、嫌な気持ちだろう。
…………
負の感情は負を招く。
こんな時こそ気持ちの切り替えが大事だ。
こんな時は、千賀子は気合いを入れる。
茨木のり子の『自分の感受性ぐらい』を
そらんじるのだ。
~ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな~
……今日は、帰宅したらリフレッシュタイムだ。
少し疲れただけ。心をクレンズしよう。
大きく背伸びをして、またデスクに戻った。
事務所は先生を含めて五人いる。
それぞれが黙々と仕事をする。
息をする音が聴こえてきそうな静寂な空間。
聞こえるのは、パソコンのキータッチ音と電卓の音、鉛筆の音だけだ。
…さぁ、集中して。今、手掛けているこの関与先を片付けたら、今日は早く帰ろう。
ふと、千賀子の携帯電話が震える。
そっと覗くと、夏海からのメールだった。
……何かしら?
急ぐ用件なら、メールではなく、電話をかけて寄越すだろう。
後で帰宅したら返信しよう。
確定申告も勿論あるが、千賀子の担当会社の月次巡回監査がある。
…あ!今日はK社に訪問予定であった。
失念していた千賀子は慌てて出ていった。
…………
「ただいま。遅くなっちゃった。」
定時にあがろうと思っていたのだか、思いのほか手こずってしまった。
今から晩御飯の支度だ。急がないと。
慌てて小走りでリビングに入ると、美味しそうな香りがする。
夫の時男がにこやかに立っていた。エプロンをつけて。
「お帰り。疲れたろ。今日は、俺がカレー作ったよ。結構上出来だ」
千賀子は、朝の出来事を思い出した。
私、八つ当たりをしたのに……
どうしようもなく申し訳ない気持ちになった。
カレーをお皿に盛り付けながら、ボソリと時男が言った。
「…俺たち、2人きりだものな。助け合わないといけないよな。」
……時男は、ちゃんと分かってくれている。
私も、手伝って欲しいと、これからは言葉にだして素直に言おう。
心が、ほっこり温まるのを感じた。
鍋のところに立つ時男の背中を、後ろから抱き締めた。
……2人きりも、悪くない。
時男の作ったカレーライスは、とても美味しかった。
今は、ネットでも料理を取り扱っているのもあるし、作るのが楽しかったと言ってくれた。
今夜の夕食は、会話も弾んで楽しい。
…………
「あ!そうだ。夏海からメールきていたんだわ」
テーブルに置いていた携帯電話を手にして、メールをひらいた。
『ちかちゃん、お久しぶりです。元気にしていましたか?今度、我が家の愛がR学園を受験する事になったの。その事でお願いがあります。お時間のある時、会いにいきたいんだけど良いですか』
「あなた、なっちゃんから、今度会いたいって」
「平日は、忙しいから駄目だろ。土曜日か日曜日に、うちにきてもらえばいいさ」
「そうよね。」
「なっちゃんのところの愛ちゃん。R学園を受験するらしいわよ」
「ほう……だとすると、音楽科だな。」
「我が家に下宿する話かしら。我が家は共働きだから、難しいわね」
「なっちゃんも、それは分かっているさ」
千賀子は、夏海に返信のメールをした。
『なっちゃん、お久しぶりです。愛ちゃん、もうそんな歳になったのね。月日が経つのはあっという間だわ。今度の土曜日に、是非我が家にお越しください。会えるのを楽しみにしています』
さて、どんな話がでるのだろう。
先ずは、会ってみないことには、だ。
……………
約束の土曜日。
愛と両親の3人でやってきた。
お土産にアワビと、塩ウニを持ってきてくれた。
漁村では、売るには小さいアワビなどは、海にカゴを吊るしていれているのだ。人にあげたりする時にそこから出してつかう。
まだ活きている新鮮なアワビは高級品だ。
塩ウニは、保存がきくように加工した練りウニだ。これもパックされたものをくれた。
2人暮らしの千賀子達には、多すぎる量だ。
「なっちゃん、悟さん。こんなに沢山ありがとう。会社の人にも少し、お裾分けしてもよいかしら」
「そのつもりで、持ってきたんだから、好きにつかえ」
相変わらず愛想のない顔で、悟がぶっきらぼうに言う。
夏海はニコニコしている。
早速、リビングのソファーに座ると、夏海が話してきた。
「ねぇ、ちかちゃん。メールでも書いたけど、今度、愛がR学園を受験するの。」
「愛ちゃん、音楽科にいくの?凄いじゃない。頑張ってね」
愛がはにかみながら、小さく頷く。
本当に愛らしい子だ。
「それでね、今日は、ちかちゃんと時男さんにお願いがあって」
居ずまいを正して、時男のほうを向いた。
「愛のアパートを、時男さん達の近くに借りようかと思うの。2人とも共働きなのはわかってるの。ただ、身内が近くに居るだけでも安心だから。どうか、よろしくお願いします」
「なんぼしても、愛がいきてぇって言うんだ。よろしく頼む、な」
夏海と、悟がそう話したあと、愛が言った。
「千賀子おばちゃん、おじさん、わがまま言ってごめんなさい。愛、どうしてもR学園に行きたいの。よろしくお願いします」
時男が、微笑んで愛に言った。
「愛ちゃん。大歓迎だよ。いつでも何かあったら、遠慮しないでおいでね」
その言葉を聞いた愛の両親は、安堵の表情を浮かべた。
後は愛の試験の結果待ちだ。
五人は、前祝と称して、駅前のホテルの日本料理店で食事をし、遅くまで談笑した。
……………
そして、愛の試験発表日。
愛の合格を、沢山の人が喜び祝福した。
アパートも、千賀子達の近くに程なく見つかり、引っ越しも順調に進んだ。
卒業式、入学式……。
目白押しのメモリアルディ。
愛は、幸せの絶頂にいた。
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